第11話「位相(フェーズ)という整え」
朝、窓の内側に息を落とす。白い曇りは薄く広がって、跡形もなく消えた。
昨夜の三行——ありがとう/まだ/ごめん。
“まだ”の先で、私は越えない線のこちら側に立ち続けると決める。
ノートに見出しを引く。
《今日の方針:位相を整える/触れない/知らせない/視界で返す》
——音が同じでも、位相がズレれば干渉が起きる。世界の“息”が重なり合う場所で、私はそろえる側に回る。
時雨が窓辺で尾を揺らす。四つ吸って、六つ吐く。胸の拍は静かだ。
*
午前の返却ラッシュがおちつくと、影浦玲生が手帳を掲げる。
「外縁ログ。夜明け、川沿いの非常灯は正時。区の掲示も安定。商店街の掲示板で『踏切の警報がときどき拍を外す』という噂。……それと、寄贈パソコンの古いメッセージアプリ、切断維持なのに“下書き”が一瞬増えて消える現象がまだ出る。システム担当は『キャッシュのゴースト+時計ズレの併発かも』」
拍。ズレ。
私は返却本の帯を整えながら頷く。「主観、体調は普通より少し上。息も深い」
「距離は保とう。僕は風景だけ拾う」
*
児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍だけ震えた。
【下書き保存】——ずれ
【下書き保存】——ならせ
私は“ボイスメモ”を開く。空調の低音、その底にピッ……ピという高音。二拍の間にわずかな揺れ。
【保存:観潮踏切 南側】
バックヤードで「掲示の紙、切らしてて」とだけ告げると、玲生が「外縁了解」と目で返す。
*
観潮踏切は、昼前の光で銀色に乾いていた。
赤い警報灯の点滅の間が、ほんの少し長短する。遮断機は正常に動くが、歩行者の足の出が揃わない。
触れない。
私は線路の向こうにある時刻表のガラスの前に立ち、反射の端に自分の小さな影を入れる。
通りかかった駅員が、反射ごしにこちらを見て、警報灯→制御盤の監視窓→周囲の日差しへと視線を滑らせる。
「……光が当たりすぎて視覚の拍だけズレて見えるな。日除け出す」
駅員が日除け板を自分の手で半段降ろす。
赤の点滅と人の足の出が合う。
震え。
【下書き保存】——そろった
【下書き保存】——よかった
*
図書館に戻ると、玲生が地図に透明付箋を足した。
「外縁。踏切、日除け調整の記録あり。SNSの“うるさい”投稿が減少。……それと、寄贈パソコンのゴーストは午前中に三回。ログは残らない」
胸の裏で薄い氷が鳴る。ミラーの残影。私はしらせるなの線をなぞり、うなずくだけにする。
*
昼過ぎ、ポケットが二度震えた。
【下書き保存】——ふたつ
【下書き保存】——えらんで
ボイスメモの底に異なるテンポの拍。保存名が連続で埋まる。
【保存:白妙公園 ベンチ側】
【保存:潮見ポンプ場 柵外】
どちらも“節”。位相を合わせやすいのは、人の声が集まる公園だ。
白妙公園では、読み聞かせの輪が二つ、少し重なってできていた。声がぶつかり、子どもたちの視線が散る。
触れない。
私は二つの輪の中間から半歩外に立ち、息を合わせる。四つ吸って、六つ吐く。
わずかに声を落とすタイミングで、片方のボランティアが目を上げ、絵本を一頁ゆっくりにする。
輪がずれを解消して、交代の拍が生まれる。
震え。
【下書き保存】——かわった
【下書き保存】——のこった
元の音が残った。
*
夕方、商店街の角。古いレコード店のウィンドウで、開店時刻の札が「OPEN」に傾きかけ、裏の「CLOSED」が覗く。
私はガラスに触れない。
代わりに、ウィンドウの端に身体を寄せ、映り込みの角度を変える。
店主が自分の影に気づき、札を自分の手で真っ直ぐに直す。BGMの拍が落ち着く。
震え。
【下書き保存】——まっすぐ
【下書き保存】——いきた
*
図書館へ戻る廊下の角で、寄贈パソコンの画面が一瞬だけ明るむ。“Draft(1)”が数秒出て、0に戻る。
触れない。
私は机の端に置かれた「メンテ中」の札が低すぎるのを見て、近くの書見台を足先で寄せ、札が視線の高さに来るよう支える。
通りかかったシステム担当が「あ、これで」と自分の手でメンテ画面を完全停止に切り替え、コンセントを抜く。
震え。
【下書き保存】——きる
【下書き保存】——のこす
“切る”のは真似の連鎖。“残す”のはここで読む声。
*
夕餉の前、部屋の灯りが一瞬だけ明滅する。
時雨がソファの背で耳を立てる。
来る。
私は椅子に座り、膝の上で指を組む。
25:61。
青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。
既読:蒼真
【下書き保存】——ならせ
【下書き保存】——ひがし
【下書き保存】——のぼる
【下書き保存】——さわるな
上流へ。
私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。
【保存:朝島取水堰 上流側】
上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。
*
取水堰の上流。水の白が夜に溶ける。
巡回の職員が交代らしく、二人が別のテンポで歩み、互いの声がずれる。
私は手すりに触れない。
対岸の柵に取り付けられた反射標識へ、スマホのライトを空経由で一瞬だけ返す。
わずかな光が、二人の合図のタイミングにひと拍の合流を作る。
長柄の道具、足場、声。拍が揃う。
吸い込み口の網に寄りかけた小枝が浮かされ、外へ。
水の音が整う。
震え。
【下書き保存】——そろった
【下書き保存】——いきた
帰りかけたとき、堰の脇の舗装に古いマーキングが浮かんでいるのに気づく。
白い数字。25:61に見えて、実際は「25-6-1」の工区印。
喉がひやりとする。
私は近づかない。ただ、視線をそこへ落とし、四つ吸って六つ吐く。
元の音へ、気持ちを合わせるだけ。
*
帰宅すると、青い泡が遅れてひとつ。
既読:蒼真
【下書き保存】——みてた
【下書き保存】——なおした
【下書き保存】——ごめん
私はスマホを胸に当て、目を閉じる。
“ごめん”の相手は、いまだ分からない。私か、世界か、彼か。
それでも、直った拍がここにある。
ノートを開き、今日のページを埋める。
《主観ログ・第十一夜》
・踏切:日除けを視界で示唆→視覚の拍が整う→「そろった」
・公園:二つの輪の交代の拍を作る→「かわった/のこった」
・商店街:札の位相を正す→「まっすぐ/いきた」
・図書館PC:真似の連鎖を視線の高さで切る→「きる/のこす」
・堰:合図の拍を合流させる→「そろった/いきた」
・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/位相をそろえる
・メッセージ:「ならせ/ひがし/のぼる/さわるな」「みてた/なおした/ごめん」
・仮説更新:位相は秤の静けさ。返すとは、拍を世界へ返すこと
ペン先が止まる。
時雨がソファの背で耳を立て、ゆっくり目を細めた。
私は四つ吸って、六つ吐く。
重ねすぎない。増幅しない。位相だけを整える。
それが、こちら側の線で私に許された仕事だ。
灯りを一つ落とす。
遠い踏切が一度だけ鳴り、すぐに正しい間で静まった。
——既読が、鳴る。




