狼男と赤ずきん
手に持つ斧から赤い滴が地面を濡らす。いつも薪を割るための斧で、おばあさんが重たそうに持っていたあの斧だ。普段と違う使い方をしたためか、斧から錆びた鉄の匂いが漂ってくる。
刺激臭が鼻孔を刺すのが原因なのか、私は生まれたての小鹿のように震えている。傍から見れば、雪に凍える野兎かもしれない。
だが、違う。目の前の光景の原因が、自身にあると言う事が信じられないからなのだ。
横たわるのは、灰色の毛に覆われ、その毛には真っ赤な液体がこべり、腹の内容物をぶちまけながら倒れている獣。
そして、それの隣に横たわっているのは、いつもおいしいアップルパイを作ってくれ、笑顔は太陽のように暖かな私のおばあちゃん。
そんな暖かい姿など跡形もなく、なんとか人だとわかる原型をとどめ、あのしわくちゃで暖かな手が私の足元に転がっている。白髪交じりで優しい笑顔を浮かべていたあの顔は、恐怖の面が張り付いたままだ。
私はそんな光景を目前として、ただ足を震わせながら立ちすくんでいた。
次第に、私の手先から温度が奪われている感覚に襲われる。膝がガクリと折れて地面にしゃがみ込む。
背後にある木製の扉を壊さんとするほど、強く開かれたかと思うと二人の男が入ってきた。
「大丈夫か。狼はどこだ」
小銃を手に持ちながら私のことを見る。だが、男はこの室内の状況を見てすべてを悟ったのか、私の体と同じように手が震えだす。小銃がカチカチと音を立てる。
脳裏にジリジリという音を立てながら、この光景が頭に痛いと思うほど熱く焼き付いていく。羊皮紙を燃やすような感覚。
私は、きっとこの男の顔を忘れないだろう。
そして、私はきっとこの光景を忘れられないだろう。
私は、一生この光景を背負って生きていくのだろう。
◆◇◆ ◆◇◆
北国の冬というのはとても厳しい。朝起きては、氷の張った井戸から水を汲み、貯蓄の薪を暖炉にくべ、朝食を作るために火をおこす。
目覚めは鳥の囀りでもなく、太陽の光でない。肌を割るようなきつい寒さからである。
そんな朝を私はいつものように迎えていた。
だが、私は井戸から水を汲まないし、薪を暖炉にくべないし、朝食も作らない。
朝起きれば、朝に必要な水は汲まれているし、暖炉にはチリチリと音を立てながら火が焚かれているし、テーブルには暖かなスープと硬いライ麦パンが置いてある。そして、テーブルに座り重たい本を読みふける一人の男性が座っている。
「おはようございます。セレナ」
「おはよう」
私は小さく挨拶をすると、テーブルに座る。椅子古くなっており私が腰かけると軋む。その音のせいで私の頬に熱を持つが、向かいの男性は気にせず、本を棚へと戻すと、再び席に着き手を組む。
「朝の恵みを与えてくださる神に、私たちの血肉となる食べ物を作ってくださった人々に感謝を込めて。いただきます」
「いただきます」
毎度こんなことをしなくてもいいとは思うものの仕方なくつきあう。彼は、心底深く神という存在を信じきっている。人々の困窮をすくい、現世にて善い行いをしたものを天に召す存在。
そんな抽象的で、燃える水のようにありもしない存在を信じるなんて酔狂だと思ってしまう。
「そんで、ローリスは今日はなにかするの?」
私が硬いパンをちぎりながら聞くと、向かいの彼は顎に手をあて考え込む。
「今日は、肉屋の亭主とソーセージの加工のお願いをされたので、町に降りて肉を加工してきます」
「そう……」
私は、スープに浸しひたひたになったパンを口に含む。塩っけの少ないスープだなと思いながら食べる。だが、私は決して文句は言わない。ローリスが作った料理にケチはつけない。不味くはないのだから。
「セレナこそ、何か用事はないのですか? また薪を割って家に籠っているおつもりですか?」
「なに? 私が働いていないっていうの?」
なぜか語気を強めてしまう。
「いえ。満月の日以外お仕事をなさらないので、お暇じゃないかと思いまして。いかがですか、一緒に町へ下りてみませんか?」
「……」
私は、つい黙り込んでしまう。
彼は、私が町の人間からなんて呼ばれているかを知っているはずだ。何回、路地裏へ連れられ小銭を巻き上げられたか知っているはずだ。何回、帰り道に石を投げられて頭から血を流して帰ってきたか知っているはずだ。
それを知っていながら、わざわざ町へ降りろというのはあまりに酷ではないのだろうか。私には、町から離れた山奥の小屋が、一番安全で安心できるのだ。
「豚を解体するのは嫌いだし、肉を腸に詰めるという考えが私には考えられない。それに私は今日はやることがある」
「そうですか」
ローリスは諦めたように肩を落とすと、食べ終えた食器を片づけだす。
彼は町では、誠実、仕事熱心、容姿端麗、といろいろ言われている。私と比べて真反対なのだ。
彼は、小屋から出て娘を結婚しろと商人に頼まれた、と笑いながら話す様子を聞くと、私の心には不満しか出てこない。私といると迷惑ではないのだろうかと、何度思ったか分からない。神を信じるのと同じくらい、酔狂だと思う。
私がゆっくりとパンを消費していると、ローリスは外套を羽織りながら、扉に手を付ける。支度の早さもこれまた目を張るものがある。
「それじゃあ、私は行ってきます」
「ん……」
私は、手のパンを落とさないように口へ運びながら答える。
「ジャガイモは煮詰めすぎないように気を付けてくださいね」
彼の突然の物言いに、私もカチンと来そうだったがそれを堪える。
彼はつまり、ぐうたらするなと言いたいのだ。
「今日はスープ作る暇とかないくらい忙しいの」
私はそういうと、彼は嬉しそうに笑って「頑張ってください」と一言残すと、重たい木扉を開けて外へと出て行く。
彼が扉を開けた瞬間、肌を刺すような寒さが私の肌に触れるのであった。
◇◆◆ ◆◆◇
「どうしよ……」
私は空っぽのバスケットを眺めながら呟く。
家で本を読んで過ごすのも、朝スープを作るといってしまった以上できなくなり、スープを作ろうとしたが材料がない。そのため、買出しに行ったものの、村の人間が怖くて門の前で立ち往生。そのまま、傾く太陽を眺めたまま時間をすごしてしまった。
冬は、夜の訪れが早い。
結局私は、指先を真っ赤に冷やして、体を震わせるばかりであった。
私は、重たい足取りで自宅も木扉の前まで来てしまったのは良いが、ローリスにあれだけの啖呵を切っておきながらこれなのである。
彼になんて言われるのだろう。
手首からぶら下がるバスケットの軽さが、異様に手に食い込む気がする。
「ただいま」
私は何事もないふりをして、扉を開ける。
「おかえりなさい」
いつもと何も変わらない笑顔で、私の帰りを出迎えてくれるローリス。なぜだか、私はそんな彼にため息が出てしまった。
「今日は寒かったですからね、外套をかけて暖炉の前で休んでいてください」
どこか、あたたかい匂いが部屋いっぱいにふんわりと広がっていた。
ローリスの言われるように、私は外套をかけて、暖炉の前のソファーに腰を掛け、毛布を体いっぱいに羽織る。暖炉がチリチリと音を立てて燃え、赤と橙がゆらりふらりと動く。
温度のせいだろうか、先ほどの罪悪感などどこへやら消えてしまう。暖かな空気が私の眠気をくすぐる。
ゆったりとした視界のまま、彼を見つめる。
ソートをたっぷりのバターを添えて、魚と一緒に盛り合わせていく。目の前で、グツグツと煮られるスープ。中には少量の野菜と、ソーセージが浮かんでいるのが見える。
「お休みですか? もう少しで出来上がるので、目は開けておいてくださいね」
そう彼が言ってくるのも、虚ろな私の頭はなんと解釈しただろうか。毛布を、自分の体により引き寄せると、そのまま寝付きそうであった。
ふと、私がどんぐりを買ったとしたらという空想がよぎる。
もし、どんぐりを買ったら、あれを炒めて殻と薄皮を向いて摘まむのも良かった。それか、我慢して村のパン屋で、パンと一緒に焼いてもらい、それを食べるのもおいしかっただろう。
もし、パンが出来上がったなら、温かなスープに浸して食べたり、ハムやソーセージと言った肉類と食べても旨いだろう。それに、東には海が広がっていたはずだ。燻製か塩漬けの魚も一緒に食べたらどれだけうまいだろうか。
塩は食べすぎるなとローリスが言って来るが、薄味は好みではないのだ。
「できましたよ」
ふと、私の意識がその一言で現実へと引き戻された。
目の前には、いつものようにライ麦で作られた黒パン。そして、彼が今日作ってもらってきたであろうソーセージの入ったスープ。そして、普段は目にすることのできない燻製の肉。
「なんか……豪華じゃない?」
「今日、町の肉屋の亭主が普段の頑張りを認めてくださり、肉を安く回してくださったので、つい甘えて普段より多く買ってしまったのです」
「明日の分は……」
「今日豪勢を働くのです。明日から、食の恵みに感謝して、私たちが欲する分を食べられれば良いでしょう」
そういうと、彼はいつものように呪文のような文言を唱えて、パンをちぎりスープへ浸す。
「……」
肉が食べられる日というのは少ない。
お金がないと言えばその通りだ。私が、マシな職業にでもついていれば、肉の頻度も増やせただろう。東から魚だって仕入れられる。
この浸されたパンの所在を聞かれたら、私は黙ってしまう事しかできないだろう。
私は職業柄、よく貴族の家へと呼ばれることがしばしばあったりする。貴族はつまらなそうに香草で焼かれた若鶏を喰らい、高価な小麦のパンを食べるのだ。
私の食事というのは、どうしてこうも野草を食べているように感じてしまうのか。どうしてこうも質素なのかと不思議に思えて仕方がない。
「食の恵みとは一体なんだと思いますか?」
突然ローリスが口を開いたのにびっくりしてしまい、手に持っていたパンがスープにすべて浸される。
「毎日あなたが言っているじゃない。神の授かりもので、私たちが生を受けている証拠だ、みたいな」
「確かにそうですね。ですが、食の質とはなんでしょうか?」
「えっ」
彼はそういうと、燻製肉をパンにはさむと口に運ぶことなくパンを置く。
「食という概念で考えると、豪勢な食事も、普段のスープと石のようなパンだけの食事もそう大差はないのです。羊が、北の牧草を食べるのと、南の牧草を食べるのと同じことです」
私は口を開けたまま、彼のことを見ていた。さぞ、間抜けずらだろう。
「私には好き嫌いはもちろんありますし、肉は好物の一つでもあります。ですが、食事をするという事だけ、中身について語らなければ、ただ私たちは物を食しているだけ。ただ、それだけなのです」
つまりは、私たちが食べる料理を無視すれば、私たちの食事の豪勢さと、貴族の食事の豪勢さは同じだと言いたいわけだ。
「結局それって、屁理屈じゃないの。おいしいものはおいしいし、高い食材が使われているかによって変わってくるじゃない」
「いいですか。所詮、物事の捉え方は人それぞれ。だから、私はこういう視点でとらえると説いたまでです」
「それって、ちゃっかり神の教えに反してない」
「ここだけ、私と神との相違点であると言う事でしょう」
彼は不思議だ。神を信仰する立場であるはずなのに、たまに神を裏切るような言動をすることがあるのだ。
他宗教を崇拝することは、異端とされ異端審問会に突き出されて、火あぶりや肖像を焼かれることになりかねない。
家の中でぼそりと呟く分には構わないのだが。密告なども最近目立ち始めており、正直安心していられるかと言われれば、黙るほかない。
そんな悪行を行ってしまうような彼は、とても不思議だ。
「はぁ……」
彼の間抜けにも思える考えを聞いていたら、先ほどまでの悩みなど、パンの焦げ目と同じように思えてしまえた。所詮、その程度なのだと。
「あー、美味しい」
口から嫌味っぽく言葉が漏れる。
そんな私の様子を見て、彼は満足げに笑って見せた。
彼の姿を見ると、余計に嫌味っぽく言葉が漏れるのだった。
◆◇◆ ◇◆◇
私は寒空の下、外套を深くかぶる。
雪が降っていないことだけが幸いだと言えた。雪が降れば、町に降りるのも一苦労であるし、仕事にも影響しかねないのだ。
私は半日馬車に揺られて、隣町へと来ていた。
ふと、馬車に張ってある垂れ幕をずらし、空を眺める。厚い雲の合間から月が明るく私たちの行先を照らしてくれる。今日は、絶好の仕事日和だと言えるであろう。
馬車が止まると、数人の男が私を出迎える。
「お待ちしていました」
「ん……」
私はこの人たちがあまり好きではない。人の血税を湯水のような使い方をするような人間なのだ。私が好きになれるはずがない。
「それでは、場所へご案内いたします」
無言のまま、私が連れて行かれた先には、町の中心部にある大きな広場。その中央には、一つの木の机と、一人の男が貼り付けにされていた。
それを取り囲むように、槍を持った国の役人。その光景を一目見るために、集まった町の住人。真冬の満月の刻だというのに、異様な熱気と視線が周囲を埋め尽くしていた。
私は、護衛されるように男の元へと案内される。私には、顔が町のものに見えないように、嗜好の悪いただ真っ白な仮面が張り付いている。そして、深くかぶった外套と仮面を隔てて見える光景。悲惨だ。
「助けてくれ。俺は狼なんかじゃない。本当だ!」
男が貼り付けにされた状態で、必死に弁解を求める。縛り付ける鎖がガシガシと音を立て、男の肌に食い込むと、内出血を起こし、紫色に男の肌に鎖の跡がつく。
「黙れッ! 満月の刻、それですべてがハッキリするだろう」
役人が大声を上げて男を叱咤するも、男は、妻に合わせろ、俺は違う、と怒号を飛ばすばかりだ。
役人の眉が顰められたかと思うと、手から垂れる鞭が唸り、男の体に一本の赤い筋を刻む。
「貴様が狼であるという密告があった。他の役人も貴様が変化する様を見ている。確たる証拠が揃っているのだ」
役人は声が町の周囲の人間に聞こえるように発した。
私は周囲を見渡してみると、少し離れた場所に四十過ぎの女性の口角が吊りあがっていた。
狼であると密告し、それが本当だった場合、国から二十ディカートが払われる。五人家族が一年食って暮らせるだけの大金だ。
私ですらディカート金貨はそうそう拝めるものじゃない。あの婦人がうつつを抜かしたのも分からなくもない。
そんなことを思いつつ、私は婦人から視線を空へと移す。
厚い雲に覆われた空だが、徐々に明るんでいき、町の建物、群集の表情、役人の釣りあがった目、怯える男が私の視界に入る。
満月が男に光が指す。
すると、男の筋肉が隆起し始め、その肌からは灰色の毛が伸び始め、男の骨格がゆっくりと人間とはかけ離れたものになっていく。そして、最後には男の口からは唸り声とは非になる、悲しい喘ぎ声が漏れ始める。目からは涙が流れ、その毛を濡らす。
狼へと、人間が変る瞬間だ。だが、意識は完全に人間のまま。彼には、嫁と、そのお腹に子供を授かっていたという。彼が、狼と証明されたことにより、その嫁と腹の子に罪が着せられ、死罪は免れない。
それを重々に理解しているからこそ、彼の目からは涙が溢れるのだろう。
そして、私の仕事は、この男の首を刎ね飛ばし、死を与えることだ。安らかに毒薬では殺さない。狼は異端であり、悪魔の転生の姿であり、神に仇を成す化け物なのだ。それを、周囲に見せしめにして殺すことが、私の仕事。
私は、手に持つ斧を高々に掲げる。
「テオドロ・ラヴァーニア。神にあだなす狼よ。死を持って、貴様の罪を洗ってくださる神の御心に寛大な御心を感じると共に、自らの罪を悔い改めよ」
彼には何の罪もない。
彼は人間の法というものを破ったことはないし、他人にも慕われる若い大工だったようだ。決して裕福ではなかったが、嫁と新しく生まれる命と、幸せに暮らす時間が彼にはあったはずだ。
だが、そんな法や人間の価値観は、狼には通じない。彼らは、生きる悪とされた。
そんな、罪のない彼に私は、斧を振り下ろす。
◆◇◇ ◇◇◆
自室のベッドで寝込んでいる私に、ローリスが優しく声をかける。
「お疲れでしょうから、ここに食事おいておきますね。冷めないうちにお召し上がりください」
そういうと、彼の足音が遠ざかっていくのが聞こえる。
私では彼に傍にいて欲しいという言葉をかける事は出来なかった。
毎回、私は仕事終わりは寝込んでしまう。
過去におばあちゃんが、狼男に殺された際の、あの斧を持つ手の感覚、血の臭い、心臓の壊れんばかりの鼓動、猟銃を持つ男の恐怖の表情。すべてが、私の脳裏に焼きついてしまい、今でも思い出すだけで手が震え、胃が口から出てしまうほどに吐き気を覚える。
この仕事を辞めたいなんて言えない。
この仕事は王命であり、辞めればそのときは、私の体は板に貼り付けられ、鞭で数千と打たれた後、指を一本ずつ切断し、徹底的に痛めつけてから、死んでいたとしても火で焼かれるそうだ。
そんな地獄の門を前にして、成す術があるわけが無かった。
◆◇◇ ◇◇◆
「突然ですが、少し町に出てみませんか?」
ローリスが口を開いた。
私は持っていたパンをスープの中に落とすほどに、その驚きを隠すことができなかった。
「今晩、キーラさんの娘さんが倒れられて、酒屋でのお手伝いを頼まれたのですが、私一人ではどうも回らなさそうで」
「珍しいじゃない? ローリスがそんなそんな事を言うなんて」
ローリスなら、一人で何でもできてしまうできた人間だ。それが、私に頼みごとなんて珍しい。
「それが、今日は大工の方々が集団でいらっしゃるそうで、普段なら私一人でどうにかなるのですが、満席以上の人数が来るので、今いる方々でも手が回らなくて」
「ふーん」
私はスープに落としたパンを拾い上げて口へと運ぶ。
なんだかんだで町へ最後に入ったのは十年以上も昔の話になる。今となっては知り合いなんて人もいないし、血の繋がった人は私が、あの職に就いた時に国から払われる金で王都へと引っ越した。身寄りがいない町だし、私自身が町に用事があるわけではなかった。
だが、私に頼ってくるローリスというのも珍しいし、彼が私に尽くしてくれていることを重々知っている身としては、彼の頼みを無碍にすることなどできなかった。
「分かった……。でもそれって、表に出る?」
「裏方は私や他の従業員の方もいらっしゃるので、間に合いますが、ウェイトレスの数が足りないので、必然的に表の仕事になるかと」
あまり表立った仕事は好きではない。職業柄、あまり人には好かれていない。顔は隠してはいるが、もう私のことが分かってしまっているのだ。それでも、面を被るのは、更に広めないためと、役人達が無能だからに過ぎない。
「それ、本当に私で良いの?」
「大丈夫でしょう。お酒の力とは偉大なものです。嫌なことも、良い事も、お酒が全て忘れさせてくれます。葡萄酒だって、大量に飲めばビールと同じ効果をします。ただ残るのは、酒を浴びたという記憶だけ」
「良い事まで忘れちゃ本末転倒じゃ……」
「彼らにとっては、酒を飲んで、仲間と語らったという記憶が欲しいのです。酒は、口を滑らかにする薬でしかありません」
そんなものだろうか。葡萄酒は宗教の概念で、豊饒を象徴する大切な飲み物であり、酩酊状態を神と交感しているとされる大切な飲み物だ。それを、人を酔わせ、記憶をなくす駄酒だというのだ。
本当、彼にとって神とは何なのだろうと思ってしまう。だが、そんな彼を見ていると私の考えも杞憂なのだと思えてくる。
「良いよ。がんばるから」
「あなたの口から頑張るという言葉を聞くと、どこか幸がありますね」
「どういう意味よ」
「そのままの意味ですよ」
そういうとローリスはクスクスと笑ってみせる。
私が幸薄いとでも言うのだろうか。確かに、最近は小指をぶつけたり、寝起きにベッドから落ちたりと運は悪いかもしれないが。
「それじゃあ、お昼を食べ、ゆっくりしたら家を出ます。それまで、のんびりしていてください」
「ん……」
小さく頷きながら、私はパンを口へと運ぶ。こんな会話が、この家で話す最後の言葉になるなんて思ってもいなかった。
◆◇◇ ◇◇◆
夕暮れの町はレンガに夕日が差し込み、降り積もった雪に色が溶け込み、オレンジ一色に染め上げられていた。
関所を通ると、関所では門番が小さく嫌な顔を見せてきたが、ローリスは顔が知られているため、大胆に見せること無かった。町の中に入ると、大勢の人間がローリスに挨拶をしては、私を見て眉をひそめる事が難度かあった。本当に私は好かれていないようだ。
それから私はキーラの店、白魚亭へと到着する。一階が酒場、二階が宿屋というありふれたものだ。ローリスは手馴れた様子で玄関を開けるが、私はその扉が雪に阻まれたように重たく感じた。
キーラは五十になろうという女性で、よく肉を食っているという印象を受け、金は惜しまないといった豪快さが体に現れていた。そして、性格もそのようで、張った声が店内に何度も響いていた。
それからというもの、忙しい時間が始まった。
食材の仕込みから、店内清掃まで、ウェイターが全て世話しなく動き、片付けていく。団体客が来るまでに、塵一つ残さず、すぐさま料理の準備ができるようにしていく。
そして、ついに重たい扉が開かれ、大勢の男達が店内に入ってくる。
「キーラ、来てやったぜ」
とっくに酒が入っているのか、寒いからなのか、顔が赤い男達が幾人も入って来る。
「棟梁、いらっしゃい。存分に金を撒いてってくれ」
そういうと、棟梁と呼ばれた初老の男は答える。大工が仕事というだけあって、張った外套からはその筋肉の大きさが分かる。
今日は、この町の中でも名のある棟梁の誕生日ということで、家族や同じ仲間、親交の深い鍛冶屋、家具職人、彫刻家などの大勢の業種が集まり、店内は満席となっていた。
そんな、男達が椅子を軋ませながら座ると次々に声を上げ始める。酒に料理が、卓上に並べられたかと思えば、気づいたら空になっており、それをまた厨房へと忙しく往復していく。
活気は、熱を生み、寒空の外まで範囲を伸ばして、野外に臨時にテーブルと椅子を置き、雪が振る中で語らいが聞こえる。
世話しなく、料理を運ぶ私としては語らいなのか、怒号なのかはっきりとしないほどに、この時間に集中していた。
真冬だというのに、額には汗が滲み、外へ料理を運びに出ると涼しく感じてしまうほどだがら、店内の熱気がどれほどのものかは想像がたやすい。
「お嬢ちゃん、お酒頂戴!」
「は、はーい」
私は両手に抱えたジョッキを見ると、急いで厨房まで駆けて、再びビールの入ったジョッキを両手に、先ほど呼ばれたテーブルに零さないように足早に運ぶ。
「お待たせしました」
男は、こちらの顔をチラッと見はしたが、あまり気にしていないようで、すぐさま会話へと戻る。
見られた瞬間、私は熱気による発汗とは別に、背中に変な冷たい汗が流れたが、そんな事を気にするまもなく、すぐさま声が掛かる。
皿を片付けては、また新しい皿を配給し、無くなったジョッキがあれば、回収し新たしく酒を注ぎ提供する。それを幾度となく繰り返しているというのに、男達の腹ではなく、どこか別の場所へと入っているのかと思うほど、店内の備蓄されている食糧が減っていく。
私がジョッキを抱えながらまた、新しい料理を提供しようとして厨房へ戻ろうとすると、ふいに突き出された男の脚に、私の足が引っかかる。
止まることの無い私の足は、その男の脚と縺れて、体が前へと放りだされる。
自分の手元を確認すると、なんとかジョッキは割らずに済んだようだった。
そして、周囲に突然カッとした笑いが巻き起こる。
「セレナ、休んでる暇は無いよ。配給しな!」
キーラの怒号が飛んできたと思えば、
「お嬢ちゃん、寝てる暇があったら酒持ってきてや!」
と男が酒で焼かれた声を上げたかと思った次には、
「こっちには肉持って来いよ!」
「おら、酒が足りねぇぞ!」
と、けたたましい声が一斉に巻き起こる。
それに必死に対応をしつつ、再びジョッキを運んでは、皿を片付け、料理を運び、また空いた皿を片付ける。何度繰り返したか分からないが、徐々にペースが緩くなっていくのに気づいた。それと同時に、何人もの男の頭が、テーブルに伏せていたり、体が地面に転がっていたりしている。
そう、酔い潰れているのだった。
「お疲れ様。そろそろ上がって良いって」
そっと肩を叩かれて、ようやく後ろにローリスがいることに気がついた。
「残りは、今いる人たちで足りるそうだから、帰ろう。着替えてきたらどう?」
そう言われると、私の着ているエプロンには、ソースの跡や、零れた酒で濡れてシミがついていたりしていた。
「分かった」
終わり、という言葉のせいかどっと肩に大量の膨らまし粉を担いだような疲れを感じる。
それを担ぎながら、重たい足取りで厨房を抜けた先にある別室へと足を運ぶ。
「セレナ!」
「は、はいっ!」
そこで、着ているエプロンなどを脱いでいると、疲労で注意力散漫になっていたためか、呼びかけられた声に驚いてしまう。
声をかけていたのは、キーラだった。何度も聞きなれた怒号の声に、私は反射的に声を上げて返事をしてしまうのだった。
「お疲れ様。どうたったかい? 今日の仕事は」
仕事。
「そうですね。とても、忙しかったです」
「そうかい。小僧が言うには、暖炉の前で本に耽っている娘にはきつかったかい」
「それもあります。でも……充実してました」
今エプロンを持っている私の手は小刻みに震えている。ただでさえ重たいガラスジョッキに、液体のビールを並々と注いでいるのだ。それを、何百往復としていた。疲れていないはずが無いだろう。
「楽しかったかい?」
楽しい。
「はい。でも、こんな疲れる仕事なら、少し間をおいてやらせて頂きます」
「毎晩、こんなに急がしいわけないだろ。こんなのが立て続けにあったら、いくつ身があったって持ちゃしないよ」
キーラは大きな声を上げて笑う。
確かに、こんなに忙しい仕事なのだ。毎晩なんてやっていたら、疲労困憊もいいところだろう。
「それじゃあ、今日の報酬だ」
そう言って手渡された小さな皮袋。その中を見ると重たい貨幣が入っていた。
「え、こんな大金……」
役人から聞かされる平民の一ヶ月分の金額。それだけの金額が私の皮袋の中に入っていた。
「お客の棟梁がずいぶんあんたを気に入ってね。初老のジジイがいうには、おこずかいと今後もよろしく金だとさ。客のチップだ。大切に使いな」
人の命を奪う以外で得たお金。憎しみを生み出すのではなく、本来の仕事の意義である、幸福を生み出す副産物として生み出されるお金。
このとき、私は人生で初めてお金という物を手にした気がした。
「大切に、使わせていただきます」
「棟梁も悪い趣味してんね。こんな良い娘に、金で話つけちゃうんだからね」
そうはいうが、あの棟梁はとても人望のある方で、この町の上院議員もしているそうだ。大工に関しては、とても名が通ってるそうで、王都での王城建設にも携わっているそうだ。
「それじゃあ、私はこの辺で失礼します」
「あぁ、小僧によろしく伝えておくれ」
「分かりました」
そう私が言い残すと、裏口から外へと出る。
重たい空には薄く雲が掛かって、月明かりさえなかった。それは、先ほどの喧騒が懐かしさを覚えてしまうほど、外はとても静かだと感じさせるには十分だった。
「お疲れ様」
外套を深くかぶったローリスが私を出迎えてくれた。
「さぁ、我が家へ帰りましょうか」
「うん」
どこか満足そうな声音で私は答える。
雪を踏むたびに、私の足が埋もれて、そのたびに積もった雪が冷たさを伝えてくる。
「どうでしたか?」
ローリエが吐く息を白くしながら聞いてくる。
「うん……。とても忙しかった。手がすごく疲れてる。脚が重い。眠たい」
「そうですか」
「でも、とても楽しかった。忙しくてめんどくさいはずなのに、とっても充実していた」
寒い外の中、先ほどの熱気が少しづつ体から抜けていき、頭が冷静さを取り戻して、ゆっくりと冷えていく。
「それはよかった」
そう答えるローリスの表情はとても嬉しそうだった。
「私にとって、仕事とは楽しいものです。どんな仕事であっても、そこには人々の笑顔があり、人々の営みがあり、人々の生活の糧となるものが存在します。それは、人々の幸福を生産すると同時に、自身の満足感を生み出します」
人々の笑顔。
「そして、いつかそのすべては、お金という具体的な物と、優しさという抽象的な物によって私たちを潤してくれます」
どうしてだろう。こんなにこの話が、ナイフで胸を刺すかの様に痛むのは。
「だから、私が思うに、あなたが行う満月の刻の行い。あれは、仕事と呼ぶものではありません。幸福を生まなければ、笑顔も生み出さない。何を生産するかと思えば、憎しみと悲しみ、そして血に汚れた汚い硬貨だけです」
「それじゃあ……私がしていることは何なの?」
言葉が漏れる。
「私は、アレが楽しいと思ってしていると思っているの。私のしていることに不満があるならそう言いなさいよ。ローリスが私に、それを望んでいなくたって、私は行うしかないんだから。斧を振るうしか」
歩みは止めていない。意識とは別に歩は進んでいく。それと並列して、目からは涙が零れていく。一歩進むたびに、一粒と涙が零れる。
「私は、それを善しとはしません。人を殺めて得たものなど、何の価値もありません」
「でもっ!」
「でも、あなたの置かれている状況も重々理解できています。王命に逆らえば死罪。子供でも知っています」
ローリスは、小さく白い息を吐く。
「逃げ出しましょう」
一拍置かれて出てきた言葉に、私はついつい戸惑いの感情が隠せずに俯いていた顔を、彼に向けることしかできなかった。
「ここから更に北の方へと進むと、新しい国があるそうです。この王国とは敵対関係にある国です。なにやら、貿易で揉めているそうですね」
重たい口調でどんどん話を進めていく。
「そこでは、宗教という概念がこの国とは大きく異なるそうです。他民族多文化混合社会と言うそうです。あらゆる者が許され、あらゆる者が同じ祖人を持つという考え方。そこには、私の仲間も住んでいます。北国のため、冬の食は細いそうですが、近くに流れる大河により美味しい魚が頂けるそうです」
そんな国の話など聞いたことがない。単に私が無知なだけだろうか。
「私は、今まで働いてきて、かなりの貯蓄があります。先日両替商に手持ち金がいくらになるか聞いた所、運がよければボロ屋を購入でき、半月は節約しながらですが生活できるそうです」
「それじゃあ、ローリスが働いていた理由って……」
私のためだったのだ。
思い出してみれば、ローリスとの出会いは不思議なものだった。
私の身寄りが全ていなくなり、独りであの小屋で生活するようになってから一週間後、この家に居候させて欲しい、当時の彼は言ってきた。
ただでさえ、誰もいない生活。人の温もりを自然と求めてしまったせいか、彼を家に引き入れた。
私の身の話は、何度も泣きながら語らったが、彼の素性の話は一切聞いたことがない。
彼は、あと二月もすれば二七歳を迎え、町ではとても評判の良い若者であるということ。
彼は好き嫌いはあるが残すことは無く、全ての物事をなんだかんだ言いつつもこなしてしまう器用な人間だ。木材を切り出しては、先ほどの棟梁の元で借りた道具で、今家にあるテーブルや棚を作り上げた時は、感嘆の声が漏れたものだ。
だが私は、彼の肉親、どこで生まれ、どこで育ったかなど、まったく知らない。
「ねぇ、ローリス……あなたって――――」
言いかけたときだ。私達の目の前に突然男が四人現れたかと思うと、手にしているマスケット銃がこちらに向けられる。
銃口から白煙が上がったと思ったら、隣で肩から鮮血を噴出すローリスの姿。
「捕らえろッ!」
怒号が響く。
一瞬の出来事に、思考が止まる。
その一瞬に、私は一人の男に腕をつかまれ、そのまま地面へと押さえつけられる。
地面が雪だったが、砂利道に思いっきり叩きつけられた衝撃は並みのものじゃなく、自身の歯で舌を切り口から血が垂れる。
だが、それよりも優先すべきはほかにあった。
「ローリスッ!」
雪に埋もれるようにして倒れこむローリスに男が二人がかりで押さえつける。ローリスの肩からは、血が流れだしており、ぐったりと倒れたローリスからは意識があるのかさえハッキリしない。
「ローリスッ! ローリスッ!」
切った舌から血が流れたし、口から血を吐くようにしながら必死に呼びかける。
幸いにも意識はあるようで、薄目でこちらを見つめ、震えた唇で私の名を呼んでいるのが聞こえる。
二人がかりで押さえつけられたローリス。
痛みからか、動けないローリスに対して、残り一人は厚底のブーツを履いた足を上げたかと思うと、そのままローリスの顔面を踏みつける。
「ローリスッ!」
私はただ、ローリスの名前を叫ぶことしかできなかった。
その後も、ローリスの頭に何度も踏みつけられる靴底。ローリスの額に砂利が刺さり、額からゆっくりと血が流れていく。
「止めてよっ! ローリスが死んじゃうじゃない!」
必死に体を揺すり拘束を解こうとするも、大人の男を前にして、小娘の私の力ではどうすることもできなかった。
その間も、ローリスはただただ踏みつけられ地面にゆっくりと鮮血が流れていく。
「放してッ! ローリスッ!」
私が叫んだのと同時に、ローリスを踏みつけていた男の荒い声が響く。
「うるせぇなこの異端ッ!」
私の腹に、男の拳が入る。
痛いなんてもんじゃない。人生でこんな痛みを受けたのは初めてだ。
目じりに涙が浮かぶ。それと同時に、胃が衝撃に驚き、喉を胃酸が込み上げ、口から吐かれる。
吐かれた私の舌から流れる血と混ざった胃酸が、男の外套を汚す。
「……ッ、汚たねぇじゃねぇかよッ!」
私の顔に男の拳が降りかかる。頬骨が折れたと錯覚する痛みに顔を歪める。
私の口から、もう言葉が出るほどの気力は残されておらず、ぐったりと頭を垂れる。
腹部、頬が鈍痛を訴えて来るが、それに呻く声が小さく上がるだけで、私は身動きが取れなかった。
「おいッ、連れてくぞッ!」
男の声と共に、ローリスは男二人に抱え上げられ、私も同じように、近くの馬車へと体が運ばれる。
誘拐ではない。この手口は、見たことがあった。狼を捕まえるとき、こうして人間の状態で痛めつけて運ぶのだ。狼に変身させられれば、人間では到底敵う相手ではないから。
薄れゆく意識の中、私の糸のような思考が巡る。誰が、狼なのかと。
私の隣で運ばれる、ローリスの口から小さな言葉が漏れた。
「セレナを……放せよ……」
「あぁ?」
男が聞いていたのか、ローリスを睨みつける。
「今、何か言ったか?」
あの色白だった顔には、額に食い込んだ砂利のせいで血で真っ赤に汚れており、左目は潰れているのか、あらぬ方向を向いていた。
「セレナを……放せ……」
「喋ってんじゃねぇよ!」
ローリスの腹に、男の拳が埋まる。それと同時に、ローリスの口から鮮血が漏れる。
「セレナ……放せって……言ってるだろ」
「ごちゃごちゃうるせぇんだよッ!」
男に再び腹部を殴られ、地面に倒れるローリス。今度は、三人がかりでローリスを踏みつける。
「おらっ、さっきの威勢はどこ行ったよッ!」
男が声を荒げながら、ローリスを踏みつける。一方的な暴力を更に私に見せつけようとしたのか、月を隠していた雲の切れ目から、月明かりに照らされる。
その瞬間、ローリスの体に異変が起きる。
ローリスの細い腕の筋肉が隆起し始め、全身からは人間とは思えないような色素の抜けたような灰色の毛が生え始める。
何度見ただろう。人間が狼へと変化する瞬間。そのものだった。
狼へと変化し終わった瞬間、それは一瞬だった。
ローリスが一人の男の脚を掴んだかと思うと、立ち上がると共に、男を地面に叩きつける。そして、右手の男の頭を掴むと、更に一人の男にぶつける。掴まれた男の額には、爪跡がつけられ生半しく血を流す。
そして、狼男はこちらを睨んでくる。
「お、おい……。う、動くなよ……」
私を拘束する男が、腰にかけていたマスケット銃を構えるが、私を離した瞬間に男の半面はあろうかという拳が、男の顔面に直撃したかと思うと、男は地面に叩きつけられ、意識を失う。
「大丈夫ですか……。ここは……もう危険です。少しでも遠くへ逃げましょう」
私の朦朧とした意識に囁かれる聞きなれたローリスの優しい声色。
そして、私の小さな体が狼と化したローリスの肩に担がれたかと思うと、人間離れした速度で真夜中の町を駆ける。
◆◇◇ ◇◇◆
急に私の体が投げ出された。それと同時に、地面が切迫して雪の積もった地面に体を打ち付ける。
だが、覚醒した意識がするべきことをすぐさま導く。
「ローリスっ!」
地面に伏せたまま動こうとしないローリス。
私はいつもより重くなったローリスを引きずるようにして、何とか木にもたれかからせる。
息は荒く、呼吸をする度に肩の銃によって開けられた傷口から血が流れ出す。
町からかなり深い森の奥まで全力で走ってきているのだ。それも全身傷だらけという状態で。
「申し訳……ありません。もう少し行けると思ったのですが、脚が震えて……しまっているようで……」
私がローリスの脚に手を当てると、小さく痙攣を起こしている。それに、全身が少し冷たい。水も凍るような気温も原因の一つだが、それよりも体外に流れ出した血が多すぎるのだろう。
「ローリス……」
私はローリスを見つめながら小さく名前を呼ぶ。
「驚きましたか? 私が狼だって事……」
少しずつ呼吸を落としていくローリス。荒い息と上下する肩がゆっくりと速度を落としていく。
「驚いた……」
驚かないわけがない。いつも傍にいてくれた人間が、まさか狼だとは思わないだろう。
「そうでしょうね……。大勢がそのような……表情を浮かべることでしょう」
ローリスは、引きつったような笑みを浮かべながら、話しだした。
「私たち狼は、この国では隔絶された存在です。生が悪であり、死が善であるという認識におかれています」
狼の存在が知れたのは約二百年ほど前。そのときの国王は、熱心的な宗教心、独裁的な政治と、レイシズムをもって狼の駆逐へと動き出したのが始まりだ。
「ですが、狼は狼だけでは生きることができません。人間という種に隠れるようにして生きる他無かったのです」
貧しい国というわけではない。だが、いつ起こるかわからない飢饉、それに人間に見つからない領土など、そうそうあるわけではない。
「それじゃあ、あなたも……」
私がそういうと、彼は息を落とす。
「私は……ただの罪滅ぼしです。己が種の過ちを悔いるための」
「過ち……?」
ローリスは白い息を吐き、私に見つめなおすと答える。
「あなたの祖母を殺したのは私の父なのです」
「えっ……」
私がおばちゃんの家にいたとき、木の扉が突然空いたと思ったら、狼が家の中に侵入し、おばあちゃんの頭を掴むと、その頭部に思いっきり噛み付いた。
それが起きるまでが一瞬だった。
その後の記憶は定かではない。だが、あの時、私が手にかけた狼は、ローリスの父だというのだ。
「父は非常に荒い性格でした。酒が入ると、まず誰かを殴らずにはいられない程です。そして、そんな父は、酔いに任せてあなたの祖母に手をかけた」
ローリスの顔はいつの間にか下を向いていた。
「私はそれを聞き、あなたの存在を知り、思ったのです。あなたを支えるのが私の罪滅ぼしになるのだと。ですが、私の心は少しずつ道を逸らしていった」
ローリスが自嘲気味に小さく笑った。
「あなたに恋をしてしまった……」
「……」
突然の言葉に、今度は私は驚きが隠せなかった。
「それから、私はどこか目的がすり替わっていったようです。あなたを支えることから、あなたと共に生涯を終えたいと思うようになった」
「だから……あんな提案を……」
北の国。差別のない世界。ローリスからしてみれば、楽園にも思えるような環境。そこへ行けば、誰にも狙われること無く、安心して暮らすことのできる。
「町へ出て、お金を稼ぎ、自らの尻尾を掴まれ、銃に撃たれ、このざまです」
ローリスは自身の肩に視線を落とす。血が流れ、その穴を塞ごうとするものの、その血はただ地面の雪を赤く染めるばかりであった。
ローリスは肩から私に視線を動かすと言い放った。
「あなたは、この位置から月を目印にまっすぐ進んでください。すると、私が商人に頼んで荷車と馬を運んでいただいた待合せ場所が見えます」
彼は言っているのだ。私だけで逃げ出せと。
彼が捕まれば、当然なながら同棲していた私の命の保障もない。法が国境を越えられないことを知っている彼は、私だけでもこの国から逃そうといっているのだ。だが、
「そんな事とできるわけ無いじゃないっ!」
私はきっぱりと言い放った。
「あなたを置いて、逃げるなんて事できない。絶対にできないっ!」
彼はいままで私に何をしてくれただろう。私の小さな十本の指では数え切れず、彼の指を足したところで到底足りない。星の数にも引けを取らないほどだ。そして何より、彼がいない生活というのを私自身が拒んでいる。
「セレナ……」
ローリスの呟きを無視し、私は彼の肩を持つ。彼の重さがずっしりと伝わってくる。
「おいッ! 血の跡があったぞ、近くにいるぞッ!」
役人の声が聞こえてきた。それもかなり近い。のんびりしている時間は無いようだ。
「さぁ、行くよ」
彼を立たせると、動くと肩の傷口が傷むからか、彼の顔を顰めるが気にしていられる状況ではない。この場所から一刻も早く抜け出さないといけないのだ。
一歩、一歩とゆっくりと進んでいく。
肩から流れ出す血は羽織っている外套に染み、手を伝い雪に跡を残している。更に、潰れた左目からの出血もなかなか止まらない。
このまま出血大量で死んでしまうかも知れないことが危惧されるが、そんな事を考えている暇はない。今は歩くこと以外できることがないのだ。
足の感覚はとうにない。雪の冷たさで最初は痛かったが、感覚が麻痺してしまったように痛みさえ訴えてこなくなっている。
耳元で聞こえる彼の吐息。荒い息を上げているが、それが徐々に小さくなっていくのを、私は隣て聞いていく。
「頑張ってローリス……、もう少しなんでしょ……」
「そう……ですね……」
出血がかなり激しい。安静にして止血を試みたい。どこか隠れる場所が欲しい。だが、この雪の森の中、隠れるところなど皆無に近い。留まれば、背後に迫る役人にすぐさま追いつけれてしまう。
度々あがる背後の声は、徐々に近くなってきているのを感じる。まるで、死神が私の背中で囁いているようにも聞こえるのだ。「足掻け」と雪より冷たい微笑を浮かべているような。
森の中では、行商人と出会い荷車に載せてもらうなんて幸運はまず起きない。更に、町から離れ人里から離れた今、小屋があるわけもない。
助けは来ない。助けてくれる人はいない。
断絶された状況下。ただ、私たち二人は歩を進めることしかできなかった。
そんなとき、私の隣に生えている木にピシュッという音と共に、穴が開く。
「ッ……」
その音がした瞬間に上がる怒号。そして、雪を掻き分ける何人もの足音。そして、カチリという音が、妙に大きく聞こえた。
私は、全てを察した。
「追い、つかれた……」
助けは来ない。誰も助けてくれない。隠れるような場所はない。今更隠れても遅い。まだ逃亡を図る。だが、私が目視できる位置まで来ている。
私は振り返った。
十人の男達が、私たちを追っていた。男の中には、ローリスの肩を打ち抜いたマスケット銃を持つ者、剣を携えるものもいる。
「よくこんな辺境まで逃げてきたな」
男の口角が上がり、私たちを見下すような態度を取る。怪我を負った男女と、武器を持った男十人。状況が私たちの運命を、明確に伝えてくる。
「さぁ、ここで死ぬか。捕縛されて神の審判の元死ぬか選べよ」
「こいつは、てめぇの今までの功績をたたえての慈悲だぞ。ありがたく思え」
男達の中には、私が仕事で他の町へ移動するときに、一緒に行動していた男もいる。
「おい、女は生かしておくか? 意外に顔立ちがいいじゃねぇかよ」
「上からは殺せと言われてんだぞ」
「やってから殺したってバレねぇよ。なんなら、死体をぐちゃぐちゃにしてから吊るしたって構わねぇんだしよ」
私は、男の言うことを想像しただけで悪寒が走る。
こんな状況だからこそ、その言葉が現実として刺さる。想像もしたくない、だがそれが身に降りかかると思うと、この震える膝が折れてしまいそうだった。
「セレナ……逃げて……ください……」
耳元でローリスが小さく囁く。だが、もう一歩として動くことのできないローリスに何ができるというのだろう。更にいたぶられて死ぬのが目に見えている。
バァン。
銃声が響いたのと同時に、ローリスが吼えた。その足からは新しい傷が増えており、目の前の男のマスケット銃の銃口が白い煙を上げていた。
「ごがごた言ってんじゃねぇぞ。俺は決めたからな、てめぇは今ぶち殺して、女は後から殺す」
「狂ってる……」
関所を通る行商人を裏で殺し、その荷を売り捌いて金を入手したり、不当な礼状により町の人間を支配する腐った役人がいると聞かされたことがある。
私は、奴の存在に怯える以上に、ローリスを逃すことで頭が一杯だった。だが、それと同時に脳内を埋める彼との思い出。
私が始めてスープを作る際、野菜が大きすぎると注意された。薪割りで、手が滑り鉈が彼の足元に突き刺さったこともある。どんぐりの採集で、私が転んだときに落ち葉まみれなった時は盛大に笑われた。彼が、私が仕事から帰ってくると、いつも優しく慰めてくれた。いつも、傍にいてくれた。いつだって、私の隣にいてくれた。
暖炉なんかよりも温かくて、家みたいに私を安心させてくれて、冬に飲む暖かなスープのような安心する彼の微笑み。
彼は私のことが好きだと言った。だが、私は彼が、ローリスが私を好きだという以上に、私はローリスが好きだ。
私は、ローリスの外套の中に手を突っ込むと、そこにあるナイフに手を伸ばす。彼が護身用だと言っていた代物だ。
それを手にすると、私は奴に突っ込み、その腹にナイフを突き刺す。
腹部に刃が根まで刺さり、奴の腹部から流れる血が柄を持つ私の手に触れ、生暖かい感覚が冷えた手に染みる。
「ローリスっ、逃げてっ!」
私が声を上げると同時に、横から固く握り閉められた拳が飛んでくる。
「ふざけんじゃねぇぞ」
男の硬い拳が私の頬に直撃し、その拍子に舌を思いっきり噛み、再び口の中に血の味が広がる。
気にしていられない。
私は、倒れた自身の体を起こすと、殴った男の懐に取り込む。そして、彼の腹に思いっきり抱きつく。足掻く。
「離れろ、この野郎ッ!」
男の膝が私の腹部に吸い込まれる。腹部に走る激痛のあまり、口に溜まっている血を吐き出し、彼の外套を汚す。
地面に再び倒れこんだ、私の体は成すすべも無く、町であったように、両脇に強く男に拘束される。
「放せッ! 放せッ!」
声を荒げた瞬間、男の拳が再度私の頬を殴る。
「うるせぇこの野郎ッ! よくもアレスを刺してくれたな」
一瞬視線を向けると、刺された男は地面に腹部を抱えてうずくまっていた。更に視線を、ローリスに向けると、背中にマスケット銃の銃口が突きつけられていた。その位置は、丁度心臓の位置だった。
「てめぇが敵うわけがねぇんだよッ」
男の右拳が私の腹部に入る。殴られる度、私の拙い意識が揺らぐ。顔面は、殴られた衝撃で真っ赤に晴れ上がり、所々切れた場所からは血が流れ出す。元の白い肌が見える箇所は、ほとんど皆無に近かった。
足掻いた。足掻いて見せた。だが、結果はどうだ。
ローリスはほとんど息がない。私も、両脇を男に拘束され、剣で刺されるか、銃で撃たれるかの未来が、火を見るより明らかだ。万事休すだ。
寒い。全身に寒さが走る。
羽織っている外套は、その意味を成していない。手足の感覚はとっくに無く、殴られた衝撃からか、朦朧とした意識では、目の前の男の顔でさえもハッキリ捉える事もままならない。口を開けば、噛み千切った舌から血が流れる。
こんな私には、もう何もできなかった。
痛みすらも、寒さが神経を麻痺させたように感じない。
最後に、彼のスープが飲みたかった。彼に傍にいて欲しかった。彼の声が聞きたかった。彼を見たかった。彼に触れたかった。
意識がゆっくりと薄れていく。
曖昧な意識の中で、やっぱり最後に思うのは、ローリスのことだった。
もしも、彼が人間だったら。何も変らなかっただろう。たとえ、狼であっても彼を私は好きになっていたはずだ。
もしも、こんな状況が起きなかったら。私は、勇気をだしてあの仕事に立ち向かっていただろうか。そしたら、結局敵は王だったのだろう。
私は、権力に負けたのか。差別というレイシズムに負けたのか。
何だって良い。私がもしこのまま死ぬのであれば、最後に彼に触れていたかった。
手を伸ばそうとするものの、肩に手が付いていないかのように力が入らなかった。
ぼやける視界の中、ハッキリと見えた彼の姿。白い雪の中、月の明かりでライトアップされた彼の姿はしっかりと見えた。
全身から流れ出す血が、彼の肌色の肌を埋めていた。全身の打撲痕が彼が、どれだけ私のために身を張ったのかを証明している。
ごめんなさい。私は、いつもあなたに頼りきりだった。多分、私はあなたがいなかったら、いろんなものに押しつぶされて、この世にいなかったのかもしれない。
「そんな事は、ありませんよ。あなたは強い女性です。それにとても努力家だ。初めてスープを教えたときは、野菜はまるで小石のようでした。ですが、今ではとても美味しくなった」
そんな事はない。この前も、私にじゃがいもを溶かすなと注意していたじゃない。
「ついついあなたが心配になってしまうのですよ。蒔き割りなんて、見ているだけで不安です」
足元に鉈を飛ばした事は謝ったじゃない。
「あれから、家に何回鉈の跡が出来たかわかっていますか」
力仕事は苦手だから仕方が無いじゃない。
「そうですね。あなたは、か弱くてついつい守りたくなってしまう。手を焼きたくなってしまう」
彼は笑っていた。
そんな彼に私は、つい頬を膨らませて反論を言いたくなってしまったが、これ以上言ったって彼との口論に勝てそうに無かった。
そっぽを向いたら、私の小さな体は、彼の腕の中にいつの間にか埋まっていた。
「いつだって、私はあなたのことを思ってました」
「あっそ」
「あなたが、手を後ろに組むときは、緊張しているときか、恥ずかしい時の癖です」
「んなっ」
事実私の手は後ろで組まれていた。
更に彼に対して頬が膨らむが、それも急に冷めてしまった。
「私も、あんたの事が好きだった」
「ありがとうございます」
「どこか紳士気取ってるけど、頑張り屋で、どこか抜けてて、優しいローリスが好きだった」
ローリスは照れた様子で、私を抱く手に力が入る。
「ほんと、大好きだった」
偽りはない。本心だ。
感謝もしている。何回口に出したって足りないくらい。何をもってしても変らないくらい。
薄れ行く意識の中で、私の耳に聞いたのは狼の遠吠えだった。それが幾重にも重なっていく。まるで、森が吼えているようにも感じるほどの数だ。
さらに、雪崩が起きたかと思うような足音。
うろたえる男達の声が聞こえる。
そして、銃声が響いた。冷たい空気を裂くような銃声と共に、聞こえたのは悲鳴。
それと共に、獣の唸る声だった。
◆◇◇ ◇◇◆
私は、暖かな暖炉の前に置かれた椅子に腰をかけていた。暖炉の温もりもあるが、私の膝に乗る小さな手も私に温もりを伝える。
「お母さん、お本読んで!」
澄んだ瞳の小さな女の子が、私にねだってくる。
「本ならお父さんに読んでもらいなさい。今日、お母さんは疲れてるの……」
今日は一段と酒場が繁盛していたのだ。いつもより多くの人間を相手にしていたためか、普段より疲れが溜まっている。
「お父さんは、寝ちゃったの!」
子が指差す先には、毛布に包まって寝ている旦那の姿があった。大工という職業柄、かなりの肉体労働だ。疲れているのも納得できる。
「仕方ないかな」
私は、小さく声を漏らすと、子の持つ本を受け取る。本に書かれていた題名は、『赤ずきん』という本だった。
小さな女の子が、おばあさんの家に訪ねると、そこにはおばあさんを丸呑みにした狼がいる。そして、ひと悶着あった後、猟師がおばあさんを狼の腹を切って助けるという話だ。
「それじゃあ、読むよ」
「うん!」
元気そうに放す生娘の笑顔を見ると、疲れなど吹っ飛んでしまうようだ。
もう夜も遅い。これを読んだら娘と一緒に寝ようと考えると、本を開く。
「むかしむかし……」
どうもtennjaniと言います。読めない? 何人に言われたことか。とほほ……。
ここまで読んでいただきありがとうございます。二万文字もお疲れ様でした♪
今回の私の中のテーマは『権力』と『差別』でした。そして、私が伝えたいのは『もっと皆仲良くすればいいのに……』という事ですね。
例えば、現代で言えば差別という事が問題になるかも知れません。そんな差別、意識一つで変えられると思いませんか? 宗教戦争なんて私としてはとても馬鹿らしいと思うのです。自身の神を信じ抜けばいいと思うのです。ですが、心の余裕を持ち『他の神様も居ても良いじゃないか、まぁ、私の神が最強だけどね?』と思える許容があればいいと思うのです。
しかし、そんな許容という問題を解決しても、権力という力が立ちふさがる。
国が『これだけを信じなさい。それ以外は許さない』と圧をかけたら国民はどうすることも出来なくなってしまうのでしょうか?
皆さんでそんなことも考えてみたら面白いんじゃないでしょうか。
後書きが難しい内容になってしまいましたね。
みんな仲良く世界平和♪ って出来たら良いですね。
最後に、読んでくださり本当にありがとうございました。
『桃太郎の弟子は英雄を目指すようです』から見てくださった方もいらっしゃるかも知れません。ぜひ、これからも長いお付き合いをお願いしますね!!
また、次の作品で会いましょう!! ではっ!!