第26話「前饋(フィードフォワード)という先手」
朝、窓に息を落とす。白は薄くひろがって、跡形もなく消えた。
昨夜の四行——みてた/ありがと/まだ/ごめん。
“まだ”の手前で、今日は起きる前に揃えると決めた。押して戻すのでなく、生まれる暴れの手前に、ひとつだけ先手を置く。
ノートに見出しを書く。
《今日の方針:前饋で先回り/触れない/知らせない/視界で返す》
——事が起きる前の入口に、静けさを届ける。
時雨が尾を一度だけ振る。四つ吸って、六つ吐く。
*
午前の返却ラッシュが収まると、影浦玲生が手帳を掲げた。
「外縁ログ。非常灯・区掲示は平常。会館は朗読最終日、ラック間引き継続。……寄贈パソコン、電源オフでも“Draft(1)”が一瞬点いて消えた。システム担当、『戻し経路は入れたが、入口側の予見が足りない』って」
入口側。私はうなずく。「主観は良。息、深い」
「距離は保とう。僕は風景だけ拾う」
*
児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍だけ震えた。
【下書き保存】——さきに
【下書き保存】——とどけろ
“ボイスメモ”を開く。空調の底、そのまた下でまだ立ち上がっていないざわめきが、遠くで巻きはじめている。
【保存:南桜地下歩道・東口】
「掲示の紙、切らしてて——」とだけ告げて外へ。玲生が目で外縁了解。
東口の踊り場は、下校の列が階段の影に差し掛かる三歩前で、いつも拍が乱れる場所だ。
触れない。
私は階段の五段目の影に半歩手前で立ち、肩をまだ静かな区間に向けて一度だけ息の形を置く。
先頭の生徒がその前置きを拾い、乱れが始まる前に半歩だけ幅を広げる。
列はそのまま乱れずに影を通過した。
震え。
【下書き保存】——まえで
【下書き保存】——とおった
*
図書館に戻ると、玲生が透明付箋を重ねる。
「外縁。東口、“今日は崩れず”の投稿。……寄贈PC、“Draft(1)”、午前に一回。ログ空白」
私はしらせるなの線を胸でなぞり、短く頷く。
*
昼過ぎ、ポケットが二度震えた。
【下書き保存】——ふたつ
【下書き保存】——えらんで
底に違う拍。保存名が連続で埋まる。
【保存:白妙公園・東ベンチ】
【保存:観潮踏切・南側】
先手が効くのは盛り上がりが予見できる場——公園を選ぶ。
東ベンチでは、紙芝居の山場が来る三枚前。子どもたちの体の角度が、もう前へ傾き始めている。
触れない。
私は輪の対角線の外で本と同じ厚みほどの空のページを指で作り、一枚分だけ先にめくる仕草を小さく示す。
読み手が視界の端でそれを拾い、間を一拍先んじて入れる。
押し出しは起きず、後列の視界が最後まで残った。
震え。
【下書き保存】——まえおき
【下書き保存】——のこった
踏切へ回る。赤の終わりに押手が肩で足しがちなのを知っている。
私は時刻表ガラスの前で、赤がまだ二点灯の段で顎を半指だけ下げ、視線を白線の内側へ早めに落とす。
押手が先の合図として受け取り、最終点灯を待たずに一呼吸自制する。
ぶつかりは起きない。
震え。
【下書き保存】——さきに
【下書き保存】——まにあう
*
館内に戻る途中、寄贈パソコンの黒い画面の隅で“Draft(1)”がふっと灯り、0へ戻る。
触れない。
机の「メンテ中」札は読み終えてから気づく位置にある。
脇の書見台を足先で半歩だけ前へ寄せ、通路に入る前に視界へ入る先頭位置へ支える。
通りかかったシステム担当が「あ、入口側にも掲示ですね」と自分の手でもう一枚、曲がり角の手前に札を出し、電源配列のプリチャージを設定、LANの別経路を確実に切る。
震え。
【下書き保存】——きる
【下書き保存】——のこす
*
夕方、玲生が手帳を示す。
「外縁補足。公園、『最後まで見えた』。踏切は『一呼吸、先に合図があった』。……会館は滞りなし」
私はうなずく。胸の石が少し丸くなる。
*
ケトルが鳴る。灯りが一瞬だけ明滅し、時雨がソファの背で耳を立てる。
来る。
私は椅子に座り、膝の上で指を組む。
25:61。
青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。
既読:蒼真
【下書き保存】——さきに
【下書き保存】——とおせ
【下書き保存】——さわるな
【下書き保存】——ひがし/のぼる
上流へ。私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。
【保存:朝島取水堰・観測桟橋(上手の風上)】
上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。
*
桟橋の上手、今夜は風上から細い突風が周期的に来る。長柄は突風直後に入ると面を取られやすい。
触れない。
私は欄干の十字の傷から半歩外、ボルト列の一歩手前に立ち、風の立ち上がりの半拍前に顎をわずか下げる。
片方の職員が予見の合図として拾い、突風の直前に待ちを置く。もう片方がやみ間の最初に浅く入れる。
網の手前の草の束は泡立たず、やみ間だけでほどけて流れに戻る。
水の音は乱れの前から低く整った。
震え。
【下書き保存】——まえで
【下書き保存】——いきた
踵を返す途中、舗装の白い「25-6-1」の**“2”と“5”の間に薄い小石がひとつ、線を分ける前置きみたいに乗っていた。
私は近寄らず、四つ吸って、六つ吐く。
先手は、命令ではなく気配**でいい。
*
帰宅。テーブルにスマホを置く。青い泡が遅れてひとつ。
既読:蒼真
【下書き保存】——みてた
【下書き保存】——ありがと
【下書き保存】——まだ
【下書き保存】——ごめん
私はスマホを胸に当て、息を整える。時雨がソファの背で耳を立て、目を細めた。
ノートを開き、今日をまとめる。
《主観ログ・第二十六夜》
・地下東口:影の三歩前に息の形→「まえで/とおった」
・白妙公園:空の一枚で間の予見→「まえおき/のこった」
・踏切南側:二点灯の段で早め視線→「さきに/まにあう」
・図書館PC:入口側掲示+プリチャージ→「きる/のこす」
・堰上手(風上):突風半拍前の顎→「まえで/いきた」
・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/“起きる前の入口”に静けさを置く
・メッセージ:「さきに/とおせ/ひがし/のぼる/さわるな」「みてた/ありがと/まだ/ごめん」
・仮説更新:前饋は“静けさの前置き”。返すとは、乱れの手前にやさしい案内を世界へ返すこと
灯りを一つ落とし、窓に映る自分へ半拍早く頷く。
はじまる前に、そっと。
それだけで、今夜の呼吸は楽になる。
——既読が、鳴る。




