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続きです。よろしくお願いします。
伊藤貴志。IT部課長、40歳で既婚。子供が2人いるけれど女癖の悪さは上や長く勤めている私たちには有名な話だ。私は藤宮さんにあのクソ野郎の名をぶつけてみた。
「な、な、な、何を言ってるですかっ。違いますよっ。急に変なこと言わないでください」
藤宮さんはブンブン首を振って否定しているけれど、動揺しすぎなうえ嘘も下手すぎた。
な、な、な、って。あの歌の通りキスしてお別れすればいいじゃないと私は思った。残念ながらこれは当たりだろう。ほんとに残念なことだと思う。
「本当に?」
「そ、そんなの当たり前です。貴志さんな訳ないじゃないですか。本当に違いますからねっ」
「そっか。違ったか」
「本当に全然違いますからっ」
ゆるふわガールはガードもゆるふわだった。そのことに思わず苦笑いを浮かべしまった。藤宮さんはあのクソ野郎の名を言ったことに気づいていない。あのクソ野郎がまさかこの癒し系ゆるふわボディマシュマロ愛されガールに手を出していやがったことに私の怒りが沸々と湧いて来るけれど、その怒りをおくびにも出さずに私は続けた。
「ふーん。ああ、そう言えばね、その伊藤課長のことなんだけれどね。あの人十月一日付けでうちの北陸支店に移動することになっているから。左遷されるのよ。内示はまだITの内野部長で止まっているからこのことはくれぐれも内緒にしておいてね」
「は?何ですか今の話。なんで貴志さんが移動とか左遷とかって、それ本当なんですか?」
藤宮さんが凄い慌てぶりを披露している。彼女からすれば慌てて当然だと思うけれど私には少し笑える姿だった。クソ野郎のことで一々感情を揺さぶられている姿は、もはや呆れを通り越して笑えてくる。彼女はヤツのことを知らないのだから仕方ないことではあるけれど。
「本当のことよ」
「そう…ですか」
藤宮さんは見る影もない。枯れた花どころではなくなってしまった。私としてはここはホッとするところだと思うけれど。ほんと恋って厄介だと思ってしまう。不倫などという側から見れば馬鹿げた恋だとしても当人は至極真剣だから。
「でね、私は伊藤課長が飛ばされる理由を知っているの。あなたに話してもいいんだけれど、それはあなたにとって嫌な話かもしれないの。聞く?それとも止めておく?」
移動の話は止められていたけれど私は話してしまった。話してしまったものは話してしまったのだから後で対処するとする。けれど理由を話すことは止められなかった。それなら話すことが出来る。私はそんな屁理屈を理由にして、藤宮さんが聞くというならクソ野郎の女癖の悪さについて話すつもりでいる。
「聞きます。教えてください」
藤宮さんは身を乗り出して食い気味にそう言った。先程までの落ち込みようとは違ってしっかり私を見ている。きっとクソ野郎を心配しているのだろう。残念ながらそんな価値はあのクソ野郎にはないんだけれど。
「伊藤課長は女癖が悪くて有名でね。私たちぐらいのキャリアがある人なら大抵知っている話なのよ。あの男に遊ばれた女性を私も何人か知っているの。まったく、あなたもそうだったなんてとても残念だわ」
藤宮さんは固まってしまった。呆然と私を見ているようだけれどきっと見ていない。仕方ないことだと思った。こんな話は彼女の立場なら誰だって聞きたくないんだから。
「藤宮さん。聞く気ある?」
「え。あ、はい。すいません」
私は藤宮さんの意識をこちらに向けさせた。藤宮さんは辛いだろうけれど全てを知っておくべきだと思うから。
「あの男はね、前からちょいちょい会社の若い子に手を出していたんだけど、2年ほど前に今をときめく支倉常務の親しい知人の娘さんに手を出していたのがバレてね、支倉常務が激怒したんだけれどその時伊藤課長を庇う取締役がいて、その時は内々の処分で済まされたのよ。それでもコンプラとかハラスメントとかうるさいご時世だし今度そういうことがあったら本社よさようならって話しになっていたわけ。だからもう大人しくしているものだと皆んな思っていたのよ」
「そんな…」
「けど半年ほど前からまた手を出しているんじゃないかって噂になってね。支倉常務の指示で密かに伊藤課長の周りの人に聞き取り調査とかしていたらしいのよ。でね、伊藤課長は尻尾を出さなかったし、相手の女性も分からなかったんだけれど、伊藤課長を庇っていた取締役が今年の3月一杯で勇退したからもう飛ばしてしまえってことになったそうよ。そこだけ聞くと怖い話だけれど、実際にあなたに手を出していたんだから飛ばされて当然よね」
藤宮さんは私の話をどうにか聞いていた。聞いている間、かなり混乱しているようだったけれど、今はジッとテーブルを見て口をきゅっと結んでいる。 私はその様子を見て。彼女はきっと泣きたいのだろうと思った。
「飛ばされる理由、わかった?」
「…はい。わかり…ました」
「はいおしまい。ね、藤宮さん。あなたお花摘んできなさいよ。ついでにたっぷり時間をかけて化粧を綺麗に直してきて」
「え」
私に顔を向けた藤宮さんの目から涙が溢れそうになっていた。私は思わず目線を逸らした。ゆるふわガールのそんな顔を私は見ていられなかった。
「いいから。ほら、早く行ってきなさい。落ち着くまで戻って来ないでね」
私はシッシッと手を動かして藤宮さんを追い立てた。
「ずびばぜん」
藤宮さんはバッグをひっ掴んで席を立っていった。私は彼女の姿が通路から消えるまで、それを横目で見ていた。
「あ〜。なんかもう疲れた〜」
「ふぅ〜。タバコ吸いたい」
私は気持ちを落ち着かせるために大きく息を吐き出した。それから灰皿とコーヒーをもう一杯頼んだ。念のためにバタークリームのケーキがあるかどうか尋ねてみたけれど、やはり置いていないとのことだった。
タバコ吸いながらコーヒーを飲んだことでさっきよりは疲労感が落ち着いた気がした。
「馬鹿なことしたなぁ」
あの藤宮さんの泣きそうな顔。あんな顔を向けられたら、抱きしめて慰めたくなるし、この胸で泣いてほしくなってしまう。もちろん今夜一緒に食事をしただけで彼女に恋をしてしまうほど惚れっぽい訳ではない。それはそうなんだけれども。
「色々と知っちゃったしなぁ」
そのせいで藤宮さんが小さいながらも私の中に跡を残したことは分かっていた。
「あ〜、もうっ」
藤宮さんが私に残した小さな跡が、いずれ秘めた恋になってしまう可能性だって捨てきれない。
「嫌だなぁ」
私は来年に30歳になる。だからもう秘めた恋をして寂しい思いをする気は無い。私は最後の恋を始めたい。そのまま共に生きていける恋人を見つけたいのだ。
「あ〜あ。きょうちゃんに会いたいなぁ」
藤宮さんが置いていったスマホの振動音を聞きながら、私はタバコの煙と一緒に気持ちを吐き出した。
藤宮さんは私が4本目のタバコを吸っていたときに戻ってきた。私はすぐにタバコを消した。
「すいません。お待たせしました」
そう言って席に着いた藤宮さんの顔は、化粧で上手く隠してあるのか目元の腫れも鼻の赤みもほとんど目立っていない。目の充血も目薬でなんとかしたようだった。
「上手く化粧したのね。それなら泣いたのもばれないわね」
「そうですか?よかったです。さすがに恥ずかしいですから」
藤宮さんはそう言って微笑んだ。どうやら泣いてスッキリしたらしい。これなら帰るまでは大丈夫だと思う。私は藤宮がまた落ち込む前に帰ることにした。
「それじゃ帰りましょう。その放ったらかしたスマホ、忘れないでね。さ、行くわよ」
「はい」
私が会計をしてそのままお店を後にする。割り勘だと言って払おうとする彼女をうるさいわよと黙らせた。藤宮さんはこのままJRの駅に、私はオフィスのあるビルの地下から地下鉄に乗る。
「それじゃあね。気をつけて」
「はい。ご馳走でした。それと、色々ありがとうございました。泣いたらスッキリしました」
「なら良かった。あ、移動の話はくれぐれも口外しないように。当の本人にもね。まあ、もし誰かに言ったとしても私はあなたに言ったことを全力で否定するからね」
「言いません。恩を仇で返すようなことはしませんから。そのかわりに私のことも内緒でお願いします」
「言うわけないでしょ。私を信じなさい」
「はい。信じています」
「そ。じゃあね」
私が背を向けて歩き出そうとすると、あっ羽田課長と声がかかった。
「あの、連絡先を交換しませんか?」
私は考える。交換しても大丈夫なのかどうか。私の止めておけセンサーがビシビシ反応しているけれど、目の前の癒し系ゆるふわマシュマロボディな愛されガールが少し緊張しながらこっちを見ている。
葛藤を抱えた私は瞬時に捻り出したザルのような妥協案を提示することにした。
「うーん。そうねぇ。蒸し返すようで悪いんだけれど、あのクソ野…伊藤課長との関係を藤宮さんが終わらせることが出来たら、その時に交換しましょう」
藤宮さんの顔が曇ってしまったけれど、私も私の心を守らなければならない。だからこれがいい提案なのだと私は思った。
「えっと、それは…」
「私がそうしてほしいと思っているからよ。それだけよ。藤宮さんの連絡先、楽しみにしてるから」
「…わかりました」
「ほら、そんな顔しない。仕方ないわね。そんなあなたにいい物あげる」
私はそう言ってバッグの中を覗いてみるけれどあげる物など何も無い。それは当然だ。これはアドリブなのだから。苦肉の策で取り出した物を藤宮さんの手に握らせた。
「えっと?なんでティッシュ?」
藤宮さんは抜けた声を出して、ポケットティッシュを持った手をクイクイと返しながら表と裏を確かめるように見ている。
「なんでと言われてもそれしか無かったからよ」
「えー。何ですかそれぇ」
藤宮さんは苦笑いをしながらそう言った。手には渡したポケットティッシュ。苦かろうが何だろうが笑いは笑い。私は満足した。
「じゃあ帰るわね。おやすみ」
私は手を挙げてから背を向けて歩き出した。後ろから失礼しますと声が聞こえた。
少し歩いて私は振り返った。私の見つけた藤宮さんのうしろ姿がそれなりに混雑している駅の人波の中を改札へと向かっていた。私がそのまま眺めていると、彼女のうしろ姿はさほど時間もかからずに改札の奥へと消えていった。私が見ている間、彼女は一度も振り返らなかった。
「あー。馬っ鹿みたい」
それを見届けた私はそう呟いてから、響子さんに連絡をするためにスマホを取り出した。
本日はあと二話投稿する予定です。
ここまで読んでくれてありがとございます。