一話 相川あああは不幸だろうか。
父親のことは恨んでいない。もちろん嘘だ。あんなやつは大嫌いだ。ろくなやつではなかった。だけど殺したいとか、死んでほしいと思っていたわけでもない。でも死んだ。酔って、階段から落ちて、死んだ。最後までろくな人間ではなかった。
朝けたたましいサイレンに起こされた。部屋を出るとアパートの前に人だかりができていて、救急車やパトカーが並んでいた。寝巻のまま階段を降りると頭から血を流した男が救急隊員に声をかけられながらタンカに乗せられていた。それが父親だとわかるまで何秒かかかった。正確には、直観ですぐにわかっていたのだが、理性の方がその判断を拒否していたので時間がかかったのだ。警察がアパートの住人に事情を聴いていた。たぶん第一発見者なのだろう。正直言えば、部屋に引き返そうかとも思った。もう一度布団に入って、眠ってしまおうかと思った。だが無論そうはならずに、アパートの住人が僕のほうを見て何かを警察に告げ、告げられた警察がまた別の警察に何かを告げて、その警察が僕のところまでやってきた。
「息子さんですか」と言った。僕は否定できずああ、だか、はあだかそんなような返事をした。
「お名前は」そう聞かれて、答えるのをためらった。それは僕にとって最大に嫌な質問だった。それでも嘘を言うわけにもいかなかった。
「相川あああです」僕は言った。
「え」若い警察官は素っ頓狂な声を上げた。僕はため息を我慢した。
「相川あああです、ひらがなで〈あ・あ・あ〉」
彼はしばらく訝しげに(当たり前だ)僕の顔を見て、それから手帳に「相川あああ」とメモを取った。
「先ほど住民の方が発見されたんです。正確なところはわかりませんが、階段から落ちたらしくて」
救急車に案内され、僕も乗せられた。若い警察官もいっしょに乗り込んだ。簡易ベッドの上に父親が寝かせられていた。額から流れた血は乾いていて、意識もなかった。というか、どう考えても死んでいた。救命士が心臓マッサージを繰り返していたが、見込みはなさそうに見えた。
「混乱されてるとは思うのですが」警察官は僕の隣にしゃがみこんで、いたく同情する、というような顔つきで言った。「昨晩お父さんはどちらに」
それで僕は警察官に父親のことを説明した。父親は飲み屋を経営していて、いつも帰りは深夜から遅い時は朝方、僕が学校に向かった後になることもある。へべれけになって帰ってくることが多いので、たぶん今日もそうだったんだろう。
家族は僕と父親だけで、母親も兄弟もいない。母親に関しては幼いころにいなくなったので自分は何も知らない。祖父母に関しても何も知らない。
隣では父親の救命措置がつづいていた。無駄ならやめてもいいですよ、と僕は言いたくなった。きっといい人生だったんじゃないかな、飲みたいだけ飲んで、たまに女を抱いて、孝行息子とは言い難いけれど息子と二人気ままに暮らして、楽しかったんじゃないかな。死んで後悔するような人生じゃなかったんじゃないかな、だからもうそのまま逝かせてあげていいですよ。だけど、もちろんそんなことは言わなかった。
案の定、父親は助からなかった。泥酔していたこともわかって、無事、というのはおかしいけれど、事故死だと認定された。それで、僕は天涯孤独になった。
〈相川あああ〉、冗談抜きに僕の本名である。
名前が人生に及ぼす影響なんて大したものでないという人がいるかもしれない。だけど名前が人生に決定的な影響を与えることだってある。間違いなく僕がそのサンプルだ。
自分の名前が〈相川あああ〉でなかったら、ということを時々考える。たとえば相川雄介とか相川耕太郎とか相川花道とか、なんでもいいからそういうあり得る名前だったとしたら、自分の人生はもっと平坦で、牧歌的なものだったのではないかと思う。適当に勉強し、普通の成績で、普通の友達と遊んで、普通の彼女ができて、普通の大学に行って、卒業して、就職して、結婚して、子どもができて、そのうち退職して、そういう、父親とは違った、ろくな人生だったのではないかと思う。でも残念なことに僕の名前は相川あああで、僕の生活はこの名前に大いに左右されることになった。一応だが、この名前には意味のかけらもない。覚えやすいし、目立つし、〈相川〉の後に〈あああ〉がつづけば間違いなく出席番号は一番で、人気ものになるだろう、幼稚園の宿題で名前の意味を聞いてくるという残酷な宿題が出された時、ビールを飲みながら父親はそう答えた。
おかげで同級生から先輩から後輩から保育士から担任から知らない教師まで、名乗った人間のほとんどにせせら笑われながら生きてきた。おまけに小学一年から六年を、中学一年から三年を、何の因果か一組とA組で過ごした所為で入学式から卒業式までひたすら公衆の面前で一番に名前をさらされる羽目になったのだった。
だから僕は勉強した。僕は僕の健康で文化的な最低限度の生活を自分で勝ち取らねばならなかった。名前以外に馬鹿にされるような要因をひとつずつ丁寧に排除していかなければならなかった。中学から高校に入学した今まで、成績はずっと総合トップだった。部活には入らなかったが(名前を呼ばれる機会を減らしたかった)、運動神経もそれほど悪くなかった。西に風邪を引いたというクラスメイトがいればプリントとノートを届けてやり、東に人手が足りないという委員があれば行ってペンキを塗るのを手伝った。
そのくらいのことをして、僕はようやく人並の人間関係が築くことができるようになった。僕は幸福のためではなく、ただ不幸にならないために努力をしてきた。だから僕は今不幸ではない。だが幸せの意味は、不幸せでない、ということと同じなのだろうか。僕にはわからない。
父親が死んだが、葬式はしないことにした(直葬というらしい)。金がなかったし、父親の死を誰に、どのように伝えればいいのかもわからなかった。それに当たり前だけれど、僕は気が気でなかった。死亡診断書を提出し、遺体を自宅に引き上げて、火葬のための手続きをし、布団に寝かせた。血が拭き取られ、洗浄され、髭をそられた父親の死体は生きている時よりもずっときれいだった。眠っているみたいにも見えたが、呼吸はなく、顔も青ざめていた。首と、手首に手を当てて、はじめて死んでいるのだと思った。
ろくでもないやつだった。毎日酒を飲んで帰ってきて、三か月ほどの周期で連れて帰ってくる女が入れ替わった。掃除も、洗濯も、料理もしなかった。だから基本的には家事はほとんど僕がやるか、父親の彼女たちがするかだった。彼女たちは僕に優しかった。奇妙なことだが、みんな父親のことが大好きだった。僕が自分の名前のことや、父親の生活態度について彼女たちに話しても、口をそろえて許してあげてほしいと言った。彼は彼なりにいろいろな考えがあるのだとか、彼にもいろんな悩みや心の闇があるのだとか、そんなことを言われた。
なぜかわからないが、そんなことを考えながら父親の顔を眺めていたら、涙が流れた。ろくでもないが、悪いやつではなかった。大嫌いだったが、嫌いでなかった。いい親子には最後までなれなかったが、僕たちは友達だったのだと思った。
学校には事情を説明して、一週間の休みをもらった。担任にいたく心配された。大丈夫かと聞かれ、大丈夫だと答えた。
ひとり、火葬場に同行し、遺体を焼いた。もう涙は出なかった。棺桶に入れられて、父親は焼かれた。当たり前だが生き返ったりはしなかった。身長一七八センチメートルあった父親の骨は小さな壺に収まった。僕はそれを受け取り、家に引き返した。部屋に帰って畳の上に骨壺を置くと、いよいよ僕は孤独になったのだと思った。何もかも自分で何とかしなければならないのだと思った。
だが家賃の支払いや中途半端に残された父親の飲み屋や、僕自身の保護者について、僕はどうすればいいのかわからなかった。僕はただの一六歳の少年なのだと信じられないほどに思い知った。
そして、白髭白雪が僕の前に現れたのはそんな日の夜だった。