Goes Around
第一編 《る》
「なんのためおじんせいぬあんなぁ…」
掠れた声はオフィスの自動開閉ドアが開くわずかな音にも負けるほど覇気がなかった。生きる目的を無くしたゾンビのように、ゆっくりと室内に入る男は、髪も整えず、部屋着のままで清潔感の“せ”の字もない容姿。左手に握りしめていた社員証をフロアに落とす。それに写った男の顔は、これからの社会の担い手となったことの誇りを胸に、新しい人生への第一歩目を踏み締めた凛々しくも若い表情をしている。一方の手には実家から長家に引越した際にホームセンターで購入した安価な三徳包丁。刃こぼれと腹からみねにかけて錆が入ってることから、手入れをしていないのは一目瞭然だった。
「あら?佐久間さん?そんな格好でどうしたんですか?最近顔を見ないから皆んな心配してたんですよ」
黒や紺などのスーツが多い中、佐久間と呼ばれた男は、この場所に見合わない部屋着の格好だった。普段は目立たないような冴えない男が、数日の無断欠勤の末、無精髭を蓄えて目は虚ろとなって、のうのうと勤務先にやって来たのだ。そのことに最初に気がついたOLが、いつも通り笑顔で男に挨拶を振り撒く。本来であれば、その明るい笑顔に勘違いをして多少のストレスも跳ね除けそうなものだが、佐久間にとって、その笑顔がなんとも言い表せない負担になっていた。
「おれのことぉわらいやらあったぇ」
挨拶の返事も無しに呂律が回らない様子で男は刃物を女性社員に振り翳した。フリルの装飾が施されたシャツに膨らみを持たせる女性の胸部に、男が握りしめた刃が突き刺さる。officeに似つかわしくない悲鳴。胸に刺さった包丁を勢いよく抜くと、悲鳴と共に白い壁やデスクに吹き出だした血潮が飛散する。抜いた勢いで別の社員を切りつける。血に混じった人油で3人目からは、まともに刃も通らなくなってくる。喉を切られた会社員は切り口から空気が抜けてうまく呼吸ができないようだったが、出血した血が喉にから溢れ溺れるように床に突っ伏す。柄を掴んだ男の手にも人の体液が付き、滑りやすくなってくる。包丁での遊戯を諦めた男は、包丁を捨て各自のデスクに常備されたカッターで、逃げ惑う同僚、部下、上司に後ろから襲いかかり、獲物の肩や首を殺人人形のように刺し続ける。負傷した者は、逃げ惑うものもいれば物陰に隠れて出血を抑えようと傷口を強く抑える者もいる。突然現れた殺人鬼からの混乱は津波のようにゆっくりと激しく大きさを増していった。
「ふへえへへへへ…おらぁせかいのちゅうしんだぁ」
満たされた男はオフィスを後にした。返り血を浴び、被害者の体液が男から滴り落ちる。衣服は、元の色がわからないほど赤く染まっている。そんな装いの男が外に出れば、注目の的となるのは当然だ。
ちょうど昼休憩の時間帯で会社員の集団や、訪日した観光客が男を見るや否や、距離を取る者、スマートフォンを向ける者、どこかに電話をかける者、好奇心旺盛で話しかける者。様々な反応に血塗れの男は天を仰ぎ、大きく笑う。大粒の汗を拭うと目元の血も落ちて視界がはっきりとする。雲間から差し込む陽射しが男の赤色をビル街に浮き上がらせる。
目の前にいる動画配信者と名乗る男のスマートフォンを奪い地面に叩きつける。配信者の反応を見る前に、いつの間にか握りしめていたボールペンで顎を目掛けて滅多刺しにする。皮膚の後に骨を抉り感覚が手首まで伝わる。悲鳴と悲鳴で鼓膜が揺れ震える。清々しい。こんなにも気持ちがいいものならば、はやく薬物に手を出しておけばと思った。心拍数は上がり、全身の毛が逆立つ感覚。何もせずとも下着の中は汗と精液で蒸れ、体力の限界の底が見えなかった。
「キャー…」「もしもし?警察ですか?目の前に、目の前に…血塗れの男が…」「やばいやばい逃げろ」「何かドラマの撮影?」「ばか!動画撮るのやめろって」「무슨 일이야?」「警察呼べ!はやく!」「うあぁあああ!」「キモすぎ…」「…愛してるよ」「だれか…たすけて…」「あはははははあははははっ」「なんだこれ、痛え…」「こっち来てんぞ!」「ママ!パパ!」「救急車!」「こっちだ!あいつから早く離れろ!」「住所?わかるわけないだろ…あぁもう!」「Run! Don't leave!」
様々な叫び声が共鳴し合う。それはまるで佐久間の一挙手一投足で、街の人々が音楽を奏でているようだった。
サイレンと共に駆けつけた警察官も血色の祭典と化したオフィス街の一角に唖然とする。消えない悲鳴。警官を押し退ける人々。蹌踉めきながら奇怪な動きで近づく容疑者に急いで腰のリボルバーに手をかける。訓練以来の挙動に横着しホルスターから抜き取るのが遅れる。銃を構える時には佐久間は警官の首を刺していた。動脈を突き破るボールペン。下手に抜けば出血多量で即死してしまうが佐久間は無慈悲にも、垂れ落ちる血で手を滑らせながら抉るように抜き取る。落とした拳銃を拾い、応援要請をする足元の屍のバディの警官を撃ち殺した。目の前で弾ける破裂音に体内に残る興奮剤の作用から覚め始める。
あたりには、痙攣を起こしながら生き延びようと必死になる者や、佐久間を睨みつけたまま息絶えた者、誰のものかもわからないカバンや、脱げた片方だけの靴が転がっている。踏み潰されたカーネーションの花びらが血溜まりを遊泳し、綺麗にラッピングされた箱は踏み潰され、飛び出したクマのぬいぐるみは血に染まっていた。応援のパトカーにより車道や歩道は塞がれ、佐久間を取り囲む。両手に握られた拳銃を目視で確認し、前衛は防弾盾を構えにじり寄る。
白昼堂々現れた悪魔は、足元で息絶えた女性を見下ろし、その屍の血に染まったスカートを捲り下着の色を確認した。その様子を10人以上の警官が眉間に皺を寄せ警戒する。オフィスから現在まで被害者の数を考えると佐久間への射殺許可が下るのは時間の問題だ。佐久間は持っている銃の銃口を覗き込み、今度はそれを周りの警官へ向ける。佐久間の銃声を合図に殺人現場は映画の撮影現場のように、けたゝましく銃撃の破裂音がこだました。
翌日
佐久間は病院のベッドで目が覚めると、手当が終わった状態だった。病室の外には数人の警官が立っており佐久間や状況を監視している。昨日、片腕を撃たれた佐久間は戦闘不能になり、隙を見て警官らに取り押さえられた。抑えられながらも興奮状態の佐久間を抑えるのに3人では手が足りず4人目、5人目と犯人に群がり血で濡れたアスファルトに顔を押さえつけられる。それでも佐久間は瞳孔が開き甲高い声で叫ぶように笑い続けた。
横目で外の警官を見るとスーツの男と話している。ワックスで整えられた髪とヒゲも綺麗に剃られており肌も白すぎず焼けすぎていない健康的な血色。清潔感そのものを人間にしたようなスーツの男が革靴の音ともに佐久間の隣にやってくる。襟に光る向日葵を模したバッヂで弁護士であることがわかった。
弁護士と名乗る男は、名刺をベッド横の小棚に置くと佐久間に質問を始める。生い立ちや家族構成、最終学歴や職歴、血液型や利き手まで。さらに、今回の事件を起こしたキッカケや薬物の入手ルート、当時の記憶など。佐久間は、病室の天井を見つめて、乾いた唇を少し開き応える。
「弁護士殿…手を洗わせてくれませんか?まだ人の血の生ぬるさが纏わりつく感覚が残ってるんですよ…気味が悪くて…」
ただどこかを一点に見つめる被告は、時折り、手のひらを逆の手の指で強く擦る動作をする。手錠で繋がれた無力な男を見下ろし、弁護士は大きくため息を吐いた。佐久間には、その中心に刻まれる天秤を見つめ話は終わったと言わんばかりに目を閉じて、弁護士が帰るまで動くことはなかった。
第二編
草臥れたオフィス街から離れた田舎町。駅前に建つ私立大学に通う学生らで賑わっている。いわゆる学生の町として栄えているE町は、田舎であるにも関わらず駅前は人々が集まりやすいファーストフード店や喫茶店、ボーリングやカラオケができるアミューズメント施設が並んでいる。準備中の札を下げる居酒屋では派手な髪色の女性スタッフが掃除をしている。自転車に乗る若者は、歩行者の間を巧みに通り抜けて大学の門を通過して行った。
そんな駅前から300メートルほど離れた学生向けアパートの一室。大学の卒業を控えた野井 逹嗣はベッドの上で大きい欠伸をしながら伸びをし、枕元のキャビネットを手探りで散らかす。寝相が悪く痺れた手の感覚を頼りに、形が崩れたタバコの箱を手に取る。目を閉じたまま残り少ないタバコを一本取り出して口に咥え、ライターを探しにキャビネットに再び手を伸ばしたところで女性が話しかける。
「朝からタバコ?」
「んー」
気だるそうに女性に返事をすると野井は重そうに上半身を起き上がらせる。坊主頭を掻きながら、着崩れたタンクトップを正す。
「寝起きの一本目で目がバッチリ覚めるんだよ」
「あっそ…最近吸い始めたくせに」
咥えたタバコに火をつけずヨロヨロとベッドから降りた野井は、キッチンで朝食を作る女性に近づく。黒髪が腰の上の高さまで伸びる細身で高身長な女性。大学のゼミで昨年出会った後輩であり交際相手でもあるマコだ。野井は彼女に近寄ると後ろから優しく抱きしめる。
「ちょっと…包丁使ってるから…」
「タバコじゃなくてもマコのうなじの匂いでも、うおっ…あぶねえ」
マコが持つ包丁が彼氏の目の前を掠めた。マコは焦る野井のリアクションを見てクスクスと笑いながら、トマトを一口サイズに切っていく。
「トマト…嫌いって言わなかった?」
「聞いたよ、でも嫌いって理由だけで食べなくて良い理由にはならないからね」
苦い顔をした野井は再びタバコを咥えベランダに出て火をつける。昨夜から干している洗濯物にニオイがつかないように距離をとりながら、マコのブラジャーに目が惹かれる。
「可愛いのは夜だけだな…」
ボソッと呟いたつもりだったが、キッチンの方からマコが「何か言った?」と強めの口調で尋ねる。野井は咳き込みながらまだ長く残るタバコの火を丁寧に消してまた吸えるようにベランダに置いた灰皿の上に置き、マコの手作り料理が並ぶテーブルを横目に玄関から外に出た。ポストに投函された新聞紙を回収し、マコが待つ部屋へ戻る。マコの声よりも先に淹れたてのコーヒーの香りが出迎えてくれた。
「あ、新聞ありがと」
「はいよ。これ毎朝読んでんの?」
「全部ではないけどね…野井くんも読む?」
「いいいい、いらない」
マコは新聞紙を受け取るとテーブルの隅に置き、コーヒーに口をつけた。カップについたグロスを親指で拭い、スクランブルエッグにケチャップをかけ、野井に渡そうとするが断られる。
「俺は塩派だから」
2人は、早々に朝食を済ませた。
新しく淹れなおしたコーヒーを飲みながらマコは朝刊を読み始める。その様子をしばらく眺めながら、野井が口を開いた。
「今日の予定は?」
「…えっと、この後、2限の講義に出て…ちょっとだけ買い物したりしながら4限と5限に出席してって感じかな…」
「ふーん…了解」
「え?なに?」
「今日、夜空いてるなら外に食べに行こうかなと」
あまりデートに誘わない野井の発言に疑問を抱き、しばらく考えた後に。部屋も壁にかけたカレンダーを見て、今日の日付に赤い丸がつけていたことを思い出した。
「いいね!じゃあ、夜空けとくね」
「おう…じゃあ俺もう仕事行くわ…美味しかった、ごちそうさま!」
使い終えた食器をシンクに置き、黒いバックパックを片方の肩で背負い出ていった。
1人部屋に残ったマコは、窓から外の様子を眺め、野井がクロスバイクに乗り駆けていく背中を見て、椅子に戻り最後のコーヒーを飲み干した。
一方、野井が向かったのは、アパートから20分ほど自転車を漕いだところ。都会に近い雑居ビルの最上階にいた。先ほどまで彼女と過ごしていた表情と異なり緊張感がある。手の甲で額の汗を拭ってから、「飛鷹事務所」とすりガラスにプリントされた扉を開き中に入る。
「おはようございます」と運動部の男子のように野太い声で入室すると、入り口に1番近い男が立ち塞がる。野井と年齢も近い若い青年が、睨みをきかしてくる。
「俺です、野井です!」
その青年の威圧を無視して、奥にいるいかにもカタギの人間とは思えない風貌の男に挨拶をする。
「おい、テメェ、シカトしてんじゃねえよ」
目の前に立つ若い男が吠えるが、野井は見向きもせずに、奥の男の返事を待つ。タバコの火を消しながら、騒ぐ舎弟を黙らせて、野井を見つけると自分のそばにくるように指示をする。煙たい室内には、受付に熱が冷めない舎弟と事務を担当する若い女、受付を進んだ先の広間には6、7人の男がおり、電話先に怒鳴る男や、大量の札束を金庫に移す男もいる。
野井は、そんな物騒な空間の中の1人、黒い本革のソファに腰を下ろす男の前に行くと、「押忍」と言わんばかりに眉間に皺を寄せて挨拶をする。
「おう…野井くん…すまんな、うちの若いのが」
「いえ…慣れてるので…」
野井の返事に爆笑するヤクザの男は、大きく口を開けて、いくつかの金歯を輝かせる。呼吸を整えながら、無精髭を触る。野井は、脂汗をかきながら生唾を飲み込み男の言葉を待つ。
「おもろいな野井くん」
「あ、ありがとうございます」
「そんでな、今日の仕事やけど、最近、この辺で殺人事件あったやろ?」
「あぁ…なんか、隣の県の」
「そうそう…あれの犯人まだ捕まってないけど、どうやら俺ら飛鷹組と仲ようさせてもらってる組の若いもんが手を出してやっちゃったっぽいのよね?」
「は、はい」
「そんなん知ってもうたら、今後の付き合いもあるし、助けてあげたいわけや…ここまで理解した?」
「まぁ…はい…」
眉の上まで掘られた墨を歪ませて男は話を続ける。
「難しい話やない…うちが助けてあげるんやけど、うちが直接助けたことがサツにでもバレると面倒やろ?」
「そうっすね…」
「そこで、野井くんのような、組に正式に所属してない頼れる子にお願いしたいわけ」
「は、はぁ…」
「その若いもんは、その子の親が処分したらしい…まぁカタギの人間に個人的なトラブルで手を出した挙句、アレ使った状態やから当然の報いっちゃ報いやわな…役職もない舎弟レベルやからなぁ…俺らも若い人材は貴重やから将来性を考えて殺さず生かしときたいとこやねんけど…やっぱり、俺でも殺すかなぁ…落とし前だけつけさせて」
「あの…それで、俺は何をすれば?」
話が脱線していることを察して野井が口を挟む。
「すまんすまん、ヘマした若い奴は処分済みやねんけど、あっちの処分はまだでな…しっかりと綺麗に処分しときたいのよ…」
「あぁ…なるほど…」
「専売特許やろ?それにな、この仕事が成功したら、野井くんを組に迎えてやっても良いで」
男との話を終えた野井は、処分依頼があったものを回収するために指定された場所へと向かった。
3年前。友人に声をかけられ始めた大金が手に入るシゴト。裏バイトと呼ばれるそれは、裏社会に片足を踏み入る危険な仕事だった。金もなく人付き合いも少なかった野井は、その友だちに頼られたことが嬉しかった。
現場に向かうと、いわゆる受け子を任された。黒の背広を着せられて、髪をシチサンに分けられた。指定された家に向かうと、老父が、見るからに分厚い封筒を渡して「これで頼みます」と言ってきた。どうやら、彼の息子が車で事故を起こして、弁護士を雇うための金らしい。野井は受け取ると、何も言わずにただ頭を下げて、友人が待つ漫画喫茶に足早に向かった。
数日後、見たことがある玄関で老父がインタビューを受ける映像がテレビで流れていた。詐欺グループに騙されたという報道。野井は自分の行為に罪悪感を覚えたが、報酬の多さから抜け出すことができなかった。
それからは詐欺グループでの活動を続けて、あっという間に、野井の銀行口座は潤った。そんな時に出会ったのがマコだった。裏社会にいては出会えることのない何色にも染まらない彼女に一目惚れした。自分には到底似合わない女性だとわかっていたが、彼女も野井の明るい性格に惹かれ交際が始まった。
しかし、順調だと思っていた矢先に事件は起きた。飛鷹事務所を狙った詐欺を仕掛けたのだ。金の回収に向かった野井は、逃げ切ることができず、グループの拠点や資金、所属メンバーを伝えて野井は生き残った。それからは、どこにも所属せず、見習いの見習いとして、飛鷹事務所に顔を出すようになった。
第三篇 《ぐ》
野井が回収場所に紙袋があるのを発見し、監視する人物がいないか周囲に気を配りながら、何も入っていないパックパックの中に紙袋ごと突っ込む。クロスバイクに乗り、その場所から逃げるように距離をとった。
かつて自分が通っていた大学近辺に着き、夜のマコとの約束を思い出して、生きてる実感を噛み締める。このシゴトは数を重ねても決して慣れない。常に誰かに見張られている緊張感と付き合っていかなくてはならない。ヤクザとの付き合いがあることはマコには言えていない。言えるはずがなかった。
大学の前を通過して信号を待っていた時、野井のスマートフォンに飛鷹から連絡が入った。
2限目の授業を終えたマコは電車に乗り都会の方へと出かけていた。いつもであれば、大学内の学食やコンビニで昼食をとっている時間だが、今日は特別な日だった。半同棲をしている野井との交際を始めた記念の日。野井自身もそのことを覚えていたため、マコをディナーに誘ったのだろうとカレンダーを見て勘付いた。
「いらっしゃいませ」
煌びやかな店内には、それ相応に輝いた笑顔を見せるスタッフが揃っている。全国に構える大手百貨店には、さまざまな店が揃い1日では全ての店を見尽くせないほどバリエーションに富んでいる。
本来の目的から外れてマコは、自分が惹かれる新シーズンのコスメを物色していた。首にスカーフを巻いた女性スタッフがマコの来店を笑顔で招き入れて、その明るい表情以上に暑苦しく感じる接客の熱量に押し負けて、買う予定のなかったファンデーションやチークを購入させられた。
思わぬ出費に落ち込みながら、もう目移りしないように目的の店に直行する。アクセサリーが好きな彼のためにネックレスを見つめる。学業の隙間時間に密かに行なっていた塾講師の仕事で貯まったお金をこの日のために取っておいた。高級なものは買えないが、若者向けのブランドものなら、かろうじて購入できる。一瞬で貯金は消えたが、マコの心には何か温かい感情が芽生えていた。
「こ、このネックレスにします!」
とは言え、バイトで貯めたお金がほぼ全額なくなることが現実となり、ネックレスを指差す手は少し震えていた。
「かしこまりました」
店員は、マコの様子を見ながら微笑むと、綺麗に拭き上げられたガラスケースの中から綿の手袋をした手が丁寧にアクセサリーを取り出す。
「こちらでよろしいですか?」
「はい」
「プレゼントですか?」
「そうです!交際相手に…こういうプレゼントをするのは初めてで…」
「そうですか…きっと喜んでいただけると思いますよ…あっ!プレゼント用のメッセージカードはお付けしますか?」
店員の提案に頷き、優しいピンク色の紙が手渡される。ペン立てにあるボールペンを手に取りメッセージを記入した。
「ご提案なのですが、サービスでこちらをお付けしますので…」
カードを書き終えたところで新しく提案をされるマコ。その提案にマコは野井に渡すには可愛すぎる演出だと思ったが、自分がされて嬉しいことなら野井も喜んでくれるだろうと思い、女性スタッフの提案を取り入れることにした。その後、百貨店の最上階に並ぶ飲食店で昼食を済ませたマコは、4限が始まるまで都会の散策を楽しんでいた。
野井は飛鷹に指示された駅前のレストランに到着し、小腹が空いていたのでフライドポテトとドリンクバーを注文する。塩味が効いた芋の香りがする揚げたてのフライドポテトを暑がりながら食べていると、事前に伝えられていた風貌の男が店にやってくる。店内を見渡す男に野井は手を振って合図をする。店員も連れがきたことを理解すると案内をやめて会釈しキッチンの方に戻っていく。野井の正面の座った男は、寝起きのまま来たような格好で、清潔感がなかった。その身だしなみのなさから老けて見えるが、野井よりも5歳ほどしか歳は変わらないだろう。
「あんたか?」
「野井です…飛鷹さんから300でコレを買うって?」
「あぁ…」
少し腰を上げてお尻のポケットから何かを取り出す男。
銀行の封筒は分厚く中身は見るまでもなく三百万円の札束であることがわかるが、念のため中身を確認する。確かに一万円の束であることを確認して、野井もリュックから、先ほど回収した紙袋を取り出して中身があることを確認して、目の前の男に引き渡した。
「飛鷹さんからの伝言です。これの入手経路は絶対に口外しないこと、郊外すれば飛鷹さんがあなたを消すと言ってました」
「言われなくてもわかってる…」
男は、紙袋を受け取ると、店員が注文を伺いに来る前に店を出て行った。
「お連れ様は?」
「ごめんなさい、気分悪いみたいで帰っちゃいました…あ、ハンバーグ定食一つお願いします」
店員は一礼すると野井のテーブルから去って行った。周りに人がいないことを確認してから野井は飛鷹に電話をかける。
「おう、どないした?」
「いま、言われた人に渡しました」
「おっけい、お金は受け取ったね?」
「はい、300万…現金で…良かったんですか?もしかしたら喋るかもしれないですけど」
「まぁなぁ…うちも火の車やから」
返事に困り黙っていると、飛鷹からツッコミが入る。
「火の車ちゃうわ…まぁあれや、もしサツなら野井くんが捕まるやろ?でも野井くん忠誠心あるから口は割らへんと思うし…もしその客が入手ルート喋ったら、お前の身内ヤルぞって脅しといたから」
「まぁ…それでも危ないと思いますけど…」
「慎重やなぁ野井くん…でもこれで正式に飛鷹組の一員やで野井くん」
「いやぁ…その件ですが、今日の仕事で最後にします」
震える声で言うと、飛鷹は「そうか」とすんなり受け入れた。
4限目に間に合うようにマコは都会の街を進み駅に向かう。手には夜のディナーに野井にプレゼントするネックレスが入った袋を下げている。自分の化粧品と昼食を含めて良い買い物ができたと足取り軽く歩幅を大きい。ディナーにはどこに連れて行ってもらえるのか、ワクワクが収まらない。
駅が見えてきたところで、後方から男の声が聞こえる。振り向こうとしたところ、体が自然にコンクリートの上に倒れていた。男に押し倒されて、数人の足に蹴られる。血まみれの男に馬乗りになられて抵抗する隙もなく、胸や首をペンのようなもので刺される。手から滑り落ちた袋から、ラッピングされたクマのぬいぐるみが飛び出しているのが見えた。刺し飽きた男は、次の獲物を探して走り出す。
霞む視界。マコは刺された箇所から熱い体液が流れ出てるのを感じながら、同時に寒気も感じる。ぬいぐるみが自分や別の被害者の血に染まっていく。女性スタッフが提案してくれたぬいぐるみだった。つぶらな瞳でマコを見つめるぬいぐるみのその首には野井に渡す予定のネックレスが輝いている。
遠のいていく意識の中でポケットを探りスマホを出すと、野井に電話をかけた。周りがパトカーのサイレンは喧騒で賑わっている中、通話中の画面になったことを確認する。
「野井くん?」
「どうした?」
「…愛してるよ」
「なんだよ急に」
「…」
「マコ?おーい…マコ?」
そのままマコは通り魔の被害に遭い亡くなった。知らせを受けた野井は、急いで病院に駆けつけた。血の気が弾き白く冷たくなったマコの遺体を見て、泣き崩れる。通り魔の名前が公表されたとき、レストランで薬物を売った男であることに気づいた。
自分がマコを殺したんだと、絶望した。佐久間という男に処分予定だった覚醒剤を売ったことで、彼女は死んだ。亡くなった際に手に握られた赤く染まったクマのぬいぐるみ。遺品として野井が受け取った。ぬいぐるみの首に身につけられたネックレスも血で固まりぬいぐるみと一体となっている。無理やり引き剥がすのもぬいぐるみが破損するような気がして、取るのをやめた。さらに、“野井くんへ”から始まるメッセージカードも近くに落ちていたと警察から渡され受け取る。
気持ちの整理ができないままそのカードを開く。
「野井くんへ いつも明るくいてくれてありがと!これからもよろしく!あまり危険なシゴトはしないでね。マコ」
Goes Around