第14話「包絡(エンベロープ)という手加減」
朝、窓に息を落とす。白は薄くひろがって、跡形もなく消えた。
昨夜の三行——みてた/まだ/ごめん。
“まだ”の先で、私はそろえすぎないことをもう一度胸に書き直す。
ノートに見出しを引く。
《今日の方針:包絡を整える/立ち上がりを急がせない/触れない/知らせない/視界で返す》
——音も流れも、いきなり最大にしない。入りと抜けの形が秤を静かにする。
時雨が尾を一度だけ振る。私は四つ吸って、六つ吐いた。
*
午前の返却ラッシュが落ち着くと、影浦玲生が手帳を掲げた。
「外縁ログ。非常灯・区掲示は平常。商店街の会館、防災倉庫の搬入で午後に小さい渋滞が出るかも。……寄贈パソコンは電源オフでも“Draft(1)”が一瞬点いて消えた。システム担当、『幽霊キャッシュ+時計ドリフト』説を持続」
胸の裏で薄い氷が鳴る。私はうなずく。「主観、体調は普通より少し上。息、深い」
「距離は保つ。僕は風景だけ拾う」
*
児童コーナーの掲示を貼り替える指先に、微かな震え。ポケットがひと拍だけ揺れた。
【下書き保存】——いきなり
【下書き保存】——おそく
私は“ボイスメモ”を開く。空調の底に、人の靴音が急に膨らんで萎む包絡の乱れ。
【保存:南桜地下歩道・東口】
バックヤードに「掲示の紙、切らしてて」とだけ告げると、玲生が目で外縁了解。
*
地下歩道の東口では、学校帰りの列と、イベント搬入の台車が同時に突入しようとしていた。
触れない。
私は階段の三段下、視界のいちばん広い場所に立ち、片手で下向きの波を描く。
先頭の生徒がそのゆるい曲線を拾い、半拍だけ歩調を落とす。台車が先に抜ける。
流量の立ち上がりが滑らかになり、ぶつかりは起きない。
震え。
【下書き保存】——ゆるんだ
【下書き保存】——いい
*
図書館へ戻ると、玲生が地図に透明付箋を足した。
「外縁。東口の混み、自然解消。……それと寄贈PC、黒画面のまま“Draft(1)”がまた一瞬。ログは空白」
私はしらせるなの線を胸でなぞり、短く頷いた。
*
昼過ぎ、ポケットが二度震える。
【下書き保存】——ふたつ
【下書き保存】——えらんで
波形の底に異なるテンポ。保存名が続けて埋まる。
【保存:白妙公園・砂場側】
【保存:観潮踏切・南側】
立ち上がりを整えやすいのは——公園だ。
白妙公園では、シャボン玉の輪と、鬼ごっこのスタートが同時になりそうだった。
触れない。
私はベンチと遊具の間に立ち、息で二つの小さな合図を作る。
片手の上向きの波——シャボン玉の発泡。
もう片手の下向きの波——鬼ごっこの待機。
お母さんが私の手の形を目の端で拾い、「じゃあ、泡が三つ浮いたら走ろうね」と笑う。
攻めの立ち上がりに緩い包絡が入って、子どもたちの声が丸くなる。
震え。
【下書き保存】——ならった
【下書き保存】——のこった
*
観潮踏切の南側へ回ると、配送の台車が最後の一押しで焦っていた。
私は遮断機にも信号にも触れない。
時刻表ガラスの前で肩を半拍遅らせる。
台車の手が一呼吸引き、赤の点滅の終わりと人の入りが重ならない。
震え。
【下書き保存】——まにあう
【下書き保存】——いきた
*
午後、図書館のパソコン机。黒い画面の隅にふっと“Draft(1)”が灯り、0に戻る。
私は触れない。
机の「メンテ中」札が視線より低い。脇の書見台を足先で寄せ、札が自然に読める高さになるよう支える。
通りかかったシステム担当が「あ、札下がってましたね」と自分の手で直し、電源タップの順番(立ち上がり)を遅く設定する。
震え。
【下書き保存】——おそく
【下書き保存】——のこす
立ち上がりを遅くする。真似の連鎖を起こさないために。
*
夕方、玲生が短く言う。
「外縁補足。商店街会館、防災倉庫の搬入は分割入庫に変更。『一気にやらない』と現場メモ」
私はうなずく。
「主観、拍は静か。触れてない」
*
夜支度。窓の外、河川敷の屋台は昨夜より人が少し多い。
部屋の灯りが一瞬明滅し、時雨がソファの背で耳を立てる。
来る。
私は椅子に座り、膝の上で指を組んだ。
25:61。
青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。
既読:蒼真
【下書き保存】——たちあがり
【下書き保存】——にぶく
【下書き保存】——さわるな
【下書き保存】——ひがし/のぼる
上流へ。私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。
【保存:朝島取水堰・観測桟橋】
上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。
*
取水堰の桟橋では、夜の巡回が交代直後で作業スピードが速すぎた。
私は手すりに触れない。
対岸の反射標識に、スマホのライトを空経由で一瞬返し、肩で遅い波を作る。
先導の職員が半歩だけテンポを落とし、長柄の道具の入りと引き上げの抜けが丸くなる。
網の手前に寄った草の束がほどけ、流れに戻る。
震え。
【下書き保存】——ほどけた
【下書き保存】——いきた
踵を返す途中、舗装の白いマーキングが目に入る。25-6-1。
私は近寄らず、四つ吸って、六つ吐く。
包絡の立ち上がりと立ち下がりだけを心に置く。
*
帰宅。テーブルにスマホを置く。青い泡が遅れてひとつ。
既読:蒼真
【下書き保存】——みてた
【下書き保存】——ありがと
【下書き保存】——まだ
私はスマホを胸に当て、深く息を吸い、ゆっくり吐く。
ノートを開き、今日のページを埋める。
《主観ログ・第十四夜》
・地下歩道:人流と台車の同時突入→下向きの波で立ち上がりを鈍らせる→「ゆるんだ/いい」
・白妙公園:遊びの入りを二段化→「ならった/のこった」
・踏切南側:終わりと入りの干渉回避→「まにあう/いきた」
・図書館PC:タップの順序を遅くするよう視界で示唆→「おそく/のこす」
・堰:巡回の立ち上がりに丸み→「ほどけた/いきた」
・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/包絡を整える
・メッセージ:「たちあがり/にぶく/さわるな/ひがし/のぼる」「みてた/ありがと/まだ」
・仮説更新:**包絡**は“息の形”。返すとは、入りと抜けの形を世界に返すこと
時雨がソファの背で耳を立て、ゆっくり目を細める。
私は灯りを一つ落とし、半拍遅れて呼吸を合わせた。
そっと、最大にしない。
世界が息をしやすいように。
——既読が、鳴る。




