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二話 白髭白雪の提案

 白髭白雪は驚くべき美人だった。鼻は定規で引いたようにまっすぐで高く、やや吊り上がった目はまつげと二重できれいに飾られ、背中まである黒い髪は埃をかぶった通路の蛍光灯の明かりの中でもつややかに輝いていた。

 玄関を開けて彼女の姿を見た時、僕は馬鹿みたいに口を開けて動けなくなった。いろいろな疑問が浮かんだが、ひとつも言葉にならなかった。

 彼女が訪れたのは夜の十時前だった。その時僕は灰になった父親の収まった小さな壺を畳の上に置き、明かりをつけるのも忘れて、ぼんやりと座っていた。すべきこと、考えるべきことがたくさんあるような気がしたし、ろくに食べてもおらず腹も減っていたけれど、何もする気にならなかった。扉をたたく音が聞こえたが、はじめはそれが何の音なのかわからず、ノックだとわかっても、自分の部屋のドアが叩かれているのだとは思わなかった。うちへの客だと気づいても、とても出る気にはなれずそのまま眠ってしまおうと思った。だがノックは静かに、執拗に繰り返された。何かかたくなな意志のようなものを感じ、あきらめた。

 扉を開けて、僕は言葉を失った。

「お父さんは?」

 沈黙の挙句、彼女は言った。冷たい声だった。家を間違えているのではないかと思ったが、彼女は喪服だった。父親の連れの女だろうか。その考えもどうも違うような気がした。お父さん? 彼女の言葉が気にかかった。僕が黙っていると、彼女は玄関に上がって、靴を脱いだ。

 それから明かりを点け、畳の上に置かれた骨壺の前に立った。

「これ?」振り返って、彼女は言った。シャンプーのコマーシャルのように、彼女の髪がなびいた。質問の意味がわかっていなくても、僕はうなずくことしかできなかった。

 彼女は壺をひとしきり眺め、それから息を吐いた。

「相川あああくんよね」

 僕はまたうなずいた。

「はじめまして、あなたの姉の白髭白雪です」

 まだ一言だって話していないにも関わらず、僕はさらに言葉を失った。

「まあいろいろ混乱はあるでしょうけど、とりあえずご飯にでも行きましょうか」

 彼女は微笑んだ。他人の笑顔が怖いと思ったのは、それがはじめてだった。


 アパートの脇に赤いプジョーが停まっていて、彼女がその助手席を開けた。

「乗って」彼女が言った。僕は言われたとおりにした。そうすることしかできなかった。僕が座ると、彼女は運転席に乗り込んで車を発進させた。

「あなた、歳は?」

「16です」外に出て、少し冷静になって、ようやく僕は話すことができた。

「高校生?」

「はい」

 車に乗るのは新鮮だった。しばらく無言のまま、夜の街の中を、ゆっくりと車は滑っていった。車内にはかすかに煙草のにおいが漂っていた。前を走る車のテールランプが目玉のように赤く光って揺れていた。彼女に聞きたいことはたくさんあった。姉というのがどういうことなのか、父親が死んだことをどうして知っているのか、僕の家をなぜ知っているのか、僕の名前をなぜ知っているのか、どれから口にすべきか考えているうちに体が重くなり、眠っていた。何か夢を見たような気がするが、忘れてしまった。

 体をゆすられた時、はじめ彼女が誰だかわからなかったが、意識がはっきりしてからも自分が彼女を誰だかわかっていないことに改めて気が付いた。眠っていたのは15分ほどだったが、それでもいくらか混乱は収まっていた。そこはチェーンの焼き肉屋の駐車場だった。

「時間が時間だから、こんなお店になっちゃうけど」彼女は言った。僕は首を振った。焼肉なんて何年も食べていなかった。平日の遅い時間だから、店は空いていた。席に案内され、僕たちは腰を下ろした。僕たちはまわりからどのように見られるのだろう。やはり姉弟だと思われるのだろうか。それとも恋人のように見られたりするのだろうか。そんなことを考えるとまた落ち着かなくなった。

 彼女は適当に注文してから何か頼みたいものがあったら言ってとメニューを寄越した。店内に満ちた肉やにんにくのにおいで、自分がものすごく腹が減っているということに気が付いた。僕は石焼ピビンバと骨付きカルビとコーラを頼んだ。

「さて」彼女は運ばれてきたビールを一口飲んでから言った。「さっきも言ったけれど、私は白髭白雪と言います。相川あああくん、あなたはお父さんの前の奥さんを知ってる?」

 僕はまた首を振った。自分の母親のことさえ、まともに知らなかったし、父親のこともろくに知らないような気がした。

「私はその人の子供なの。だからあなたとは異母姉弟になるわけ。これはわかる?」

 僕はうなずいた。うなずいたり、首を振ったりばかりで、何だか自分が小さな子供になってしまったような気がした。

「どうして親父が死んだことを知ってるの」

 辛うじてそれだけ尋ねた。彼女はしばらく僕の目を見つめ、鞄から新聞を取り出して僕に差し出した。

「役所の人に新聞に訃報を知らせるか聞かれたでしょう」

 彼女の指先は新聞記事の訃報欄を指していた。そこには父親の名前も載っていた。死んでからの手続きにはほとんど事務的に答えていたので、そんなことに気がつきもしなかった。ウェイターがタン塩と野菜の皿を運んで、テーブルに並べた。適当に焼くわね、そう言って彼女は肉や野菜を網の上に並べていった。

「実を言うと、私、お父さんとは定期的に連絡を取っていたの。だからあなたのことも家も知っていた。訃報欄を見たのは本当にただの偶然なの。本当はもっとはやく来て、あなたのことを手伝いたかったんだけど、ちょっと私の方もばたばたしていて遅くなっちゃった。だからごめんね」

 きれいな女の人に謝られるのは、とても奇妙な気分だった。僕はまた首を振った。肉の焼けるにおいが漂ってきた。店内にはミスターチルドレンの曲のオーケストラアレンが流れていた。僕たちは肉を食べ、野菜を食べ、また肉を食べ、それから運ばれてきた石焼

ピビンバを食べた。

 白髭白雪は僕の10歳上だった。父親の19歳の時の子供だと言う。母親は60歳で3年前にすい臓がんで亡くなった。父親のことを探したのは、母の死を知らせるためだった。

「お父さんとは母さんの通夜の時にはじめて会った。赤ら顔でやってきて、棺桶の中の母さんを見て号泣しはじめたの。私、すぐにこれが自分の父親なんだってわかったわ」

 それから彼女は時々父親と連絡を取るようになった。父親は僕も含めて、三人でいっしょに暮らさないかと彼女を誘っていた。当然かもしれないが、彼女はそれを断った。それに彼女には仕事があり、自分の生活があった。

「何の仕事をしているんですか」僕は尋ねた。テーブルの上の肉は一通り片付いており、彼女はすでに5杯めのビールを飲んでいたが、顔色ひとつ変えていなかった。

「デイトレーダー。わかる?」

「株とかの」

「そう、個人で株式の売買をしてるの。もうやめるつもりだけど」

「どうして?」驚いて、僕は尋ねた。

「飽きたから」

 彼女はデザートに杏仁豆腐とアイスクリームともう一杯のビールを頼んだ。

「9時から3時までパソコンにずっと貼り付けなの。もう嫌だわ」

「何か、別の仕事をはじめるんですか」

「うん」彼女は笑って、テーブルに身を乗り出した。「お父さんのお店、私が継ごうと思うのよ」

 僕は飲んでいたコーラを吹き出しそうになった。服装や雰囲気から彼女がけっこうな額を稼いでいるのは見て取れた。個人でやっているような小さな飲み屋に乗り換えるなんてまともな判断のようには思えなかった。

「それを伝えるために僕に会いに来たんですか」

 僕が尋ねると、彼女は首を振った。

「それもあるけど、それだけじゃないわ。私、あなたのことを引き取ろうと思うのよ」

 彼女の言葉に、今度こそ僕はむせ返った。

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