魔那児
夜半から降り続いた雨は夜明け前には止んで窓の外には青空が広がる。
初夏とはいえ少し肌寒い晴れた朝の日に僕は部屋の埃混じりの空気に飽きて外に出た。
スニーカーに足をおしこんで家の扉を開けると斜め向かいの公園から植物の青い匂いが流れてくる。
僕を照らす朝陽はまだ弱々しく、風は冷気を含んで僕の顔を打つ。
3つ目の角を左へ曲がり、急な坂道を駆け上がる。
息が少し乱れた頃に丘の上の公園の入り口に辿り着いた。僕は少しスピードを落とす。
こんな晴れた日には頂上から100km離れた富士山が見えるのだ。
凛としたその姿には、たった15年しか生きていない僕でも何か心を打たれる。
たった15年、もう15年・・・・・。
モラトリアムの時間は徐々に少なくなっていく。大学受験、就職、そしてどうなる。
僕は自分に自信がない。良い大人になんか成れる気がしない。兄がそうであったように。
あと2年で兄の年齢においつく。その時僕はどうなっているのだろう。
昂揚した気持ちが急速に萎えていき、僕はベンチに腰を下ろした。
冷たい風が吹いて、薄手のシャツ1枚の僕は肩をすぼめた。
「なに浮かない顔してるんだよ、タツヤ。」
突然、名前を呼ばれた。
声の方を見ると、兄がにやにや笑いながら僕を見下ろしていた。
「ああ、おどろかしちゃったかな。すまんすまん。」
「別になんでもないよ。」
僕は兄に心配されたことが無性に恥ずかしくって顔を背ける。
兄は僕の隣に座る。肩が触れ、兄の体温の暖かさが伝わってくる。
夢であれ現実であれ、それはあり得ない感覚なのに。
しばらくの沈黙、そして再び兄は僕に語りかけた。
「お前、まだあの時のこと気にしてんのか。もういい加減忘れろよ。」
忘れろって、誰のせいだとおもってるんだ。
僕は兄の方に向き直り、睨みつけた。
「忘れられるわけないだろ。じゃあ、あんなことするなよ。」
兄の表情は昔と変わらずどこか真剣さの欠けた、でもなんとなく寂しそうな顔。
「こっちにはこっちの事情があったんだよ。お前にはわからんさ、まだな。」
雨露を含んだ足元の草が光を受けてきらきらと輝く。
兄の髪も濡れていた。一晩ずっと外にいたのだろうか。
「ちげえよ、誰がずっといるかよ。服濡れてないだろ。」
そう尋ねた僕に兄は力なく笑いながら答え、両手をその伸びた髪に突っ込み、かき回す。
「今来たばっかだ。俺はここには戻ってきたくなかったんだよ。」
「こっちだって・・・・・。」
嘘だ、僕は兄に会いたかった。どうしても聞いておきたいことがある。
「兄ちゃん、なんで自殺したんだよ。」
今度は兄が視線をそらす。
「なあ、なんで死んだんだよ。なんで今ここにいるんだよ。今いる兄ちゃんはなんなんだよ。」
僕の矢継ぎ早な詰問を兄は黙って聞いていた。
「黙ってないで、なんとか言えよ。」
兄は僕に視線を合わせることなくゆっくり立ち上がって、振り向くことなく言った。
「お前が元気にしてるかなと思って、いや嘘だ。あいつが行けと言ったからだ。」
「あいつって誰だよ。」
「いずれわかるさ、すぐにな。じゃあ帰るわ。」
「兄ちゃん。」
そう呼んだ時にはすでに兄の姿はなかった。
兄の座っていたあたりを触ると、生者の証である温もりを感じた。
いったい死んだはずの兄はどこから来たんだろう。
いずれ分かると言っていた。それは兄のことなのだろうか。それとも。
僕は兄の立ち去った方角になにげなく目をやった。
富士山に開いた大きな瞳。
そいつは僕を凝視していた。
その瞬間、僕は全てを察した。
兄が自殺した理由も、今日たずねてきた理由も。
北方の空から銀色に光る矢が後方に雲を伸ばしながら富士山に向かって飛んでいく。
その航跡はまっすぐに巨大な瞳へと向かう。
残された時間はあと少しだろう。
兄さんは知ってたんだね。こうなることを。
「ああ、そうだ。」
どこからともなく兄の声が響く。
「魔那児は俺に今日の日のことを見せて、俺は魔那児のところに行った。現世の身体を捨てて。」
兄の声はどこか虚に響く。
「お前も来ないか?俺と一緒に。」
僕は逡巡した。兄の言葉が信じられないわけではない。
兄を連れて行った魔那児のことが怖いんだ。
実際の死は怖い。しかし、永遠の生もまた僕には恐怖だ。
さあ・・・・どうする?




