魔素の湖
魔素とは、この世界に遍く存在する魔力のことを指す。
かつてはただの自然の流れ、命の巡りに過ぎなかったそれが、ある日を境に変質した。封じられた災い、カトレナ──その封印の隙間から漏れ出す瘴気のような魔力が、世界の魔素を濁らせ、魔物を生み出す源となったのだ。魔物の形態は多種多様だが、ひとつの共通点がある。
それは、生まれ落ちる環境に応じて姿を変えるということ。
湿地にはぬめるものが、深林には獣が、山には爪を研ぐものが生まれる。自然に従うようにして、彼らはその地にふさわしい姿で現れる。さもなければ、ただちに淘汰されるだけの存在だからだ。
そして魔物の傾向は、近くにある灯台の属性にも左右される。
水の灯台の周囲には水棲種、火の灯台の傍には炎を纏う魔物が多い。
だが、この関係が因果なのか、結果なのか──つまり、灯台が環境を生んだのか、それとも環境に合わせて灯台が現れたのかは、誰にも分からない。時代が古すぎて、真実を記した文献すら残っていないのだから。
そして、今、彼らの目の前に広がるのは、かつて静かで清らかだったはずの湖だった。
だが、その湖面は、今や鈍く濁っていた。
魔素の気配が重く、肌に纏わりつくように空気が湿っている。
「……ここは、前に来たときはもっと澄んでいたんだがなぁ」
ガルゼンは湖を見ながら、眉間に皺を寄せて言う。
隣では、セルナが不安げに湖を見ていた。
「どうした? 状況が悪い訳じゃないが、今日は引き返すぞ。」
「引き返す……ということは、ここで魔物と戦う予定はなくなった、ということでしょうか?」
そう問い返すセルナは、ほっとしたようでもあり、どこか納得できていないようでもあった。
ガルゼンはわざとらしく腕を組み、少し芝居がかった口調で言う。
「…んじゃ、問題だ。俺が戦わずに一度引き返そうとしている理由は何だ?」
セルナは一瞬戸惑ったが、すぐにまじめな顔で考え始めた。
「……被害が、まだ出ていないからでしょうか?」
「よし、続けてみな」
ガルゼンの口調は淡々としていたが、目はどこか楽しげだった。
「はい。ベルヴィアではこのあたりで魔物が出たという報せはありませんでしたし、街道でも他の人々とすれ違いましたが、誰も異変に気づいている様子はありませんでした。
それに……湖の周辺もそこまで荒らされていない。魔素に汚染された魔物が出入りしているなら、痕跡があって然るべきです」
「なるほど。八割は正解だ」
ガルゼンは頷き、静かに続ける。
「この湖は、元々スライムや昆虫系の小〜中型魔物が多い場所だ。俺の記憶の通りなら飛べる魔物もいるがそこまで多くない。だから、もし異常な動きがあるなら、岸辺はもっと泥だらけになってるはずだ。
つまり、この魔素溜まりは発生してからまだ日が浅い。魔物が凶暴化して動き出す前に、街へ報せて対処した方がいい」
そして、彼は少し口の端を上げる。
「それに、ギルドにでも報告して、正式な依頼として受け直せば……報酬も出る。旅は金がかかるからな。悪い話じゃないだろ?」
セルナは苦笑しながらも、否定はしなかった。
彼女にとっては納得しきれない面もあったのだろうが、それでも、現実は理解している。
「……浄化の儀を、私が行えば済む話かもしれません。でも、そうですね。街の判断を仰いだ方が、確かに今は正しいと思います」
「うむ。いい線いってるし、聞き分けもいい。残りの二割は経験で補えばいい」
ガルゼンはにかっと笑い、背中を向けて歩き出す。
「さ、他の場所にでも行ってみるか。今日は天気がいい。他の場所にのんびり向かうか。あの魔素の様子じゃすぐにどうこうってわけじゃなさそうだからな」
「えっ、それはそれでいいのでしょうか……?」
セルナの戸惑いは最後まで消えなかったが、それでも彼の背を追って歩き出した。
物語はゆっくりと動いてます。
ゆっくりね。