居残り
みんなは、『居残り』をさせられたことって、ある?
『居残り』っていうのは、宿題を忘れたり、掃除をサボったりすると、その罰として、放課後に漢字の書き取りなんかをさせられること。
あれは、とある冬の日。その日も僕は、宿題を忘れたせいで『居残り』をさせられていたんだ。
冬って嫌だよね。寒いし、暗くなる時間も早いしね。五時ごろには、もう薄暗くなってしまう。
いつもはみんないて、ガヤガヤとうるさい教室も、独りきりになるとすごく静かなんだ。時計の針の音でさえ、コチッ、コチッって、はっきりと聞こえてくる。時どきふいてくる北風が、古くなって隙間のある窓から入ると、その度に、ビューって音が鳴るんだ。
こんなところに独りでいるなんて嫌だよね。だから僕も急いで漢字の書き取りをやったんだ。
でも、いくらがんばっても終わらない。まるで、書いているそばから消されているように、先に進まないんだ。
そうやっているうちに、辺りはだんだんと暗くなってきた。
「もう帰りたいよ~」
だれもいない教室で独りごとを言うと、僕は、漢字ノートからそっと顔を上げて時計をみた。
――六時――
時計の針は、上から下へと一直線になっていた。
「先生は、もう帰ったかな?」そう考えて僕は不安になったよ。『居残り』させられている僕のことなんて、忘れてしまったかもしれない。
「帰っちゃおうかな?」そんなことも考えたけど、そのことで怒られて明日も『居残り』だなんて絶対に嫌だからね、諦めた僕は、再び漢字ノートに視線を戻したんだ。
その時、
――プルルルルル――
静かな教室で、驚くほど大きな音を立てて、インターホンが鳴った。
僕は、一瞬びくっと全身をこわばらせたよ。
でも、すぐに教室の隅まで走り、そこに掛けてある受話器を取ったんだ。
「はい。もしもし。」
そう尋ねる僕の耳に、聞きなれた声が返ってきた。
「漢字の書き取りは終わった?」
先生の声だ。
「……まだです」
僕は、正直に答えたよ。
すると先生は、今の僕にとっては一番の、嬉しい声をかけてくれた。
「今日はもう遅いから帰りなさい。残りは宿題にするから、明日持ってきなさい」
って。
僕は飛び上がるほど喜んだよ。
でも、あまり弾んだ声を出すと、「反省してない」って思われるからね。
出来るだけ落ち着いた声で、
「分かりました。そうします」
と答えておいたんだ。
「教室の鍵はそのままでいいから、気をつけて帰りなさい」
先生がそう言ったのを最後に、そこで電話は切れた。
帰れると分かったんだから、のんびりなんかしていられないよね。ランドセルに荷物を詰めこむと、僕は急いで教室を飛び出した。
廊下に出ると同時に、僕は全力でダッシュした。
ダンッ、ダンッ、ダンッ。僕の靴音が響く。
教室と違って廊下は真っ暗で怖かったけど、「帰れるんだ」って気持ちが僕を前に押し出したよ。
そのまま少し走っていると、廊下の脇に男の子の姿が見えた。僕と同じくらいの背で、立ったままじっとこっちをみている。
「さては、この子も残されたんだな」僕はそう思ったよ。
『居残り』仲間がいたことが嬉しくて、僕は、通りすがりに手をふったんだ。
顔は見えなかったけど、その男の子は息切れしていて、何だかとてもつらそうだった。
だけど、僕は先を急いでいたからね。声をかけることもなく、目の前を通りすぎたんだ。
そこからさらにスピードを上げて、僕は走った。もうすぐ廊下も終わるはずだからね。
ところが、いくら走っても廊下の終わりがこないんだ。暗闇の中、長い長い一本道をひたすら走っている。そんな感じがしたよ。
さすがに疲れて、「少し歩こう」って思ったその時、先のほうに、また人影があるのが分かった。今度は屈みこんでいる。
ゆっくりと歩き、僕はその人影に近づいてみた。
その人は、どうやら大人。おじさんのようだった。
「ひょっとして、先生かな? だったら嫌だな」僕はそう思ったよ。だって、こんな遅くまで残っているなんて、さっきの子と僕ぐらいだからね。嫌味のひとつも言われるだろうし……。
だから、僕は、出来るだけそのおじさんを見ないようにして、そこを通りすぎたんだ。
おじさんはずっと僕のほうを見ていたけど、声をかけてくることまではなかった。
「勝手に学校へ入りこんだ、怪しい人かも」そう考えると怖かったけど、話しかけられなくてラッキーだったよ。
そして、僕は、また走り出したんだ。それこそ、ふり返ることもなく、全速力でね。ふり返るとさっきのおじさんが追いかけてくる。そんな気もしたからね。
それからしばらく、僕は走った。廊下は、まだ続いている。いったい、どれくらい走ったのだろう。
どこかの教室から先生にインターホンで助けを求めようとも思ったけど、いつの間にか廊下の両端は壁になっていた。きた道を戻って、おじさんと再会してしまうのも嫌だった僕は、そのまま進むことにした。
ずっと走り続けなので、息は切れ、額からは汗が顔へと流れていた。ランドセルも重く感じる。
走ることを諦めた僕は、ふらふらになりながら廊下を歩いた。
すると、僕はまた見てしまったんだ。廊下の端にいる人影を……。
今度の人は屈んでいるんじゃなくて、座りこんでいた。壁に背をもたれさせ、足を投げ出していたんだ。
僕は考えたよ。「この人が助けてくれるかも」って。
どんな人かも分からないのにね。僕はかけ寄ったんだ。
その人は、おじいさんだった。
僕の必死な様子が伝わったのか、おじいさんは顔を上げた。
廊下は相変わらず真っ暗だったけど、目が慣れていたことと、すごく近づいたのもあって、僕はおじいさんの顔をはっきりと見た。
そして、次の瞬間、僕は気を失ったんだ。
でもね、意識がなくなる直前、僕は絶対に見たんだ。
そのおじいさんは、間違いなく、歳を取った……「僕」だった。
午後八時ぐらいかな、多分。激しく身体をゆすられ、僕は目を覚ました。
まだぼんやりとしか見えない視線の先には、お父さんとお母さん。それから、先生の姿もあった。
どうやら僕は、学校の廊下で気絶していたらしい。
家に電話があったんだって。おじいさんの声で、
「お子さんが、学校で倒れています」
って。
学校はとっくに閉まっていて、だから、先生に連絡して鍵を開けてもらったんだって。
不思議だよね。僕は、ずっと廊下にいたんだよ。それなのに、教室の鍵を閉めにきた先生が気づかないわけがないよね。
でもね、もっと不思議なのは、僕が廊下で最後に出会ったあのおじいさん。
番号を知るわけがないのに、僕の家に電話をかけているんだ。
こんなことがあったからね。それからの僕は、宿題も掃除もしっかりとやったよ。
だけど、続いたのはほんの少しの間だった。
一週間後。僕は、また宿題を忘れ、『居残り』をさせられることになった。
そして、この日、僕は、これまでの不思議の真実を知ることになる。
『居残り』の漢字の書き取りを、僕はとにかく脇目もふらず、一生けんめいにやった。また廊下で気絶するなんて、絶対に嫌だったからね。それこそ必死だったよ。そのお陰で、五時には帰ることができたんだ。
五時といっても、もう暗くなり始めていたからね。廊下に出ると、僕は猛スピードで走り出した。
また、長い廊下が続くのかなって心配したけど、順調に終わりは近づいている。僕は、本当にほっとしたよ。
でも、次の瞬間、事態は変わっていた。
足が動かないんだ。まるで、おもりをつけたクサリにつながれているように、前に進めない。
とうとう僕は、その場に立ちどまってしまった。
いったいどのくらいそうしていただろう。僕の目の前を、ランドセルを背負った男の子が走り抜けた。その子は、すれ違いざまに、僕に手をふって行ったんだ。
そう、一週間前に僕がしたようにね。
身体はだんだんと重くなり、僕は屈みこんだ。さっきの少年が、今度は歩いてくる。僕はその子をじっと見つめていた。
少年が僕の横を通りすぎる。それから彼は、逃げるように全力で駆け出した。
しばらく経つと、身体の重みはピークに達した。
廊下に背をあずけ、足を投げ出す。身体の節々が痛む。
ふと顔に手を当てると、そこには、小学生の僕にはあるはずのない、しわがあった。
僕は気づいた。さっきの男の子とは、もう一度会うことになるのだということを……。
そして、僕は、最後の力をふり絞り、僕の家に電話をかけるのだ。
「お子さんが、学校で倒れています」
と。
……ほら、見てごらん。ふらふらの「僕」が歩いてきたよ。