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既読は“25:61”——最期の一日を延ばすメッセージ  作者: 東野あさひ


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第2話「代償という名前の影」

 朝の光は、昨日より一段やわらかい。

 私はベッドの縁に腰をかけて、手首の脈を数える。拍の間のひっかかりは、まだある。けれど、深いところまで空気が届く感じがする。

 時雨しぐれが枕元に丸くなり、尻尾だけ小さく揺らしている。昨夜の川風の匂いが、髪から遅れて立ちのぼった。


 ケトルの湯が鳴る間、私はスマホの下書きフォルダを開く。

 【保存:ありがとう】は、そこに残っていた。25:61で保存されたはずの文字が、正時に揃った今でも薄く光っている。他には何も増えていない。

 私は画面を伏せ、スープに口をつけた。塩気が、戻ってきた舌の感覚にやさしい。

 ——延びた一日は、私のものだ。

 そう言い切るには、何かが引っかかる。橋のたもとで震えていた少女。停電のニュース。

 もし、私がもらった一日が、どこかで細かくがされた結果だとしたら。


 出勤の身支度をしながら、私は考える。

 仮説を立てよう。

 ——“延び(エクステンド)”が発生する夜、世界のどこかで小さな不具合が偏って起きる。

 証拠は薄い。統計の素養もない。ただ、音響の人の言葉を私は借りる。「ノイズは世界の息」。息を止めれば、どこかが歪む。

 私はノートの一ページをタイトルで埋めた。

 《25:61——代償の仮説(案)》


 *


 開館前の図書館は、紙の匂いが濃い。

 カウンターに立つ影浦玲生かげうら・れおが、いつもの調子で笑った。


 「久遠さん、おはよう。顔、いい色」


 「照明の機嫌がいいだけ」


 「それ、診断学的には調子がいいって言うんだよ」


 くだらない言葉に、私は救われる。

 開館ベル。返却の列。読み聞かせの準備。午前のピークが過ぎるころ、玲生が紙コップの紅茶を置いた。


 「ねえ、昨日さ。家の向かいのコンビニ、深夜にレジが全部落ちたんだって。電源は生きてたのに、決済端末だけ固まったらしい」


 私は反射的に顔を上げた。

 「何時ごろ?」


 「零時過ぎ。店長がボヤいてた。『日付変わると呪われる』って」


 紅茶の湯気が、少し濃くなったように見える。

 私の中に並び始める点と点。停電、橋、決済の停止。

 「どうかした?」


 「……いや、なんでも」


 言おうと思えば、言える。昨夜のことも、“25:61”も。

 けれど、言葉に載せた瞬間に揺らぐ予感が、喉を塞ぐ。

 私は代わりに、紅茶の縁を指でなぞった。


 午後の静けさ。児童コーナーのソファに忘れられたカーディガンを畳み、落書き帳のクレヨンを揃え、私はバックヤードへ下がった。

 ポケットのスマホが、かすかに震える。

 画面には通知はない。けれど、下書きフォルダに青い点が一つ、増えていた。


 【下書き保存】——みえない


 私は目を凝らす。

 「見えない?」

 思わず口に出した囁きは、紙の箱の中で吸い込まれた。

 みえないのは、何だ。手がかりの場所か、相手の顔か、時間の継ぎ目か。

 私は思い切って“ボイスメモ”を開いた。昼間にこれをするのは初めてだ。

 録音開始。館内の空気は柔らかく、波形は低く揺れる。

 十秒。二十秒。

 遠くの自動ドアの開閉音。その下に、細い擦過音。紙が紙に擦れる音でも、服の裾でもない。金属。

 私は録音を止める。

 保存名が、自動で埋まった。

 【保存:南桜みなみざくら交差点】


 胸が跳ねる。

 地図が頭の中で開く。図書館から歩いて十分。放課後に学生の列が伸びる交差点。

 私は、制服の上に薄手のカーディガンを羽織るように、言い訳を一枚、心に掛けた。

 「館内の掲示板、修理に行ってきます」


 玲生が顔を上げる。「一人で平気?」

 「すぐそこだから」


 背中に視線の温度を感じながら、私は外へ出た。


 *


 南桜交差点は、昼下がりの眩しさで白い。

 近くの自転車店の前に、男子高校生が膝を着いてしゃがみ込み、前輪と格闘していた。

 チェーンが外れて、車輪とフレームの間に噛み込んでいる。

 指に黒い油。目は焦りで赤い。

 私は声をかける。「軍手、使う?」

 ポケットから薄手の手袋を出すと、彼は助かったという表情をして受け取った。

 「遅刻しそうで……でも、もう講習の締め切りで」

 きしむ音。金属の擦過音。ボイスメモの底にあったのは、きっとこの音だ。

 私はチェーンの歯の位置をずらすコツを伝え、工具の角度を少し変えただけで、噛み込みがほどける。

 車輪が自由を取り戻す。

 「ありがとうございます!」

 彼は何度も頭を下げ、軽い音で去っていった。

 その瞬間、ポケットのスマホが一度だけ震えた。

 画面は静かだ。25:61ではない昼。けれど、下書きに小さく、一行が増えていた。


 【下書き保存】——よくみえる


 息が漏れた。

 見えるようになったのは、あの子の視界か、進むべき方向か。

 私は交差点に立ち尽くし、信号の切り替わりに合わせて何度か深呼吸をした。

 もし、今の一件が“延長”の代わりに世界から剥がれかけていた何かを、縫い直したのだとしたら——。


 私はノートに走り書きをした。

 《仮説補足:昼にも“導線”は現れる。25:61以外でも、ボイスメモが地点を指すことがある。救いの規模は小さい。》

 証拠は、まだ薄い。けれど、薄い糸が一本、指に触れた気がした。


 *


 夕方、図書館に戻ると、玲生が入口の掲示を貼り替えていた。

 「さっき、区のサイトが一時的に落ちたって。防災メールが重なってパンクしたらしい。洪水でもないのに変だよね」

 思わず足が止まる。

 深夜に偏るはずだった“不具合”が、日中にもじわじわと滲み出している。

 私の胸に、慎重な警報が鳴る。

 観測。

 知りすぎることは、引き金になるのかもしれない。

 「久遠さん?」

 「うん、貼り替え手伝う」


 閉館。照明が一斉に切り替わる音は、静かな夜の幕開けの合図。

 私はカウンターの内側で、ノートのページをめくる。

 “延びた”感覚は、昨夜ほど鮮やかではない。昼の縫い直しで世界のほつれを少し整えたから?

 理屈は追いつかない。ただ、事実を積むしかない。


 帰路、スーパーで牛乳と果物を買い、エコバッグを肩にかける。

 レジの若い店員が「さっき、一台だけ急にバーコードが読めなくなって」と同僚と話す声が、私の背をかすめる。

 不具合は、濃くも薄くもなる。

 25:61が来る夜の前後に、世界は少しだけ息継ぎを乱す。

 私は歩幅を合わせるように、呼吸を整えた。


 部屋の灯り。時雨が足に体当たりしてきて、鳴き声を一つ。

 「ただいま」

 牛乳を冷蔵庫にしまい、果物を洗い、ナイフを入れる。切り口の白い湯気のような香り。

 いつものルーティンが、私を守る柵になる。柵の向こうで、世界は歪むのをやめない。


 夜十時。

 私はテーブルにスマホを置き、ノートと並べ、ペンを立てる。

 「観測が増えると、現象は変動する」

 恐る恐る、その仮説の一文をノートに書く。

 書いた瞬間、背中に小さな冷気が走る。

 時雨が、ソファの背で耳を立てた。


 25:61。

 音は鳴らない。画面の最上部に、青い泡がひとつ、湧いて沈んだ。

 既読:蒼真

 私は息を止める。

 下書きフォルダに、二行が増えた。


 【下書き保存】——みてる?

 【下書き保存】——さわるな


 指先が凍る。

 さわるな。何に。現象に? 装置に? 誰かの時間に?

 私は机の端でペンを握り直す。

 「……わかった」

 声は出たが、返事の手段はない。

 それでも、返事を求めない祈りの言葉は、部屋の空気に混じってしみ込んでいく。


 次いで、ボイスメモが勝手に開く。

 録音の赤い丸が点滅する。

 私は覚悟して親指を滑らせる。

 夜の部屋のノイズ。ケトルは鳴っていない。冷蔵庫の低い唸り。

 その下に、規則正しい反復音。

 金属が回転し、何かを研ぐような音。――いや、違う。一定の速度で切断する……自動ドアのローラー?

 波形の谷が一瞬深くなり、遠くで甲高い鼻歌の断片。

 私は録音を止めた。

 保存名が、また自動で埋まる。

 【保存:矢田やだ第三クリニック】


 血の気が引く。

 近所の、夜間も稼働する小さなクリニック。

 私は立ち上がる。上着を掴む。

 さわるなの文字が、胸の裏側に貼り付く。

 さわらない、とは何に。

 現象? 装置?

 人には、触れてもいいのだろうか。

 私は時雨の頭を撫で、玄関の鍵を静かに引いた。


 *


 矢田第三クリニックは、表のシャッターが半分降ろされ、奥の自動ドアだけが生きていた。

 待合に人影はない。

 ガラスの向こう、看護師がひとり、受付のパソコンに向かって肩をすぼめている。

 自動ドアのローラーが、ときどき空回りのような音を立てる。ボイスメモの反復音に一致する。

 私は恐る恐る近づいた。

 「すみません、診察は——」

 顔を上げた看護師は、ほっとしたという表情に変わった。

 「すみません、患者さんじゃないですよね……カルテ機の印刷だけが詰まってしまって。急患の方の紹介状を出したいのに、紙が出てこなくて」

 私は頷き、受付の中を見せてもらう。

 プリンターの紙送りローラーに、薄い透明の剥離紙が巻き付いている。ラベル用紙の台紙だ。

 台紙の端をピンセットでつまみ、ローラーを逆回転させると、詰まりがするりと抜けた。

 「これで——」

 看護師が印刷を再開する。

 ガガガッとローラーが鳴り、紙が走り、紹介状が吐き出された。

 「助かりました。救急の子が待ってて……今、近くの橋で転んで手を切ったって」

 橋。夜。私は喉の奥で言葉を飲み込む。

 「急いでください」

 会釈して身を引いた瞬間、私のスマホが一度震えた。

 下書きは、短い二文字で満たされる。

 【下書き保存】——よかった


 帰り道の歩道で、私は空を見上げた。星にはならない微細な光が、都市の空気に混じっている。

 さわるな。

 さわった。

 でも、今のは装置ではなく、人の側にある詰まりだ。世界の息の通り道を、少し通しただけ。

 胸の中で、固い石ころが少し丸くなる。


 *


 部屋に戻ると、時雨が低く喉を鳴らした。

 私は靴を脱ぎながら、玄関の鏡に映る自分の顔を見た。思っていたよりも、強い。思っていたよりも、弱い。

 テーブルにスマホを置く。

 時間は、0:02。

 25:61はもう過ぎたのか、それとも、今夜は遅刻してくるのか。

 私は椅子に座り直し、ノートにペンを置く。


 《代償の仮説(更新)》

 ・25:61の夜、世界の小さな不具合が散る(停電、決済停止、サイト落ち、機械の詰まり)

 ・導線はボイスメモの地名として現れる。昼間にも出る

 ・人に告げるほど、現象は揺らぐ(気配)

 ・「さわるな」は、装置への干渉禁止?/人の救いは可?(要検証)


 書き終えたとき、部屋の空気が浅くひんやりした。

 時雨が、窓辺で耳を立てる。

 来る。

 私はゆっくりと息を吐く。

 画面の最上部に、青い泡が浮かび、二度、明滅した。


 既読:蒼真


 下書きフォルダに、今夜いちばん短い行。

 【下書き保存】——ごめん


 私は目を閉じた。

 許してほしいのは、誰だろう。

 私か。世界か。彼か。

 言葉は宙で形を保てず、静かに崩れる。

 けれど、崩れた粉はいつか土になる。

 そこへ、呼吸を植える。

 私はスマホを胸に当て、ゆっくりと吸って、吐いた。


 ——既読が、鳴る。

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