淀む空気もいずれは流れる
俺は自分の書く小説が最高だと信じていた。
自分以外の誰かが書いた小説など、価値のない駄文だと思っていた。
だから俺は、奴が作品の中で描く「心」を認めたくなかった。
◯
電子メールに添付されたワードファイルを閉じた俺は、小さなローテブルに頬杖をつくと右手の人差し指で苛立たしげに天板を叩いた。屋根を叩く雨音のようなそれは、中指が加わった事で更に雨足を強めた。
「どうした? イラついてんの?」
俺の背後のソファーに座るミサキが、細い指先で俺の肩甲骨の辺りを突いた。左手にはスマホが握られている。いつものように、よくわからない男性アイドルのSNSでも覗いていたのだろう。
「別に」
感情を研磨して返した言葉だったが、その裏側はザラついたささくれが目立つ粗悪品だった。これではミサキの審美眼を欺く事など出来ない。ミサキはそんな面倒臭い女だ。
「絶対怒ってるじゃん」
「怒ってねーよ」
「あたし、何かした? なんで1人でイラついてんの? 意味わかんない」
「ちがうよ」
俺はゆっくり立ち上がると、倒れ込むようにソファーにもたれていたミサキへと覆い被さった。ミサキはほんの少し抵抗する素振りを見せたが、それは明確な拒否ではなく扇情的な匂いを含んでいた。
PCのモニターが照らす、薄暗い部屋。
俺は自分の中の苛立ちを打ち付け、穿ち、砕くように、その行為に没頭した。自分の心の奥底に溜まった膿を、指先で搾り出そうとした。
しかし実際に搾り出されたのは、電柱にかけられた犬の小便のような、酷くどうでもいい代物だった。
空気が澱んだような、気怠い時間が訪れる。
満ち足りた笑みを浮かべるミサキを横目に、俺は苛立ちの捌け口として彼女を使ってしまった罪悪感に、居心地の悪さを感じた。
サンダルをつっかけ、ベランダでメビウスライトに火を付ける。ミサキが入り浸るようになってから、俺はいつも外に追いやられている。
夏の終わりとはいえ、宵の口の空気まだまだ熱かった。今年は例年以上に残暑が厳しいと、例年通りの文句をウェザーニュースのキャスターがぼやいていた気がする。
たちのぼる紫煙が隣のベランダへと流れていった。どうやら風が吹いているようだが、涼しさは全く感じなかった。熱い湯船の中で、服を着たまま流動するお湯に身を委ねている様な、なんとも不快な感覚だった。
どこかで打ち上げ花火の音がした。
近くの公園で大規模な花火大会が行われている事を思い出す。もう少し早く思い出していたら、ミサキと2人で散歩がてらに花火を眺めに行ってもよかったかもしれない。
しかし今となってはどうでもいい、石ころのような後悔だ。
また花火の音がする。
空に咲いているであろう大輪の花は、目の前に聳え立つマンションの影になり全く見えなかった。
生温かい風がぬるりと流れた。
俺は二本目のタバコに火を付けて、音だけの花火を聴いていた。
◯
サトルは風のように掴みどころのない男だった。
奴とは高校時代からの友人で、初めて話した時から気が合った。理系の進学クラスながら小説の執筆を趣味としていた俺たち2人が、互いの書いている小説を見せ合う程の仲になるのには、さほど時間は掛からなかった。
サトルの書く文章はどこか宙に漂うような印象があった。すぐに何処かへ飛翔し、取り止めがなく纏まりない言葉をばら撒いては、返す波のように舞い戻る。落ち葉を散らかす迷惑な秋風のようなその文章を、俺は当初困惑し、やがて下に見た視線を向けるようになっていた。
正確で緻密、計算され尽くした俺の文章と違い、サトルのそれはあまりにも稚拙に感じられた。
「それがお前の持ち味だから」と耳障りのいい言葉を投げかけながら、俺は優越感に浸っていた。
高校を卒業し、俺は他県の理学部に進学した。サトルは県内の工学部に進学し、俺たちは異なる環境に身を置く事となる。
お互いが新しい環境に慣れた頃、サトルからの一つの提案があった。小説という趣味を誰にも打ち明けられていない環境の中で、俺達は互いに「読者」と「目的」に飢えていた。
それは一つの合作小説を2人で書き上げるという、なんとも文学的な雰囲気が漂う高尚なお遊びだった。二人の若者が理想郷を求めて辿る旅路を、それぞれの主人公の視点から交互に描いていく。
まるで交換日記のようなその提案は中々に魅力的であり、俺は二つ返事で快諾した。
合作小説は滞りなく積み上げられていった。
しかし俺は、心の何処かでサトルが描写する支離滅裂な登場人物を嘲笑い、確固たる意志を持って旅路を先導する自らの登場人物に酔いしれた。
しかしその心地良い酔いは、いつしか目眩をもたらし、目を逸らすことの出来ない悪夢を見せるようになった。
合作小説の中で、サトルはどんどん成長していった。
相変わらず支離滅裂で、行き当たりばったりな文章だったが、そこに芽生えた生々しい雰囲気は、やがて物語自体を支配し始めた。
そんなサトルの描写する主人公には、ある筈のない「心」が透けて見えるような気がした。
それと相対す俺の主人公はどうだろうか。相変わらず沈着冷静で、間違いなど起こす気配すら無かった。しかしそれは、単なる機械の正確さでしかないように感じられた。
俺はわからなくなった。
誰かの意見が欲しくなった俺は、当時付き合い始めだったミサキに小説の感想を求めた。小説はおろか、漫画ですら読む習慣がないミサキは「なんか、あたしにはよくわかんないけど」と前置きして、一生懸命言葉を紡ぐ。
「なんかね、こっちの人の方が、生き生きしていると思う」
ミサキはサトルの描いた主人公を指差し、下手くそな愛想笑いを浮かべた。
それが真実なんだと、俺は痛感した。
それから数回のやり取りの後、俺の主人公は不慮の事故に合い、死んだ。
合作小説を書き進める気力など、夏のアスファルトに降り注ぐ通り雨のように、跡形もなく消えてしまった。
サトルにはバイトと実習が忙しくなったと言い訳をした。彼からメールで返事があったが、俺はそれに返さなかった。
それからは、サトルの主人公だけの旅路が、メールで送られてくるようになった。
◯
窓の外にはマンションが聳え立つ。
それらは蒸し暑く息苦しい空気を囲い込み、その中に閉じ込められた俺の心を、少しずつ腐らせていく。
どこにも行けない閉塞感が日々に蔓延し、文章の世界で感じていた万能感は、電信柱に繋がれた痩せこけた犬の餌食となり、ボロボロに朽ち果てている。
腐臭を放ち始めたその空気は、どこにも流れる事なく、朝日すら遮られるベランダで、ずっと漂い続ける。
シワだらけの敷布団から起き上がったミサキが、ベランダで呆けている俺の隣に立ち、左手で俺の頬を突くと、無精髭の生えた下顎に唇を這わせた。
俺は無言のまま、その生温かい感触に眉根を寄せる。
◯
ミサキが入れたコーヒーを舌先で味わいながら、俺は実習のレポートを仕上げるためにPCを立ち上げる。
メールを開くと、またサトルから小説が届いていた。もはや件名を見るのも飽き飽きしていたが、ファイル名に書かれた『完結』の文字に気付く。
このファイルを開いたところで、自分の無能に打ちひしがれる結果になることは目に見えている。しかし、一人旅を続けたサトルの主人公が、どのような結末を迎えたのかには、興味があった。
『遂にたどり着いた。夢の理想郷』
最終話はそんな書き出しで始まった。長い旅を経て、サトルの描く主人公は遂に念願の理想郷にたどり着いた。
しかしそこは、富に溢れた黄金の都市でも、花咲き誇る美しい島でも、欲望に塗れた酒池肉林の城でもなかった。
そこは何もなく、風がそよぎ、ススキが揺れるだけの小高い丘だった。
そこで彼は、カバンの奥底に大事に仕舞っていた小さな包みを取り出す。その中には小さな白い塊が収められていた。それは骨だった。旅路の途中で命を落とした、大事な友人の骨だった。
地面に小さな穴を掘り、その小さな骨の欠片を埋めると、彼は両手を合わせて語りかける。
『君が死んでしまってから、僕は探し続けてきた』彼は思い出を一つ一つ摘み、棺の中へと並べるように、言葉を繋いでいく『そして今やっと、君を葬るのに理想の場所を見つけた』
口の中に残ったコーヒーが、舌の上でわずかな酸味を主張している。
物語の中の彼は、志半ばにして死んでしまった友人の為に、安らげる場所を探し続けてきた。
そこが、彼にとっての理想郷だった。
『君が死んでしまってからも、君の心を感じられたから、僕はここに辿り着けた』
ローテーブルを叩いていた指先は、気が付けばTシャツの裾を握っていた。
俺にとって、あの主人公は命のない機械だった。俺の願望と、プライドと、虚栄心を投影しただけの、心無い傀儡だったはずだ。
しかしサトルは、俺の描いた主人公の中に「心」を見つけてくれていた。
『君と旅が出来て幸せだった』
主人公のその一言で、物語は幕を閉じた。
◯
俺はPCを閉じると、窓を開けてベランダに出た。昼前の蒸し暑い空気の中に、何処か秋の涼しさが感じられた。
タバコを取り出そうとして、止める。
久しぶりに感じるこの涼しく爽やかな空気を、不純物なく胸一杯に吸い込みたかった。
目の前には相変わらずのマンションが佇む。
しかしその隙間から流れ込む秋風は、澱み、濁り、凝っていた心の靄を、何処かへ持ち去ってくれるような気がしていた。
『最終話、読んだよ』
俺はスマホからサトルにメールを送る。
『君の描いた彼は、理想郷に辿り着けたかな?』
サトルから返信がある。
『ああ、辿り着けたと思う』
そう一言だけ返して、俺はベランダの手すりにもたれ掛かり、空を見上げた。
空は遥か遠くまで澄み渡っている。
サトルの吹かせた秋風が、雲さえも遠くまで持ち去ってくれたようだった。