第3話「観測者という距離」
朝の空気は、背筋にまっすぐ入ってくる。
私はベッドの上で膝を抱え、胸に当てたスマホの冷たさを感じていた。
昨夜の最後の一行——ごめん。
私が誰かを助けたからか、さわってしまったからか。答えは来ない。来ないのに、心臓の内側で脈だけが返事を続ける。
洗顔をすませて鏡をのぞく。目の下の影は浅い。指先に力が戻っているのが分かる。
キッチンでケトルが湧くあいだ、私はノートの見出しに線を引いた。
《今日の方針:観測者の距離を決める》
——近づきすぎると揺らぐ。
——離れすぎると、見失う。
昨夜のさわるなは、境界線を示した。装置、回路、仕組みに触れるな。けれど、人の側にある詰まりは、縫い直してもいい——たぶん。
スープを飲みながら、私はスマホの機内モードを試す誘惑にかられた。
25:61は、私の端末が世界とつながっていないときにも“鳴る”のか?
けれど、喉まで来た好奇心を私は飲み込む。
実験は、命を賭けない種類から始めよう。
*
図書館。午前の返却ラッシュがすぎたころ、影浦玲生が椅子の背にもたれ、私の方を覗き込んだ。
「ねえ、久遠さん。昨日の午後、南桜交差点で自転車こいでた子が助かったって話、商店街の掲示板で見たよ。ボランティアがチェーン直してくれたって」
胸の奥がひやりとする。
あれは、ただの親切のはずだ。けれど、ニュースや掲示という観測を経てしまうと、現象の一部として吸い上げられてしまいそうで怖い。
「……いい話だね」
私はそれだけ言った。
玲生は紙コップの紅茶を置き、「話、聞くよ?」と、ほんの少しだけ声を落とした。
その目は、私が何かを抱えているのを、前から知っていたみたいに優しい。
距離。
私は息を吸い、吐く。
全部は言えない。それでも、端だけなら。
「夜中に、時々……既読が来るの」
「既読?」
「亡くなった人から」
言ってしまった。
玲生の目が、息を止める前の湖みたいに深くなる。笑わず、驚きすぎず、ただ言葉を置く場所を空けてくれる視線。
「体調が、少しだけ良くなる。その代わり、世界のどこかで小さな不具合が起きてる気がする。……仮説だけど」
「なるほど。観測したら頻度が変わったり?」
私は頷いた。
「だったら、観測のしかたを決めよう。君は現象の中心にいる。僕は周縁でログを取る。君の端末や下書きには手を出さない。時間帯と、君の体感、街での細かいニュースのログだけを拾う。距離を保って、触らないで見る」
玲生は、机の引き出しから小さなノートを一冊取り出し、表紙をぱらりとめくって見せた。
「観測者の距離、ね。じゃあ、コードネームを決めよう。君は“主観”。僕は“外縁”。」
ばかばかしいごっこ遊びみたいな命名なのに、胸のあたりがすっと軽くなった。
「……ありがとう」
「礼はあとででいいよ。たとえば、連載小説のモデルにさせてくれるとか」
「連載?」
「うん。“図書館で起きる奇妙な統計”とか」
冗談めかした口調。けれど私は、こういう軽さに救われる。
ノートの表紙に、「主観/外縁 観測ログ」と書いた。
*
午後。児童コーナーで絵本を並べていると、ポケットのスマホが微かに震えた。
昼だ。
画面には何も出ない。だけど、下書きフォルダに、青い点がひとつ増える。
【下書き保存】——おくる?
送る。何を。誰に。
背筋が伸びる。
私はボイスメモを開き、録音を始めた。
ざわめく子どもたちの声。ページを繰る紙の音。
その底で、一定間隔の高音が鳴る。ピッ、ピッ、ピッ。
病院のモニター音に似ているが、少し速い。
録音を止める。
保存名が自動で埋まった。
【保存:東栄橋(再)】
再。
喉が鳴った。
東栄橋。最初の夜に、制服の少女と出会った場所。
玲生に目で合図し、私はカウンター裏から短く告げた。「掲示の紙、切らしてたから、ちょっと外の文具店に」
彼は「外縁了解」と小さく言って、端末に何か記録した。
*
東栄橋。昼の光で川の面が浅く揺れている。
橋の中央に制服の少年がひとり、欄干にもたれて立っていた。
肩が上下し、息が荒い。胸元には学校の名札。指先はこわばって白い。
私は数歩手前で止まる。
さわるな。
そうだ、装置には触れない。けれど、声なら。
「大丈夫?」
少年の目がこちらを向いた。驚きと、警戒と、少しの助けが混ざった目。
「どこか、痛い?」
「……ちょっと、苦しいだけ」
私は距離を保ったまま、呼吸を合わせるように数を数えた。
「四つ吸って、六つ吐こう。ほら、一緒に」
吸う、吐く。
彼の肩の上下が少しずつ小さくなる。
「保健室、行ける?」
「……行ける。行きます」
頷いた彼が踵を返す。足取りはまだ不安定だったが、欄干から離れた。
その瞬間、ポケットのスマホが一度だけ震えた。
下書きに、一行。
【下書き保存】——おくった
送った。何を? 息を? 拍を?
私は欄干の冷たさに手を置き、短く礼を言うみたいに、指先で金属を軽く叩いた。
*
館に戻ると、玲生がノートに時刻を書き込み、私の顔を見て小さく頷いた。
「外縁メモ:昼の十二時四十一分、区役所サイト、お知らせ欄が更新失敗。同時刻、近隣のジムで心拍モニターの過検知報告。あと、商店街で猫が五匹同時にくしゃみ」
最後のは明らかに冗談だろう、と私は笑った。
「真壁先生に数値をとってもらいたいな。君の体調、客観の軸がほしい」
「今週金曜に予約がある」
「じゃあ、ログはそこまで続けよう。観測の負荷を上げすぎない範囲で」
玲生が端末を閉じる。
そのとき、館内放送の小さなノイズが混ざった。
ピー、と一瞬だけ高音。
私は思わず天井のスピーカーを見上げる。
——世界の息は、思ったよりも近い。
*
閉館後、私はスーパーではなく、少し遠回りをして帰った。
大通り沿いの小さな電器店の前を通り過ぎると、店主が「また夜にだけタイマーがズレるんだよ」と嘆くのが耳に入る。
歩道橋の上で、信号機の黄色が通常よりも長い気がした。
ログに書く。書きすぎない程度に。
部屋に戻ると、時雨が玄関まで来て、鼻先で私のすねを押した。
「ただいま」
彼は尻尾を立て、いつもの場所に戻る。
テーブルにスマホを置く。時間は二十二時を回ったところ。
私はノートの端に、新しい欄を作る。
《問い:既読は“救いの導線”を先に示すのか、後から検証させるのか》
——昨夜は矢田第三クリニックの前に来てから、既読が鳴った。
——昼の東栄橋(再)は、録音→地点→救い→既読。
順序は一定ではない。
ならば、私は待つ。
25:61の前に、余計な波を立てない。
私がやるべきは、呼吸を整えておくこと。
ケトルが鳴る。
お湯を注いだカップの香りが立ち上がる。
そのとき、リビングの照明が一瞬だけ明滅した。
時雨が、ソファの背でものすごく小さく耳を立てる。
私は呼吸をゆっくりにする。
来る。
25:61。
画面の上で青い泡が一度、湧いて消えた。
既読:蒼真
下書きが、連打されたみたいに三行増える。
【下書き保存】——きこえる
【下書き保存】——しらせるな
【下書き保存】——みてて
しらせるな。
喉がひやりとした。
玲生に全部は話すな、ということだろうか。
それとも、世界に向けて発信するな、という警告か。
私はノートを開き、外縁の分だけ共有する、というルールを自分に書き直す。
みてて。
私は親指で“ボイスメモ”を開く。
赤が点滅。
ノイズの底に、小さな拍が潜む。
前より遅い。
弱い。
電車の踏切が遠くで鳴る。
録音を止める。
保存名が埋まる。
【保存:白妙公園】
白妙公園。住宅街の中にある、小さな遊具とベンチのある公園。
私はコートを羽織り、鍵を取り、小声で時雨に言った。「すぐ戻る」
彼は目を細め、窓辺に跳び上がる。耳は、立ったままだ。
*
白妙公園は、人影もなく、街灯の光が砂場を四角く切り取っていた。
ベンチに、紙袋がひとつ。
近づく。
中には、子ども用の吸入器と、説明書。
砂場の縁に、小さな足あとが乱れている。
私は耳をすませる。
遠くで、せき込む音。
住宅の明かりの隙間から、細い影が揺れた。
声を出すべきか、ためらう。
しらせるな。
けれど、みてて。
私は紙袋をそっと持ち、ベンチに分かりやすく置き直した。
吸入口のキャップを外し、説明書を開いたままにする。
装置の電源や部品には触れない。
ただ、目に入る位置に整えるだけ。
すぐに、住宅のドアが開き、若い母親が息を切らして駆けてきた。
「よかった……忘れてて……!」
彼女の腕の中の子どもが、か細い声で泣く。
私は距離を取りながら、「ここに」と指だけで示す。
母親は何度も礼を言い、吸入器を抱えて走り去る。
その背が角を曲がると同時に、ポケットのスマホが短く震えた。
既読:蒼真
下書きに、二文字。
【下書き保存】——**いい**
胸の奥に、静かな熱がひろがる。
装置に触れない。電源にも。
必要なのは、視界を通して導くこと。
私はベンチに腰をおろし、しばらく空を見上げた。
星は見えない。でも、街灯の光が木の葉に当たって、わずかに揺れている。
その揺れに呼吸を合わせる。四つ吸って、六つ吐く。
帰ろう、と立ち上がったとき、背後で小さな足音がした。
振り返ると、砂場の縁に置いた私のノート——観測ログから、薄い付箋が一枚、風に飛ばされようとしていた。
私は手を伸ばして、そっと押さえる。
付箋の端に、私の字でこうあった。
《観測者は祈る》
笑ってしまう。自分で書いたのに、ずいぶん気取っている。
けれど、今はそれしか術がないのだ。
*
帰り道。コンビニの前で、店員が外の掲示板に『深夜のPOS更新につき、決済にお時間がかかる場合があります』と貼り出していた。
世界は息継ぎをしながら、どうにか正時に合わせようとしているのかもしれない。
部屋に戻る。時雨が窓辺から降りてきて、足首に体を巻きつける。
私はスマホをテーブルに置き、ノートを開いた。
《主観ログ・第三夜》
・昼:東栄橋(再)で呼吸の伴走。既読「おくった」
・夜:白妙公園。装置に触れず、視界の導線を整える。既読「いい」
・メッセージ:「しらせるな」「みてて」
・外縁観測(玲生):区役所告知失敗/心拍モニター過検知/その他微小不具合
・仮説更新:知らせること=広域観測の増幅? 見ること=局所導線の強化?
ノートを閉じると、胸の奥の拍が静かになっていく。
スマホは黙っている。
けれど、25:61の青は、私の視界の端で、いつでも泡立つ準備をしている気がした。
私は時雨の背を撫で、電気を一つずつ落としていく。
ベッドにもぐり、天井の四隅に目をやる。
遠すぎず、近すぎない距離。
呼吸の数を数えながら、私はゆっくりと目を閉じた。
——既読が、鳴る。




