第27話「位相余裕(フェーズマージン)という猶予」
朝、窓に息を落とす。白は薄く広がって、跡形もなく消えた。
昨夜の四行——みてた/ありがと/まだ/ごめん。
“まだ”の手前に、今日は揺れが起きても倒れない猶予を置くと決める。同じ拍でぶつかるから振れる。半拍の余白で受ける。
ノートに見出しを書く。
《今日の方針:**位相余裕**を確保する/触れない/知らせない/視界で返す》
——波の山に山を重ねない。半歩、半拍の遅れで受ける。
時雨が尾を一度だけ振る。四つ吸って、六つ吐く。
*
午前の返却ラッシュが収まると、影浦玲生が手帳を掲げた。
「外縁ログ。非常灯・区掲示は平常。会館は朗読最終日、ラックは間引き継続。……寄贈パソコンは電源オフでも“Draft(1)”が一瞬点いて消えた。システム担当、『戻し経路は入れたが発振気味。位相の余裕不足かもって』」
発振。私はうなずく。「主観は良。息、深い」
「距離は保とう。僕は風景だけ拾う」
*
児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍震えた。
【下書き保存】——ずれる
【下書き保存】——たすけろ
“ボイスメモ”を開く。空調の底、そのまた下に靴音の同調が生まれ、反響が増える気配。
【保存:南桜地下歩道・西口】
「掲示の紙、切らしてて——」だけ残し外へ。玲生が目で外縁了解。
西口は、下校列の踏み下ろしと台車のキャスターがぴたり合って、踊り場で音の山が立ちかけていた。
触れない。
私は手すり影の端に立ち、肩を半指だけ落として吐きの終わりを遅らせる。
先頭の生徒がそれを拾い、踏み下ろしを半拍遅らせる。
台車側は、押手が腕を「先に抜く」ほうへ半拍進める。
山と山が重ならず、反響は鎮まる。
震え。
【下書き保存】——ずらせた
【下書き保存】——よかった
*
図書館に戻ると、玲生が透明付箋を重ねる。
「外縁。西口、“足並みの山が消えた”。……寄贈PC、“Draft(1)”、午前に一回。ログは空白、電源配列の位相を午後に見直し」
私はしらせるなの線を胸でなぞり、うなずく。
*
昼過ぎ、ポケットが二度震える。
【下書き保存】——ふたつ
【下書き保存】——えらんで
底に違う拍。保存名が続けて埋まる。
【保存:白妙公園・鉄棒そば】
【保存:観潮踏切・南側】
位相余裕が効くのは人の輪。公園へ。
鉄棒そばでは、紙芝居の掛け声と、鉄棒の「いーち、に」が同時になって盛りが立ちすぎている。
触れない。
私は輪の対角の外、低い姿勢で片手を胸前に上げ、小さく円を描いて半拍遅らせる仕草を置く。
読み手がそれを視界の端で拾い、オチの直前に半拍だけ空気を入れる。
鉄棒の数えは半歩早めに移り、山と山がずれる。
笑いは膨らみすぎず、最後まで輪郭が残った。
震え。
【下書き保存】——まるく
【下書き保存】——のこった
踏切へ回る。赤の終わりに押手が最後の一押し、歩行の入りと拍が合ってしまう。
私は時刻表ガラスの前、赤が二点灯の段で顎を半指だけ先に落とし、目線を白線内へ早めに誘導する。
押手が前置きとして受け取り、入りを半拍送る。
山は重ならず、すれ違いは滑る。
震え。
【下書き保存】——まにあう
【下書き保存】——いきた
*
館内を抜ける途中、寄贈パソコンの黒い画面の隅で“Draft(1)”がふっと灯り、0に戻る。
触れない。
机の「メンテ中」札が通路に正対しすぎ、視線が正面衝突する。
脇の書見台を足先で半歩だけ斜に寄せ、札を通路に対して半拍ぶんずらして見せる。
通りかかったシステム担当が「あ、位相ですね」と自分の手で電源配列の投入タイミングを片側遅延、LANの別経路を確実に切る。
震え。
【下書き保存】——きる
【下書き保存】——のこす
*
夕方、玲生が手帳を示す。
「外縁補足。公園、『山が重ならないから聞きやすい』。踏切は『ぶつからずに抜けた』。会館は定刻」
私はうなずき、胸の石がすこし丸くなる。
*
ケトルが鳴る。灯りが一瞬だけ明滅し、時雨がソファの背で耳を立てる。
来る。
私は椅子に座り、膝の上で指を組む。
25:61。
青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。
既読:蒼真
【下書き保存】——ずらせ
【下書き保存】——あわせるな
【下書き保存】——さわるな
【下書き保存】——ひがし/のぼる
上流へ。私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。
【保存:朝島取水堰・観測桟橋(中央より下手)】
上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。
*
桟橋の下手は、風と水の周期がわずかにずれて、二人の長柄が共振しかけていた。
触れない。
私は欄干の十字の傷から半歩外、ボルト列と流れの中点に立ち、息の吐き終わりをわずかに遅らせる。
片方の職員が引きを半拍遅らせ、もう片方が入りを半拍早める。
位相余裕が生まれ、面で受ける力が合わない。
網の手前の草の束は泡立たず、遅れてほどけて流れに戻る。
水の音が低い帯域で合流した。
震え。
【下書き保存】——おちついた
【下書き保存】——いきた
踵を返す途中、舗装の白い「25-6-1」の**“6”の尾が泥水で少し延び、「6」でも「b」でもない形に見えた。
私は近寄らず、四つ吸って、六つ吐く。
同じ拍を避けるだけで、世界は壊れない**。
*
帰宅。テーブルにスマホを置く。青い泡が遅れてひとつ。
既読:蒼真
【下書き保存】——みてた
【下書き保存】——ありがと
【下書き保存】——まだ
【下書き保存】——ごめん
私はスマホを胸に当て、深く吸って、ゆっくり吐く。
ノートをひらき、今日をまとめる。
《主観ログ・第二十七夜》
・地下西口:踏み下ろし半拍遅れ/押手半拍先→「ずらせた/よかった」
・白妙公園:オチ前半拍の空気で山を外す→「まるく/のこった」
・踏切南側:二点灯段の前置きで入り半拍送り→「まにあう/いきた」
・図書館PC:掲示の正対を外し、配列を片側遅延→「きる/のこす」
・堰下手:引き遅れ/入り早めの位相余裕→「おちついた/いきた」
・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/“山に山を重ねない”
・メッセージ:「ずらせ/あわせるな/ひがし/のぼる/さわるな」「みてた/ありがと/まだ/ごめん」
・仮説更新:位相余裕は“倒れないための半拍”。返すとは、一致の誘惑から半歩外に立ち、世界の揺れに猶予を与えること
灯りを一つ落とし、窓に映る自分の肩を半拍だけ落とす。
同じ拍に乗らない。
それだけで、今夜の呼吸は楽になる。
——既読が、鳴る。




