表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
既読は“25:61”——最期の一日を延ばすメッセージ  作者: 東野あさひ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/35

第3話「観測者という距離」

 朝の空気は、背筋にまっすぐ入ってくる。

 私はベッドの上で膝を抱え、胸に当てたスマホの冷たさを感じていた。

 昨夜の最後の一行——ごめん。

 私が誰かを助けたからか、さわってしまったからか。答えは来ない。来ないのに、心臓の内側で脈だけが返事を続ける。


 洗顔をすませて鏡をのぞく。目の下の影は浅い。指先に力が戻っているのが分かる。

 キッチンでケトルが湧くあいだ、私はノートの見出しに線を引いた。


 《今日の方針:観測者の距離を決める》


 ——近づきすぎると揺らぐ。

 ——離れすぎると、見失う。


 昨夜のさわるなは、境界線を示した。装置、回路、仕組みに触れるな。けれど、人の側にある詰まりは、縫い直してもいい——たぶん。


 スープを飲みながら、私はスマホの機内モードを試す誘惑にかられた。

 25:61は、私の端末が世界とつながっていないときにも“鳴る”のか?

 けれど、喉まで来た好奇心を私は飲み込む。

 実験は、命を賭けない種類から始めよう。


 *


 図書館。午前の返却ラッシュがすぎたころ、影浦玲生かげうら・れおが椅子の背にもたれ、私の方を覗き込んだ。


 「ねえ、久遠さん。昨日の午後、南桜交差点で自転車こいでた子が助かったって話、商店街の掲示板で見たよ。ボランティアがチェーン直してくれたって」


 胸の奥がひやりとする。

 あれは、ただの親切のはずだ。けれど、ニュースや掲示という観測を経てしまうと、現象の一部として吸い上げられてしまいそうで怖い。


 「……いい話だね」


 私はそれだけ言った。

 玲生は紙コップの紅茶を置き、「話、聞くよ?」と、ほんの少しだけ声を落とした。

 その目は、私が何かを抱えているのを、前から知っていたみたいに優しい。


 距離。

 私は息を吸い、吐く。

 全部は言えない。それでも、端だけなら。


 「夜中に、時々……既読が来るの」


 「既読?」


 「亡くなった人から」


 言ってしまった。

 玲生の目が、息を止める前の湖みたいに深くなる。笑わず、驚きすぎず、ただ言葉を置く場所を空けてくれる視線。


 「体調が、少しだけ良くなる。その代わり、世界のどこかで小さな不具合が起きてる気がする。……仮説だけど」

 「なるほど。観測したら頻度が変わったり?」

 私は頷いた。

 「だったら、観測のしかたを決めよう。君は現象の中心にいる。僕は周縁でログを取る。君の端末や下書きには手を出さない。時間帯と、君の体感、街での細かいニュースのログだけを拾う。距離を保って、触らないで見る」


 玲生は、机の引き出しから小さなノートを一冊取り出し、表紙をぱらりとめくって見せた。

 「観測者の距離、ね。じゃあ、コードネームを決めよう。君は“主観”。僕は“外縁”。」


 ばかばかしいごっこ遊びみたいな命名なのに、胸のあたりがすっと軽くなった。

 「……ありがとう」


 「礼はあとででいいよ。たとえば、連載小説のモデルにさせてくれるとか」


 「連載?」


 「うん。“図書館で起きる奇妙な統計”とか」


 冗談めかした口調。けれど私は、こういう軽さに救われる。

 ノートの表紙に、「主観/外縁 観測ログ」と書いた。


 *


 午後。児童コーナーで絵本を並べていると、ポケットのスマホが微かに震えた。

 昼だ。

 画面には何も出ない。だけど、下書きフォルダに、青い点がひとつ増える。


 【下書き保存】——おくる?


 送る。何を。誰に。

 背筋が伸びる。

 私はボイスメモを開き、録音を始めた。

 ざわめく子どもたちの声。ページを繰る紙の音。

 その底で、一定間隔の高音が鳴る。ピッ、ピッ、ピッ。

 病院のモニター音に似ているが、少し速い。

 録音を止める。

 保存名が自動で埋まった。


 【保存:東栄橋(再)】


 再。

 喉が鳴った。

 東栄橋。最初の夜に、制服の少女と出会った場所。


 玲生に目で合図し、私はカウンター裏から短く告げた。「掲示の紙、切らしてたから、ちょっと外の文具店に」

 彼は「外縁了解」と小さく言って、端末に何か記録した。


 *


 東栄橋。昼の光で川の面が浅く揺れている。

 橋の中央に制服の少年がひとり、欄干にもたれて立っていた。

 肩が上下し、息が荒い。胸元には学校の名札。指先はこわばって白い。

 私は数歩手前で止まる。

 さわるな。

 そうだ、装置には触れない。けれど、声なら。

 「大丈夫?」

 少年の目がこちらを向いた。驚きと、警戒と、少しの助けが混ざった目。

 「どこか、痛い?」

 「……ちょっと、苦しいだけ」

 私は距離を保ったまま、呼吸を合わせるように数を数えた。

 「四つ吸って、六つ吐こう。ほら、一緒に」

 吸う、吐く。

 彼の肩の上下が少しずつ小さくなる。

 「保健室、行ける?」

 「……行ける。行きます」

 頷いた彼が踵を返す。足取りはまだ不安定だったが、欄干から離れた。

 その瞬間、ポケットのスマホが一度だけ震えた。

 下書きに、一行。


 【下書き保存】——おくった


 送った。何を? 息を? 拍を?

 私は欄干の冷たさに手を置き、短く礼を言うみたいに、指先で金属を軽く叩いた。


 *


 館に戻ると、玲生がノートに時刻を書き込み、私の顔を見て小さく頷いた。

 「外縁メモ:昼の十二時四十一分、区役所サイト、お知らせ欄が更新失敗。同時刻、近隣のジムで心拍モニターの過検知報告。あと、商店街で猫が五匹同時にくしゃみ」


 最後のは明らかに冗談だろう、と私は笑った。

「真壁先生に数値をとってもらいたいな。君の体調、客観の軸がほしい」

 「今週金曜に予約がある」

 「じゃあ、ログはそこまで続けよう。観測の負荷を上げすぎない範囲で」


 玲生が端末を閉じる。

 そのとき、館内放送の小さなノイズが混ざった。

 ピー、と一瞬だけ高音。

 私は思わず天井のスピーカーを見上げる。

 ——世界の息は、思ったよりも近い。


 *


 閉館後、私はスーパーではなく、少し遠回りをして帰った。

 大通り沿いの小さな電器店の前を通り過ぎると、店主が「また夜にだけタイマーがズレるんだよ」と嘆くのが耳に入る。

 歩道橋の上で、信号機の黄色が通常よりも長い気がした。

 ログに書く。書きすぎない程度に。

 部屋に戻ると、時雨しぐれが玄関まで来て、鼻先で私のすねを押した。

 「ただいま」

 彼は尻尾を立て、いつもの場所に戻る。

 テーブルにスマホを置く。時間は二十二時を回ったところ。

 私はノートの端に、新しい欄を作る。


 《問い:既読は“救いの導線”を先に示すのか、後から検証させるのか》

 ——昨夜は矢田第三クリニックの前に来てから、既読が鳴った。

 ——昼の東栄橋(再)は、録音→地点→救い→既読。

 順序は一定ではない。

 ならば、私は待つ。

 25:61の前に、余計な波を立てない。

 私がやるべきは、呼吸を整えておくこと。


 ケトルが鳴る。

 お湯を注いだカップの香りが立ち上がる。

 そのとき、リビングの照明が一瞬だけ明滅した。

 時雨が、ソファの背でものすごく小さく耳を立てる。

 私は呼吸をゆっくりにする。

 来る。


 25:61。

 画面の上で青い泡が一度、湧いて消えた。

 既読:蒼真

 下書きが、連打されたみたいに三行増える。


 【下書き保存】——きこえる

 【下書き保存】——しらせるな

【下書き保存】——みてて


 しらせるな。

 喉がひやりとした。

 玲生に全部は話すな、ということだろうか。

 それとも、世界に向けて発信するな、という警告か。

 私はノートを開き、外縁の分だけ共有する、というルールを自分に書き直す。

 みてて。

 私は親指で“ボイスメモ”を開く。

 赤が点滅。

 ノイズの底に、小さな拍が潜む。

 前より遅い。

 弱い。

 電車の踏切が遠くで鳴る。

 録音を止める。

 保存名が埋まる。


 【保存:白妙しろたえ公園】


 白妙公園。住宅街の中にある、小さな遊具とベンチのある公園。

 私はコートを羽織り、鍵を取り、小声で時雨に言った。「すぐ戻る」

 彼は目を細め、窓辺に跳び上がる。耳は、立ったままだ。


 *


 白妙公園は、人影もなく、街灯の光が砂場を四角く切り取っていた。

 ベンチに、紙袋がひとつ。

 近づく。

 中には、子ども用の吸入器と、説明書。

 砂場の縁に、小さな足あとが乱れている。

 私は耳をすませる。

 遠くで、せき込む音。

 住宅の明かりの隙間から、細い影が揺れた。

 声を出すべきか、ためらう。

 しらせるな。

 けれど、みてて。

 私は紙袋をそっと持ち、ベンチに分かりやすく置き直した。

 吸入口のキャップを外し、説明書を開いたままにする。

 装置の電源や部品には触れない。

 ただ、目に入る位置に整えるだけ。

 すぐに、住宅のドアが開き、若い母親が息を切らして駆けてきた。

 「よかった……忘れてて……!」

 彼女の腕の中の子どもが、か細い声で泣く。

 私は距離を取りながら、「ここに」と指だけで示す。

 母親は何度も礼を言い、吸入器を抱えて走り去る。

 その背が角を曲がると同時に、ポケットのスマホが短く震えた。


 既読:蒼真

 下書きに、二文字。


【下書き保存】——**いい**



 胸の奥に、静かな熱がひろがる。

 装置に触れない。電源にも。

 必要なのは、視界を通して導くこと。

 私はベンチに腰をおろし、しばらく空を見上げた。

 星は見えない。でも、街灯の光が木の葉に当たって、わずかに揺れている。

 その揺れに呼吸を合わせる。四つ吸って、六つ吐く。

 帰ろう、と立ち上がったとき、背後で小さな足音がした。

 振り返ると、砂場の縁に置いた私のノート——観測ログから、薄い付箋が一枚、風に飛ばされようとしていた。

 私は手を伸ばして、そっと押さえる。

 付箋の端に、私の字でこうあった。


 《観測者は祈る》


 笑ってしまう。自分で書いたのに、ずいぶん気取っている。

 けれど、今はそれしか術がないのだ。


 *


 帰り道。コンビニの前で、店員が外の掲示板に『深夜のPOS更新につき、決済にお時間がかかる場合があります』と貼り出していた。

 世界は息継ぎをしながら、どうにか正時に合わせようとしているのかもしれない。

 部屋に戻る。時雨が窓辺から降りてきて、足首に体を巻きつける。

 私はスマホをテーブルに置き、ノートを開いた。


 《主観ログ・第三夜》

 ・昼:東栄橋(再)で呼吸の伴走。既読「おくった」

 ・夜:白妙公園。装置に触れず、視界の導線を整える。既読「いい」

 ・メッセージ:「しらせるな」「みてて」

 ・外縁観測(玲生):区役所告知失敗/心拍モニター過検知/その他微小不具合

 ・仮説更新:知らせること=広域観測の増幅? 見ること=局所導線の強化?


 ノートを閉じると、胸の奥の拍が静かになっていく。

 スマホは黙っている。

 けれど、25:61の青は、私の視界の端で、いつでも泡立つ準備をしている気がした。

 私は時雨の背を撫で、電気を一つずつ落としていく。

 ベッドにもぐり、天井の四隅に目をやる。

 遠すぎず、近すぎない距離。

 呼吸の数を数えながら、私はゆっくりと目を閉じた。


 ——既読が、鳴る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ