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既読は“25:61”——最期の一日を延ばすメッセージ  作者: 東野あさひ


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第4話「声が描く地図」

 朝、カップの湯気を見つめながら、私は昨夜の三行を頭の中で並べ替える。

 きこえる/しらせるな/みてて。

 “知らせるな”は、世界に向けた拡散を止めろということ。けれど“みてて”は、私に視界で導けと告げている。相反するようで、不思議と筋が通っている。


 時雨しぐれが窓辺で丸くなり、しっぽだけ規則正しく揺らす。猫のその一定の拍に合わせて呼吸を整え、私はノートの見出しに線を引いた。


 《声の地図——地名が描く輪郭を確かめる》


 ——ボイスメモが付ける保存名は、ただの行き先じゃない。道筋の提案だ。

 そう思うと、これまでの地名がひとつの図形のように頭に浮かんだ。東栄橋、矢田第三クリニック、白妙公園。

 地図アプリでざっくり結べば、川筋に沿ったゆるい弧になるはずだ。


 私はスマホを机に伏せ、出勤の支度をする。実験は生活に収めて行う——それが、私の決まり。


 *


 午前のラッシュがおちつくと、影浦玲生かげうら・れおが、背もたれに肘をかける癖のまま、私に視線を寄越した。


 「外縁からの報告。昨夜から今朝にかけて、近隣の自販機でコイン詰まり報告が三件。踏切の黄色延長が二箇所。区の掲示板のRSSが時刻ズレで一時停止」


 私はうなずきながら、返却本の帯を整える。

 「主観からは、今朝は静か。体調、普通よりちょっと上。心拍、安定気味」


 玲生はメモの角で机をとん、と叩いた。

 「図書情報室の大きい地図、休憩時間に少し貸して。針で穴を開けない範囲でね」


 「地図?」


「**地名を重ねたい**。東栄橋、矢田第三、白妙公園——感覚で円弧だと言ったけど、**実測**したい」



 知らせるなという警告が胸の裏で冷たく光る。

 けれど、外縁ルールの範囲だ。ログと座標だけ、中身には触れない。

 私は小さく頷いた。


 *


 昼前、児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと呼吸ぶん揺れた。

 画面には何も出ない。けれど、下書きフォルダの青い点が増える。


 【下書き保存】——まわって


 まわって?

 私は視線を上げた。窓の外、図書館の庭にある時計台の針が、ほんの少しだけ遅れているのに気づく。

 回すな、じゃない。“回って”だ。迂回しろ、という意味にも読める。


 迷う時間は短いほうがいい。

 私はボイスメモを開き、録音を始める。

 エアコンの低い帯域、遠い車の音、その上で小さな点音が一定間隔で跳ねる。ピッ、ピッ、ピッ。

 昨日の東栄橋の時より、さらに遅い拍。弱い。

 保存を押す。

 【保存:潮見しおみポンプ場】


 川沿いの設備。市のHPで見たことがある場所だ。

 私は事務連絡をひとこと残す。「掲示用の画びょう、外に買いに行きます」


 玲生は「外縁稼働」と短く笑ってうなずいた。


 *


 潮見ポンプ場は、川に突き出たコンクリートの箱みたいだった。柵の向こうで、大きなポンプが腹に響くような低音を吐いている。

 人影はない。ふと、柵の足元の排水溝の格子が、片側だけ浮いているのが目に入る。

 私は本能的にしゃがみかけて、そこで踏みとどまる。

 さわるな。

 装置や回路に触れない。それが夜に告げられた境界線。

 代わりに、私は近くの土に落ちていた小枝を拾い、格子の浮いた角に斜めに目印のように差し入れてみせた。

 離れた場所から見ても異物と分かる角度で。

 そのままの姿勢で、周囲に目を走らせる。

 川縁の小道の先から、黄色い作業ベストの人が二人、歩いてくるのが見えた。

 「点検でーす。あれ、格子、浮いてる?」

 私は柵越しに、小枝を指さし、立ち上がる。

 「ここ、危ないかも」

 作業員の一人が礼を言い、工具で固定し直す。その間ずっと、ポンプの低音は腹の底で波のようにうねっていた。

 終わるのを見届けて、私はその場を離れる。

 ポケットで、スマホが一度だけ震えた。


 【下書き保存】——いい

 【下書き保存】——いき


 息。

 胸の中で、小さく整う音がした。


 *


 図書館に戻ると、玲生が大きな地図の前で待っていた。

 「地図、貸出カードみたいにログを付けよう。日付、時刻、地点。ピンは打たない、透明付箋で縁だけ囲う」


 外縁流の工夫は、滑稽なほど慎重だ。でも、その慎重さに、私は救われる。

 私は透明付箋に、細い線で弧を描いた。東栄橋から矢田第三、白妙公園、そしてさっきの潮見ポンプ場。

 四つを結ぶ線は、やはりゆるやかな弧になって、川の流れに沿っていた。

 「流域に沿った経路だね」

 玲生が地図を見つめる。

 「“声の地図”は、水の筋をなぞってるのかもしれない。電力のバックアップや通信の経路も、川沿いに設備が多い」

 私は頷く。

 装置に触れるな、という警告は、たぶん、そういう網のどこかに、25:61のからくりが潜んでいるからだ。


 「今のところ、“知らせるな”の線は守れてる?」

 玲生の問いに、私は少し間を置いて答える。

「うん。共有するのは位置と時刻だけ。目的や内容は、私の中で止める」

 「それでいい。外縁は風景だけ読む」


 そのとき、閲覧テーブルの上の吊り下げ照明が、一瞬だけ微かに明滅した。

 空調の吹き出し口から、かすかな高音が混じる。

 世界の息継ぎは、小さく、しかし確かに続いている。


 *


 閉館のアナウンスを流していると、カウンターに一人の少年が小走りに近づいてきた。

 制服。胸の名札に見覚えがある。東栄橋で会った子だ。

 「あの、この呼吸のやつ、ありがと、ございました」

 ぎこちない敬語。頬はまだこわばっているけれど、目は昨日よりずっと澄んでいる。

 「よかったね」

 「保健室の先生に数え方教えてもらいました。四つ吸って、六つ吐くやつ」

 私は笑って頷いた。

 その瞬間、彼のポケットのスマホがぴと鳴り、通知パネルが一瞬だけ白む。時間は17:01。

 微細なノイズ。

 観測と導線は、思いがけない場所で交差する。

 私の胸の内側で、拍がひとつ、柔らかく跳ねた。


 *


 夜。

 帰り道に寄ったスーパーのレジで、店員が「値引きシールの印刷が遅延して」と謝っている。そのあいだ、店内BGMが半音だけ下がって聴こえた。

 世界は今日も、少し背伸びしながら正時に戻ろうとしている。


 部屋の扉を開けると、時雨が走ってきて、足に体を巻いた。

 「ただいま」

 ミルクの匂い。ソファの背のへこみ。小さな生活の形が、私を人の世界に留めておく。

 私はスマホをテーブルに置き、ノートを開く。

 《主観ログ・第四夜》

 ・昼:潮見ポンプ場。格子の浮き→目印で可視化。既読「いい」「いき」

 ・地図:川に沿う弧。流域=設備網の筋

 ・共有:座標・時刻のみ(外縁ルール維持)

 ・気づき:迂回まわって=装置に触れずに結果へ導く


 ケトルを沸かしながら、ふと、実験の誘惑が再び首をもたげた。

 ——機内モードで25:61は来るのか。

 ——Wi-Fiを切ったら? 電源を落としたら?

 喉の奥で、さわるなが冷ややかに鳴る。

 私はその誘惑を、湯気と一緒に流し込む。

 命を賭けない種類の観測だけをやる。

 それが、今の私の境界線。


 テーブルの上で、時雨が耳をぴんと立てた。

 来る。

 私は息を整え、指先を膝の上で組む。

 部屋の空気が、一拍だけ深くなる。


 25:61。

 画面の上で、青い泡がふたつ湧いて、間を置いて沈む。

 既読:蒼真

 下書きが、連続で現れては薄く光る。


 【下書き保存】——ちず

 【下書き保存】——ひがし

 【下書き保存】——のぼる

 【下書き保存】——さがるな


 地図。東。のぼる。下がるな。

 私は机の端に広げた地図に目を落とし、川の上流のぼりに指を置く。

 下がるな——川下に向かうな。上流へ。

 私は“ボイスメモ”を開き、録音を始めた。

 ノイズの底に、今日いちばん弱い拍がある。

 かすれるぐらい薄いのに、確かに助けを求めるテンポ。

 保存名が自動で埋まる。


 【保存:朝島あさじま取水堰しゅすいぜき


 堰。

 水の筋の上流。

 私は上着を羽織り、スニーカーをつっかける。鍵を取り、時雨に顔を寄せる。

 「すぐ、戻る」

 彼は目を細め、窓辺に跳び上がる。耳は立ったまま。


 *


 夜の堰は、闇の奥で水だけが白く動いていた。

 ゴウ、と低い連続音。

 堰の手すりの向こう、水面に流木がからみ、吸い込み口の網に引っかかっている。

 私は掴まりそうになった手すりから、慌てて手を離す。

 さがるな。さわるな。

 私は足元の砂利を踏んで音を立てる。

 堰の脇の詰所から、人影がひとつ、こちらに顔を出した。

 「どうかしました?」

 私は指だけで、光の下の詰まりを示す。

 職員が懐中電灯を向け、眉を寄せる。

 「——助かりました。直します」

 長い柄の道具が取り出され、網にからんだ流木が浮かされ、引き寄せられ、外される。

 水の音が、少しだけ澄んだ。

 私は深く息を吸う。

 その瞬間、スマホが短く震えた。

 【下書き保存】——いきた

 生きた。息が通った、の“息”とも読める。

 私は胸の内側で、固かった石が砕けて土になる感覚を覚えた。


 踵を返そうとしたとき、堰の上流側、暗がりに小さな人影が動いた。

 自転車を押す、小柄な影。

 ハンドルが震え、前照灯が水面に細い帯を描く。

 「道、こわい……」と、小さな声。

 私は距離を保ちながら、声だけで方向を指し示す。

 「橋まで上に。坂を登って、左へ。街灯がある道」

 「……はい」

 影はゆっくりと上へ進む。

 私は堰の下流へは目を向けない。下がるな。

 彼女の前照灯が角を曲がるまで、私はじっと立っていた。


 *


 帰路、川べりの遊歩道の非常灯が一灯だけ消えているのに気づいた。足元が暗い。

 私はスマホのライトを地面ではなく、対岸の樹冠に向けて一瞬照らす。

 反射した薄い光が、私の足元を柔らかく縁取る。

 装置を動かさず、視界を借りる。

 帰宅して扉を閉めると、時雨がまっすぐ来て、喉の奥で小さく鳴いた。

 私は靴を脱ぎ、台所の椅子に腰をおろす。

 スマホをテーブルに置くと、画面に遅れて青い泡が現れ、沈んだ。

 既読:蒼真

 下書きが、一行増える。


 【下書き保存】——ごめん


 まただ。

 私の胸の中で、応える言葉は見つからない。

 誰に対しての「ごめん」なのか。

 私か。世界か。彼自身か。

 分からないまま、私はノートを開く。


 《声の地図(更新)》

 ・地名は川に沿って上流へ展開。湧点=設備の詰まり/視界での迂回で解消

・“まわって”“のぼる”“ひがし”=方向指示の語彙

 ・知らせるなを遵守:共有は座標と時刻のみ

 ・結果:息が通る→「いき」「いきた」

 ・リスク:装置に直接触れないこと/下流(下がる)へ行かない


 書き終えても、青い残像は消えない。

 私はスマホを両手で包み、目を閉じ、呼吸を数える。

 四つ吸って、六つ吐く。

 観測者は祈る。

 祈りは、世界に向けた命令ではない。私の内側の姿勢を正時に戻す手つづきだ。


 どれくらいそうしていただろう。

 時雨がソファの背で耳を立て、私の膝に飛び乗った。

 その重みが合図みたいに、胸の拍が静かになる。

 私は片手で猫の背を撫で、もう片方でスマホの画面を指先でなぞる。

 冷たいガラスの向こう、どこかで誰かの今日が少しだけ整って、私の明日が一枚、薄く延びた。

 それが、今夜のすべてだった。


 ——既読が、鳴る。

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