第17話「底(ノイズフロア)という聴き方」
朝、窓に息を落とす。白は薄く広がって、音もなく消えた。
昨夜の四行——みてた/ありがと/まだ/ごめん。
“まだ”の下に横たわる、聞こえない音を拾う日だと決める。
ノートに見出しを書く。
《今日の方針:**底**を聴く/上げない/触れない/知らせない/視界で返す》
——大きくしない。静けさの底で方向を見つける。
時雨が尾を一度だけ振る。四つ吸って、六つ吐く。
*
午前の返却ラッシュが落ち着くと、影浦玲生が手帳を掲げた。
「外縁ログ。非常灯・区掲示は平常。商店街の会館は避難はしご点検。……寄贈パソコンは電源オフでも“Draft(1)”が一瞬点いて消えた。システム担当は『幽霊キャッシュ+時計ドリフト+“低負荷時の残響”』って言い換えてきた」
私は頷く。「主観は良。息、深い」
「距離、保つ。僕は風景だけ拾う」
*
児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍だけ震えた。
【下書き保存】——しずかに
【下書き保存】——きけ
“ボイスメモ”を開く。空調の底、そのまた下の砂粒みたいな音。
【保存:南桜地下歩道・中間踊り場】
「掲示の紙、切らしてて——」とだけ告げて外へ。玲生が目で外縁了解。
中間踊り場は、通学列と台車の間で靴音が跳ね、小さな反響が増幅しかけていた。
触れない。
私は踊り場の角に立ち、息の抜きで**“間”を置く。
手を振らない。ただ視線を床の擦り傷に落とす。
先頭の子がその静けさを拾い、半拍だけ足を薄くする。
反響の底が静まる**。
震え。
【下書き保存】——しずんだ
【下書き保存】——よかった
*
図書館に戻ると、玲生が付箋を一枚。
「外縁。地下の混み、自然解消。……寄贈PC、“Draft(1)”は午前に一回。ログは空白」
私はしらせるなの線を胸でなぞり、うなずく。
*
昼過ぎ、ポケットが二度震える。
【下書き保存】——ふたつ
【下書き保存】——えらんで
波形の底に違う拍。保存名が連続で埋まる。
【保存:白妙公園・東ベンチ】
【保存:観潮踏切・南側】
底を下げやすいのは人の場——公園を選ぶ。
東ベンチの周りで、紙芝居とブランコとリコーダーの小さな音が重なり、声の細部が埋もれていた。
触れない。
私はベンチから半歩離れ、顎を引いて息を浅くする。
読み手の目がふと落ち、声の立ち上がりが一段低くなる。
同時に、ブランコの子が靴先をほんの少しだけ引く。
底が下がり、語尾が聴こえる。
震え。
【下書き保存】——きこえた
【下書き保存】——のこった
踏切へ回ると、配送の台車が最後の一押しで急いていた。
私は信号にも遮断機にも触れない。
時刻表ガラスの前で肩を落とし、息をさらに浅くする。
台車の靴音が一段静かになり、赤の終わりと歩行の入りがぶつからない。
震え。
【下書き保存】——まにあう
【下書き保存】——いきた
*
戻る途中、寄贈パソコンの黒い画面の隅で“Draft(1)”がふっと灯り、0に戻った。
触れない。
机の「メンテ中」札が低すぎたので、脇の書見台を足先で寄せて、視線の底に入る高さへ支える。
通りかかったシステム担当が「基準の高さにします」と自分の手で札を上げ、LANの別経路を確実に切る。
震え。
【下書き保存】——きる
【下書き保存】——のこす
*
夕方、玲生が短く言う。
「外縁補足。会館の避難はしご点検、静かに終了。SNSで『紙芝居、語尾がきれいに聞こえた』の投稿ひとつ」
私は頷き、胸の石が少し丸くなるのを感じた。
*
ケトルが鳴る。灯りが一瞬だけ明滅し、時雨がソファの背で耳を立てる。
来る。
私は椅子に座り、膝の上で指を組む。
25:61。
青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。
既読:蒼真
【下書き保存】——そこ
【下書き保存】——さげろ
【下書き保存】——さわるな
【下書き保存】——ひがし/のぼる
上流へ。私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。
【保存:朝島取水堰・操作小屋の外(風下)】
上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。
*
取水堰の小屋の外、風下に風が抜け、金属の微かな鳴きが重なっていた。
巡回の二人は落ち着いているが、耳の焦点が高い帯域に吸われている。
触れない。
私は小屋の壁と柵のすきまが作る**“影の底”に立ち、息をさらに浅くする。
片方の職員が影へ目を落とし、低い合図でタイミングを取る。
長柄の入りが静かに沈み、網手前の細い草がほどけて流れる。
水の音が低いところ**で揃う。
震え。
【下書き保存】——しずんだ
【下書き保存】——いきた
踵を返す途中、舗装の白い「25-6-1」が擦れて薄音になっていた。
私は近寄らず、四つ吸って、六つ吐く。
底に耳を置く。
*
帰宅。テーブルにスマホを置く。青い泡が遅れてひとつ。
既読:蒼真
【下書き保存】——みてた
【下書き保存】——ありがと
【下書き保存】——まだ
【下書き保存】——ごめん
私はスマホを胸に当て、深く吸って、ゆっくり吐く。
ノートを開き、今日をまとめる。
《主観ログ・第十七夜》
・地下踊り場:間を置き、底を下げる→「しずんだ/よかった」
・白妙公園:声の立ち上がりを低く→「きこえた/のこった」
・踏切:足音の底を薄く→「まにあう/いきた」
・図書館PC:札を視線の底へ→「きる/のこす」
・堰:風下の影の底で合図→「しずんだ/いきた」
・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/底を上げない
・メッセージ:「そこ/さげろ/さわるな/ひがし/のぼる」「みてた/ありがと/まだ/ごめん」
・仮説更新:ノイズフロアは“静けさの器”。返すとは、底を静かに敷き直し、細部を世界へ返すこと
時雨がソファの背で耳を立て、小さく欠伸をした。
私は灯りを一つ落とし、半拍遅れて呼吸を合わせる。
大きくしない。底で聴く。
それだけで、世界の息は少し楽になる。
——既読が、鳴る。




