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第1話「25:61の既読」

 0時を一分、越えたはずだった。

 けれど、私のスマホは25:61を示している。

 画面上には青い丸、メッセージアプリの通知。

 既読:蒼真。


 三年前に死んだ恋人の名前が、ほんの小さな震えで、私の胸に杭を打つ。

 指先が勝手に冷たくなる。電池は充分。時間は壊れている。部屋は真冬のように静かで、窓の向こうの街路灯だけが柔らかい円を路面に落としている。


 心臓が、いつもみたいに合図を送る。ズレた歯車みたいに、うまくはまらない拍動。

 今日、主治医の真壁先生が告げた言葉が、再生ボタンを押されたみたいに頭で繰り返される。


 ——このままいくと、半年。


 私は頷いた。うまく泣けなかった。

 仕事用の手帳に、退職の準備のページを作った。図書館のカウンターに立つ日々を、一枚ずつ剥がしていく準備。

 湯気の出ない夜食のスープ。猫の時雨しぐれが足首に絡んでくる。

 そして今、スマホは**“25:61”**のまま、既読の青を脈打たせている。


 チャットはとっくにアーカイブに入れてあって、三年前から開いていない。

 “送信できませんでした”で止まっている私の文。事故のニュースを知って、震える指で打った、“どこにいるの?”だけ。


 私は、画面を開く。


 トーク画面の一番下に、知らない行がある。

 【下書き保存】たすけて

 私の書いた覚えのない、ひらがな四文字。送信ボタンの脇に、薄く“保存時刻 25:61”と出ている。


 息を吸う。深く、深く。

 送信はしない。私が書いたものじゃない。

 指を引こうとしたとき、テーブルの上の時雨がぴくりと耳を立てた。

 次の瞬間、画面の上部で既読の青が一度だけ明滅し、消える。


 ——胸の奥で、何かがほどけた。


 たった今まで締め付けていた鉄の輪が、一段階ゆるんだ、そんな感覚。深い場所に空気が届く。呼吸が、楽だ。

 体温が半度上がったみたいに、頬の内側が少し熱い。

 私は、時計アプリを開く。0:04。戻っている。

 嘘みたいに、世界が正時に揃っていた。


 ベッドにもぐりこみながら、私は蒼真の声を思い出す。音響の仕事をしていた彼は、日常にある音のノイズを見つけるのが得意だった。冷蔵庫の低い唸り、廊下を抜ける空調の帯域、ネオンの脈動。


 「ノイズは、世界の息だよ。息を殺すと、どこかで歪む」


 私は眠った。眠りの手前で、心臓の歯車は、いくぶん丸く回っていた。


 *


 朝、目を開けたとき、身体が軽いと感じた。

 病室の白ではなく、私の天井。壁に貼った写真。図書館の児童コーナーで撮った、ぬいぐるみの読書会。

 私は手帳を開き、退職準備の予定を一行引いた。

 「今日の体調:良」

 そんな文字を書いたのは、いつぶりだろう。


 出勤。影浦玲生はカウンターの内側で端末を叩いていた。髪を耳にかけ、眼鏡の奥の目が笑っている。


 「おはよう、久遠さん。顔色、いいね」


 「メイクがうまくいっただけ」


 「いや、脈が整ってる感じする。図書の返却、今日多いから助かる」


 私は苦笑して、カウンターの端末を立ち上げる。

 バーコードの連続音が、規則正しいリズムで鳴る。

 午前のピークが過ぎて、返却台に誰もいなくなった瞬間、玲生が小声で言った。


 「昨日、病院だったんだよね。結果、どうだった?」


 私は一拍置いてから、「半年」と言った。

 玲生は目を伏せ、指先で机の角を撫でる癖を出した。慰めの言葉を探している顔。

 「……でも、今日は、いい」


 私がそう付け加えると、彼はほっとしたように笑った。


 昼休み、屋上のベンチに並んで座る。街の上に、雲が薄くちぎれて流れていく。

 私は話そうか迷って、結局、話さなかった。

 夜の“25:61”のことを。既読の青のことを。

 口に出すと、壊れてしまう気がした。音響の人が言っていた、ノイズと息の話を思い出す。

 ——観測した瞬間に、揺らぐ。


 午後。児童コーナーで、読み聞かせの時間。子どもたちの笑い声が、心臓のリズムに寄り添ってくる。

 私は台本をめくりながら、ふと、小さな罪悪感を覚える。

 昨夜、私は一日をもらった。誰から? どこから?

 ニュースアプリを開く癖は、今日に限って我慢した。


 閉館後、私は早退せず最後まで残った。身体が耐えられたのは、単純な奇跡だった。

 帰路。夕焼けが街路を薄桃色に染める。

 部屋の扉をあけると、時雨が走ってきて、私の足に尾を絡めた。餌皿の前で座って待つ礼儀正しさに、笑ってしまう。

 ケトルの湯が湧く音、冷蔵庫の低い唸り。

 私はスマホをテーブルに置いた。画面は、静かだった。


 ——夜が来る。

 ——あの時刻は、また来るのだろうか。


 答えは、すぐに落ちてきた。


 25:61。

 通知音は鳴らない。ただ、既読:蒼真が画面の上部に泡のように現れ、消えた。

 同時に、下書きフォルダに新しい行。

 【下書き保存】——きこえる?


 私は両手でスマホを掴んだ。寒くもないのに、指先が痺れる。

 「蒼真?」

 声に出した。部屋の空気が、少しだけ、密度を変える。

 時雨が、ソファの背でもう一度耳を立てた。


 脳裏に、あの事故の日の音が蘇る。救急車のサイレン、見知らぬ人の靴音、私の涙の中で途切れた呼吸。

 「私だよ。綾芽だよ」

 誰に向かって言っているのか、わからない。けれど、言葉は私の中で呼吸だった。


 次の瞬間、胸の奥でまた何かがほどける。

 深い場所に、光が差し込む。

 私は息を吸い、吐く。吸い、吐く。

 ——助かっている。延びている。私は今夜も、一日をもらっている。


 ケトルのカチリという音に重なるように、ニュースアプリが勝手に開いた。

 画面に流れてきた記事の見出し。

 〈奇妙な停電、特定のマンション一棟だけで日付変更線をまたいで発生〉

 地域は、私の住む区。時間帯は、0時を少し過ぎたころ。

 私は、そっと画面を閉じた。

 偶然かもしれない。統計的な揺らぎ。

 でも、私の中のどこかが、代償という単語の輪郭をなぞっている。


 スマホが震えた。

 下書きが、勝手に書き換わる。

 【下書き保存】——きこえる?/いそげ

 「急げ?」

 私は問い返す。どこへ。何を。


 思い出す。蒼真がよく言っていた。

 「音はいましか鳴らない。録音は影。影に本物の温度を、あとで重ねるのは難しい」


 もしかして——録音。

 私は“ボイスメモ”を開く。マイクアイコンの上に、目に見えない手が乗っている気配がした。

 押す。

 部屋のノイズが、波形になって流れていく。冷蔵庫の唸り、私の呼吸、窓の外の遠い車。

 十秒。二十秒。三十秒。

 耳が、慣れてくる。

 波形の底に沈んでいた、別の脈に気づく。

 人間の——鼓動。

 私のではない。速すぎる。若い。どこかで、誰かが、走っている。


 録音を止めると、保存名に勝手に文字が入った。

 【保存:東栄橋】

 近所の橋。川沿いの、深夜でも人が通る場所。

 私は立ち上がる。コートを掴む。

 心臓が、走る前の準備運動みたいに、軽く跳ねた。

 「時雨、留守番」


 玄関を出る。夜気が肺に刺さる。

 川に降りる階段を下りると、橋のたもとに、小さな人影があった。

 制服。肩を抱いて座り込む、女子高生。

 「大丈夫?」

 私の声に、彼女はびくりと振り向いた。目の下に、濃い影。

 「……寒い」

 私はコートを脱いで、彼女の肩にかけた。

 彼女のスマホは電池切れで、家に連絡できず、帰り道の途中で立ち尽くしていたという。泣き顔は、あっという間に安堵で崩れ、ぎこちなく笑った。

 タクシーを呼ぶ。彼女は何度も頭を下げ、乗っていった。

 見送る私の手の中で、スマホが一度震えた。


 25:61。

 既読:蒼真。

 下書きが、ありがとうの二文字で満たされた。


 私は、夜の川面に映る街の灯を見つめる。

 一日は、私に与えられ、彼女に返されたのだろうか。

 あるいは、私はただ、世界に息を通しただけかもしれない。

 帰り道、胸の奥は、静かだった。

 扉を閉める。時雨が、喉を鳴らす。

 枕元のスマホは、眠りにつく私の視界の端で、青い波紋をひとつだけ置いて消えた。


 ——既読が、鳴る。

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