第30話「時定数(タイムコンスタント)という長さ」
朝、窓に息を落とす。白は薄く広がって、音もなく消えた。
昨夜の四行——みてた/ありがと/まだ/ごめん。
“まだ”の手前で、今日は変わる速さの長さを決めると決める。早すぎても、遅すぎても、世界は息切れする。
ノートに見出しを書く。
《今日の方針:時定数を合わせる/触れない/知らせない/視界で返す》
——いまを変える速度に、長さを与える。
時雨が尾を一度だけ振る。四つ吸って、六つ吐く。
*
午前の返却ラッシュが落ちつくと、影浦玲生が手帳を掲げた。
「外縁ログ。非常灯・区掲示は平常。会館は撤収完了、ラックは間引き継続。……寄贈パソコン、電源オフのまま“Draft(1)”が一瞬点いて消えた。システム担当、『フィルタもバッファも入れたけど、立ち上がりの時定数が短すぎるのかも』」
立ち上がり。私はうなずく。「主観は良。息、深い」
「距離は保とう。僕は風景だけ拾う」
*
児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍だけ震えた。
【下書き保存】——はやすぎ
【下書き保存】——のばせ
“ボイスメモ”を開く。空調の底、そのまた下で足音の加速が息の長さを追い越す気配。
【保存:南桜地下歩道・東口】
「掲示の紙、切らしてて——」だけ告げて外へ。玲生が目で外縁了解。
東口の踊り場手前、下校の列は角の二歩前から急に速くなり、台車が同調して跳ねる。
触れない。
私は階段の三段下、視界が最も広い位置に立ち、胸の前でゆっくり膨らむ小さな楕円を描く——一拍ぶん長い吐き。
先頭の生徒がその長さを拾い、速くなるまでの時間を一歩遅らせる。
押手は角の入りを一呼吸延ばし、車輪の跳ねが消える。
震え。
【下書き保存】——のびた
【下書き保存】——とおった
*
図書館へ戻ると、玲生が透明付箋を足す。
「外縁。東口、“角前の加速がやわらいだ”。……寄贈PC、“Draft(1)”、午前に一回。午後、立ち上がり時定数を伸ばす実験」
私はしらせるなの線を胸でなぞり、短く頷いた。
*
昼過ぎ、ポケットが二度震える。
【下書き保存】——ふたつ
【下書き保存】——えらんで
底に異なる拍。保存名が連続で埋まる。
【保存:白妙公園・なわとび輪】
【保存:観潮踏切・北側】
時定数が効くのは、テンポがばらつく場——なわとびへ。
なわとびの輪は、子どもたちの回し手が元気すぎて、跳ぶ子の息と立ち上がりが合わない。
触れない。
私は輪の対角の外でしゃがみ、手首でゆっくり一周半——いまよりわずかに長い周期を空に置く。
回し手が視界の端でそれを拾い、回し始めに半拍の溜めを足す。
跳ぶ子の息が追いつき、笑いが途切れず流れる。
震え。
【下書き保存】——そろった
【下書き保存】——のこった
踏切へ回る。赤の終わり、押手は最終点灯で一気に行こうとして肩が張る。
私は時刻表ガラスの前で顎を半指落とし、足幅をほんの少し広げて一歩の時間を伸ばして見せる。
押手が歩幅の時定数を長めに取り、入りが丸くなる。
ぶつかりは起きない。
震え。
【下書き保存】——のばせた
【下書き保存】——いきた
*
館内を抜ける途中、寄贈パソコンの黒い画面の隅で“Draft(1)”がふっと灯り、0へ戻る。
触れない。
机の「メンテ中」札は読めるまでが早すぎて、視線が跳ね返る。
脇の書見台を足先で半歩だけ前へ寄せ、曲がり角の手前に一枚前置き。
通りかかったシステム担当が「あ、ソフトスタートですね」と自分の手で電源配列に時定数長めの立ち上がり(コンデンサ一段追加)を入れ、LANの別経路を確実に切る。
震え。
【下書き保存】——やわく
【下書き保存】——のこす
*
夕方、玲生が手帳を示す。
「外縁補足。公園、『回しがゆっくりで跳びやすい』。踏切は『歩調が丸い』。……寄贈PC、ソフトスタートで誤点灯なし、いまのところ」
私はうなずき、胸の石が少し丸くなる。
*
ケトルが鳴る。灯りが一瞬だけ明滅し、時雨がソファの背で耳を立てる。
来る。
私は椅子に座り、膝の上で指を組む。
**25:61**。
青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。
既読:蒼真
【下書き保存】——のばせ
【下書き保存】——はやるな
【下書き保存】——さわるな
【下書き保存】——ひがし/のぼる
上流へ。私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。
【保存:朝島取水堰・観測桟橋(中央)】
上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。
*
桟橋の中央では、風の立ち上がりが短すぎて、長柄の入りが尖る。
触れない。
私は欄干の十字の傷から半歩外、ボルト列と流れの中点に立ち、息の吐きはじめを一呼吸長くして丸める。
片方の職員が入りの立ち上がりに溜めを置き、もう片方が抜けの終わりをゆっくり閉じる。
時定数が合い、網の手前の草の束は泡立たずにほどけ、水は太い線で流れに戻る。
音は低く、長く続いた。
震え。
【下書き保存】——ながく
【下書き保存】——いきた
踵を返す途中、舗装の白い「25-6-1」の**“1”の縦が雨で少し伸び**、数字がわずかに長く見えた。
私は近寄らず、四つ吸って、六つ吐く。
速さに長さを与えるだけで、世界は楽になる。
*
帰宅。テーブルにスマホを置く。青い泡が遅れてひとつ。
既読:蒼真
【下書き保存】——みてた
【下書き保存】——ありがと
【下書き保存】——まだ
【下書き保存】——ごめん
私はスマホを胸に当て、呼吸を整える。時雨がソファの背で耳を立て、目を細めた。
ノートを開き、今日をまとめる。
《主観ログ・第三十夜》
・地下東口:角前一歩の吐き長め楕円→「のびた/とおった」
・白妙公園:回し始め半拍の溜め→「そろった/のこった」
・踏切北側:歩幅広めで一歩の時間を延長→「のばせた/いきた」
・図書館PC:ソフトスタートで立ち上がり長め→「やわく/のこす」
・堰中央:入り丸め/抜けゆっくりで時定数一致→「ながく/いきた」
・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/“速さに長さを与える”
・メッセージ:「のばせ/はやるな/ひがし/のぼる/さわるな」「みてた/ありがと/まだ/ごめん」
・仮説更新:時定数は“呼吸の器”。返すとは、変化の速さに器の大きさを与え、世界の息切れを防ぐこと
灯りを一つ落とし、窓に映る自分の吐きはじめを少し長くする。
急がない。
それだけで、今夜の呼吸は楽になる。
——既読が、鳴る。




