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初投稿です。よろしくお願いします。
午後6時を過ぎて課の連中が帰り支度を始めている。今週はそれ程忙しくはないので定時になる頃には私達の仕事は既に終わっているのだ。
「課長。お疲れ様です」
「お先に失礼します」
「お疲れ様」
彼女達と挨拶を交わした後、課長である私羽田麻衣子もまた、何も無ければ帰る旨を部長に伝えに行くことにした。
上が帰らないと下が帰れないなんて風潮はうちの部署にはないけれど、私は余程のことがない限り率先して帰るようにしている。
部長と少しばかり話してから、お先に失礼しますと挨拶をして席に戻ると課にはもう誰も残っていなかった。私はPCをログアウトして帰り支度を始めた。
「課長。今日はもうお帰りですか?」
私が顔を上げて声のした方を見ると、もう帰ったと思っていた部下の1人である市川由衣が側に立っていた。私の三つ下の26歳。長めの真っ直ぐな茶髪を後ろでまとめ、目がぱっちりの美人で可愛い後輩だ。もう4年程の付き合いになるけれど私に対して一向に砕けた口調で話すことはしない。以前それについて聞いてみたところ、元々こういう性格ですから気にしないで下さいと言っていた。
「ええ、帰るわよ。市川は忘れ物でもしたの?」
「いえ。ちょっと課長に相談があるんですけど、これから時間ありますか?」
「相談?」
私は思わず顔を顰めてしまった。意識の高い子はキャリアアップのために転職したり、新たに資格を取るために勉強したいからと辞めてしまう子もいる。市川はもう五年目で、仕事への意識も高いからそろそろ次のことを考えているので辞めたいなどと言われるのかとそう思ってしまったのだ。
「市川、まさか辞めたいの?理由によっては私は認めないから。それにそういう話なら部長にも聞いてもらわないと」
「い、いえっ。そう言う話では無いです」
慌てて首と手をブンブン振って否定してくれた。私はそんな市川をじっと見た。
「本当に?」
「はい」
「良かった。市川には期待してるんだからね」
私は笑みを浮かべて市川の肩に触れた。正直ホッとした。彼女は要領が良くて仕事が早いだけでなく、多少無茶振りしてもこなしてくれる貴重な人材なのだ。辞めたいとか言われても困るし、もし他の部署が彼女を欲しがったとしても私は出すつもりはない。私は彼女を高く評価しているのだ。それに美人さんでもある。華は多いに越したことは無いのだから。
「それじゃあ何?まさか恋の相談とか?」
「あ、あの。それは軽く飲みながらでもいいですか?下の焼き鳥屋なんてどうでしょうか?」
下とはこのビルの地下にある飲食店街のことだ。昼はランチ、夜は居酒屋という店がほとんどで私達もたまに利用している。
「いいよ。そうしよっか。あと15分後にエレベーターホールに集合でいい?」
「はい。お願いします。ではまた後で」
市川は慌てたようにバッグを肩に掛けてスマホ片手にオフィスを出て行った。
「何を慌てて…ま、いっか」
私は市川の慌てぶりを少々不審に思いながらも、デスクを片付けてオフィスをあとにした。先ずはお花を摘んで化粧を直すためにそのままお手洗いに向かった。
私と市川は焼き鳥屋の4人掛けのボックス席に着いている。生中と枝豆、冷奴と焼き鳥盛り合わせを頼んだところだ。
ビールと枝豆は直ぐにやって来た。
「ビールと枝豆が美味しい季節になったわね。暑いけど」
「そうですね。では乾杯しましょう」
「「乾杯〜」」
半分程一気に飲んでお互いに顔を見合わせると期せずして声がハモってしまった。
「「ぷはぁ〜」」
「うまいねっ」
「美味しいです」
「で、市川。相談て何?私に恋の話は向いて無いかもよ」
枝豆を食べ、続いてやって来た冷奴をつまみにビールをちびちび飲みながら市川に話を振ると、彼女は恋の話になるといつもそうするように私のことを聞いてきた。
「そう言えば、課長は彼氏いないんでしたね。背が高くてシュッとしてて顔もカッコよくて綺麗なのに。課長をいいなって言っている人、私の知り合いに結構いますよ」
私は身長173センチ、肩幅が少しあるけれど細身の体型をしている。中学でバレーボールを、高校で陸上の走り高跳びをやっていた。その甲斐があって私の望みどうりに背が伸びてくれた。まぁ、私の両親が2人とも背が高いので遺伝のおかげでもあるけれど。
髪はウェーブをかけたオレンジブラウンのセミロング。季節や気分によっては色も変えてストレートにすることもある。胸のカップはC。私は十分満足している。見た目のバランスというものがあるからだ。私の体型にはこの大きさがベストだと思っている。
そして顔のパーツがシュッとしていてそれがバランスよく配置されているお陰で、周りからはクールだの綺麗だのカッコいいだの怖いだのと言われている。自分でもそう思うし、正しく認識されているとも思っている。要するに私の姿は少し肩幅のあるモデルの様にスラッと背の高い綺麗なお姉さんということだ。私は己を知っている。不遜でいる気も謙遜する気も特に無い。
加えて言っておくと、私は精神的にも肉体的にも女性として女性を愛したい女性。つまりはレズビアンという括りに当てはまる。そのセクシャルな部分と私自身については既に折り合いが付いている。私は正しく己を知っているのだ。
「いいと言われても困るわね」
そう言われても私には迷惑で意味の無いことでしかない。私が男性とお付き合いすることなど出来るはずがないんだから。私は苦笑しながら答えた。
「彼氏なんていない。セフレが1人いるだけよ」
「えっ?えっ?本当ですか?」
「さぁ?どうかしら?」
驚いて枝豆を鞘から飛ばした市川に妖しい微笑みを浮かべて惚けてみせた。
「課長。また私をからかったんですね」
「まあまあ。頬を膨らました市川も可愛いけれど、私のことはどうでもいいから。それより市川の相談て何よ?」
私はからかわれたと思って頬を膨らませた市川を宥めつつ話を促した。それを聞いた市川は頬を元に戻して、やけに真面目な顔で話を始めた。
「あ、はい。えっとですね、海外事業部に課長と同期の富田さんて方が居るじゃないですか」
私は市川の言った同期の富田を思い浮かべようとしたけれど、記憶の中にそんな名前の人はいなかった。
「富田?海外事業部の富田。同期の富田ねぇ。うーん?知らないなぁ。確か海外事業部の同期なら富岡君という人がいるわね」
市川はあきれた顔をして私を見て大きくため息をついた。
「いえ。富岡ではなくて富田さんです。ほんと課長は綺麗な女性と可愛い女性の名前しか覚えませんね」
「それは自分も綺麗で可愛いって言ってるようなものよね?」
「ち、違いますよ。そういうつもりでは有りませんから」
「本当のことなんだから別にいいじゃない。それよりうちの課と接点が無いのに、どうして市川の口から富岡君の名前が出てくるのよ」
「富岡ではなく冨田さんですけど、いえ何でもないです」
私は市川に向かって手をヒラヒラさせて先を促した。それを見た市川が言いたいことを呑み込んで先を続けた。何かを諦めたようだった。
「それはですね、海外事業部に私の同期も居ましてですね、顔を出したときに冨田さんを見かけまして、私が富田さんと飲みたいなって言ったら、その同期、加藤くんて言うんですけど、そしたら彼が課ちょ…」
市川の話は突然近づいて来て話しかけてきた男性の声に遮られてしまった。
「お、市川さんじゃん。凄い偶然だよねっ。折角だから俺らも一緒に飲んでもいいかな?」
「あほ。来るのが早いんですよ」
市川がぼそっと悪態をついて声をかけてきた男性を睨んだ。私も同じように視線を向けると、そこには男性二人とその後ろには女性二人が居て、私達の席の側までやって来るところだった。
男性のうち一人は私の同期の富岡君だった。もう一人、声を掛けて来た方が市川の同期なのだろう。後ろの女性のうち一人が私を見て不機嫌な顔をしている。私がじっと見ていると彼女がビクッとして視線を逸らした。私の視線に怯んだようだった。もう一人は総務部で何度か見かけたことがある女性だった。私は電話とメールでしかやり取りをしたことはないけれど、めちゃ癒し系と評判な藤宮さんだった。こうやって近くで見ると本当に可愛い子だなと思った。
「失礼しまーす」
「あ」
私が現れた面子を確認していると市川の同期が私の隣に座ってきた。
私は男女を問わずこういう人間が本当に嫌いだ。乗りと勢いでどうにかなると思っていて、断ると乗りが悪いと非難する。そしてしつこい。だいたいこのボックス席では全員座ることが出来ない。一緒に飲もうと言っておきながらそういう事に気を回すことができない時点でこの男は終わっている。
イラついたので私の口から低い声が出てきた。それを聞いた市川が申し訳なさそうに私を見た。
「こ、こんばんは。加藤って言います。俺、羽田さんとお近づきになりたかったんすよー」
「黙ってて」
隣を見ずにそう言って、私が市川をじっと見つめていると彼女は俯いてしまった。彼女の言動から私はある程度この気に入らない状況を把握した。
女性二人が何故この場に居るのかはわからないけれど、どうやら私と富岡君はお互い餌だったというわけだ。こういうのが好きではない私はもう不機嫌さを隠さなかった。
「そういうことなのね。市川さん?」
私の声に顔を上げた市川が、顔から表情が抜け落ちた私を見てひっと小さい悲鳴をあげた。富岡君以外の3人も引いているようだから私の不機嫌さは十分に伝わっているようだ。
富岡君はこうした私の反応に慣れているのか苦笑しているだけだ。確かに同期会でも初めの頃はよくやっていた気がする。
私は残っていたビールを飲み干して、食べかけの冷奴を市川の方へ押しやった。
「市川さん。相談は終わりよね?」
「…はい」
「私は帰るからソレ、下げて貰っておいてね」
「…はい」
「あと、明日面談しましょうね?」
「…はい」
市川は私がこういう事を好きではない事を知っている。彼女とはそれくらいの付き合いはしてきたつもりだった。
それなのに敢えてこうしたということは、私が彼女との関係性を勘違いしていたか、もしくはそれだけ富岡君に興味あるということなのだろう。単に彼女の同期に乗せられてしまっただけということもあるかもしれない。
まぁどんな理由でやったにしても結果は変わらないんだけれど。私は失望の眼差しを彼女に向けていた。
その市川はすっかり萎縮している。こうなる事は分かっていただろうにと思うけれど、さすが可哀想なので、やれやれ仕方ないねと市川の方へ身を乗り出して小声で言ってあげた。
「富岡君と飲みたかったんでしょ。もう気にしないで楽しみなさい」
「えっ。あ、はい。すいませんでした、課長」
「別にもういいよ。他ならぬ市川だからね」
私は市川の頭を撫でた。指先に触れる市川の髪がサラサラで心地よく感じる。市川のケアはこれでいいだろう。いくら私を餌にしたとは言えどうせなら楽しく過ごして貰いたいと思う。
続いて私は図々しくも隣に座ってきた市川の同期に向いた。
「退いて。私はあなたとお近づきになりたくない」
私は声のトーンを落として言ってやった。
噛み付いてくるかとも思ったけれど呆気にとられて固まっただけだった。
私の言葉に周りがどん引きしているけれど気にしない。市川の同期はまだ退く気配がないので私は富岡君に頼むことにした。
「富岡君。この人、阿藤君だっけ?あなたの後輩なんでしょ?出られないから退けてくれない?」
「なんだかなぁ〜ってソイツは加藤だし俺は富田だよ。相変わらずだな羽田さんは。ちょっと待ってて」
「彼の名前なんてどうでもいいのよ、富岡君。宜しくね」
私の言葉に女性達が再びドン引きするなか、富岡君は苦笑いをして、ほら、もう諦めろとかなんとか言いながら市川の同期を退けてくれた。
「ありがとう」
無事脱出することが出来たので、あとはこの場を治めて撤収するだけだ。
「じゃあ富岡君は私の大事な大事な後輩であり部下である市川の隣に座ってね。市川の同期はこっち側。ほら、奥に行って。それからそこの彼女はその隣で」
最後に私に見られてビクッとなっていた女性を市川の同期の隣に座らせた。すると彼女は満更でもないような顔をした。私は彼女が市川の同期を好きなんだというでもいいことに気づいてしまった。これっぽっちも要らない情報なので私の容量を返して欲しい。
ともあれこれで満席になった。あとはここから彼女を連れて消えるだけだ。
「一回清算するから伝票持っていくわ。新しいのにしてもらって」
そう言って伝票を取ろうとしたら、富岡君がそれを止めた。
「羽田さん、いいよそれ。俺が出すから」
「マジ?富岡君」
「富田だよ。マジ」
「ありがとうね。ゴチになります富岡君」
「お前富岡言いたいだけだろ」
「違うわよ。だってあなたは富岡君て感じだもの」
「あーはいはい」
「それとね、富岡君。私をお前なんて呼べる人はそうは居ないのよ。止めてくれると凄く嬉しいんだけれど」
「えっ。あ、そうだったな。悪い」
「ありがとう、分かってくれて。あと、藤宮さんは連れて行くから。じゃあね」
私はばつの悪そうな顔の富岡君とちょっと嬉しそうな女性二人、落ち込んでいる市川の同期に背を向けて、取り残されて呆然と立っている藤宮さんの手を取った。
「さ、行きましょう」
いきなり長くなってしまいました。