4 お待ちかね、王太子殿下による婚約破棄宣言ですわ
「恋人」という言葉に周囲の貴族たちが息を飲む。
私はヴィルジールからグラスを受け取って、ゆっくりと飲む。
「恋人だと!?」
「ええ。ヴィルは私の恋人ですわ」
「ヴィルですって」「愛称で呼んでいるのか」という囁き声が、貴族の間に広がる。
「王太子の婚約者ともあろうものが、恋人をつくっていいと思っているのか!」
「ええ、だって王太子ともあろうものが、国内一の有力貴族であるレーヌ公を婚約者にしながら、恋人をつくっているのですもの。お互い様でしょう」
ジョフロワはわなわなと震えて私を睨む。狼におびえる小型犬が震えながら睨んでいるようなものだから、少しも怖くない。
「お前と俺は違うだろ!俺は王太子でお前は女だ!立場をわきまえない女とは、婚約破棄だ!」
「婚約破棄」という言葉に、貴族たちは身を乗り出す。こんなにおもしろいパーティーは久しぶりなのだろう。
国を率いる立場として、王太子とレーヌ公の婚約解消を面白がっている場合ではないと思うのだが、心配そうな顔をしている人はほとんどいなかった。
それがこの国の体たらくを物語っている。
「殿下、本当にそれでよろしいのでしょうか?」
ジョフロワは笑みを浮かべ、胸を張った。
「なんだ。婚約破棄を言い渡されて怖くなったか。俺にすがりつきたいのにプライドが邪魔をして、そんな可愛くない言い方になるんだろう。本当によろしいでしょうか、だと?いいに決まっている。何度問われても答えは同じだ」
「そうですか」
(最後のチャンスをあげたのに)
「皆聞いてくれ!」とジョフロワは大声を張り上げる。
「今ここに宣言する。俺は将来の妃にイボンヌ・ステラード男爵令嬢を選ぶ!彼女こそが俺の運命の人だ。俺は運命に逆らわない!」
イボンヌがジョフロワに飛びつき、彼の脇の下で誇らしげに微笑んだ。
「ジョフロワは私と結ばれる運命だったの。あなたは負けたのよ、エレオノーラ」と、どうでもいいことをわざわざ口の形だけで私に伝えてくる。
神経を集中して読唇術で読み取ったあとで、「聞くんじゃなかった。損した」とげんなりする。「情報収集や裏切者の見極めに役立つから」と私に読唇術を身につけさせた父を、少し恨んでしまったほどだ。
イボンヌはまだ何か言いたいらしい。ちらっと私の横にいるヴィルジールを見て、口だけでこういった。
「アルトラ王?完全に格下じゃない。ジョフロワを取られて傷心で、適当にそこらへんの男を拾っただけでしょ?」
私はヴィルジールが読唇術を使えないことを、切に願う。もし使えたとしたら、レベルの低い人達の根拠のない自慢は気にしないよう伝えておかないと。
私は笑顔のまま、ひとつ深呼吸してからジョフロワに向き直った。
「ジョフロワ王太子殿下。あなたは運命、とおっしゃいましたね」
「そうだ。イボンヌこそ我が運命だ」
「では質問です。あなたは、王家に生まれ、国を支えるため、王位継承権を持つ者として、政略結婚を受け入れるという運命は否定なさるのですか?」
「それは…っ」
「ふたつの運命のうち、都合のいいほうだけ信じているのですね」
ジョフロワは何も言い返せず、拳を握りしめる。
「王としての義務や責任には目を背け、自分の恋心だけを神聖視する。それで王国の未来を背負うおつもり?ルシエル王国の大領主レーヌ公として、そのような君主には…」
そのとき…
「待ってくれ、レーヌ公!エレオノーラ・ドレーヌ!!」
ジョフロワの父である現国王が、息を切らして会場に駆け込んできた。
「はあ、はあ…ジョフロワが婚約破棄を言い出したと聞いて…別室で休んでいたのだが飛んできたんだ…」
「まあ、国王陛下。無理はなさらないでくださいまし」
「馬鹿息子が、感情に任せて愚かな真似を…すまない。頼む、婚約破棄だけは…私にできることならなんでもする」
ジョフロワは父にすがりついた。
「父上、なぜエレオノーラにそんなに甘いのです!この女は散々俺のことを馬鹿にして…」
「黙れっ!ルシエルにはどうしてもエレオノーラが必要なんだ!」
アンリ国王は、懇親会に来ていた他国の使節や貴族たちがざわついているのを見て、必死だ。
大領主である私の結婚相手は、レーヌ公爵領の共同統治権を得る。
それは王権の脆弱な現ルシエル王家にとってはもちろん、ルシエル国内外の王侯貴族にとっても、喉から手が出るほど欲しい権利なのだ。
ジョフロワが私との婚約を破棄し、レーヌ公爵領が他国に渡る…国王としては何とかそれは避けなくてはならない。
「頼む、何でもするから…この国を守ると思って…頼む…エレオノーラ」
伯父でもある国王に恨みはない。
(馬鹿な息子のせいで…可哀そうな人)
「後日冷静になって話し合いましょう、伯父様」
「ありがとう…」
国王を見送った後、私はそっとヴィルジールに言った。
「ヴィル、今日はありがとうございます」
「いいえ。しかし大変なことになりましたね」
「わかっていたことですので」
「ジェフロワ王太子殿下が婚約破棄を言い出すことを…あんな荒唐無稽な出来事を、予想していたというのですか?」
「ええ」
「あなたとの婚約を破棄するなど…正気だとは思えませんが」
「それが、恋に溺れた男というものなのでしょう」
「それで…婚約破棄に応じるおつもりですか?」
「いいえ…」と私がいいかけると、ヴィルジールはピクッと顔を引きつらせる。
「でもあり、はいでもあります」
「というと?」
「私の予想では、もうひと波乱あるはずなのです。その際に私のほうから婚約破棄をしようと思っておりますわ」
ヴィルジールはほっとした表情を見せた。
「では婚約破棄は、なさるのですね?」
「そのつもりですわ。公の場で婚約破棄を言い出すような男が跡継ぎとなるこの国に、未来はありませんもの」
「では…」とヴィルジールは膝をついて手を差し出した。このうえなく優雅な仕草。
「婚約破棄が成ったあかつきには、私の妃になっていただけないでしょうか」
(これは…予想外の結果かもしれない)
「ええ、喜んで」
ヴィルジールはほっとしたほうなはにかんだような表情を見せて、私の手にキスをした。




