#3-1
日曜日になった。
あれからどうするか悩んだが、結局、高橋さんの買い物に付き合うことにした。
そうした理由は二つある。
一つは、彼女が純粋に野球の実用書について、僕の意見を欲しがっていたこと。
メールからのやり取りや直接話した感じ、彼女にはそれ以外の理由で僕を誘っているように思えなかった。
そして、もう一つは、これが彼女の誘いに乗った最大の理由でもあったのだが、お隣さんの名倉家からホームパーティーのお誘いがあったことだ。
高杉家と名倉家の関係は、僕や浩介が生まれる前から良好なものとして築かれていた。
そして、僕と浩介が共に同じ年に生まれたことによって、その関係はより深いものとなった。
だから、どちらかの家でホームパーティーを行うことも珍しくない。
けれど、野球をやめてから、僕は何かと理由を付けて一度もホームパーティーに参加していない。
あまり浩介や向こうの両親と会いたくない。うちの両親と浩介、向こうの両親が集まれば、自然と野球の話になるからだ。
だから、今回の高橋さんからのお誘いは願ったり叶ったりだった。
これで、ホームパーティーへの参加を断れる正当な理由が出来たのだから。
まあ、どちらにしても野球関連の話にはなるのは避けられないのだが、高橋さんの方が僕の過去を知らないだけ、幾分か気が楽というものだ。
その日は、午前十時に駅前で待ち合わせの約束なっていた。
僕が約束の時間の十分前に待ち合わせ場所付近に着くと、既に私服姿の彼女がその場所で待っていた。
彼女はキョロキョロと誰かを探すように辺りを見渡している。
あまりいい趣味ではないなと自覚しつつも、僕は物陰から彼女の様子を見ていることにした。
思えば、彼女の私服姿を見るのは初めてことのだ。
彼女は、首元から胸元にかけてフリルの付いた水玉模様のノースリーブブラウスと膝丈ほどの白のスカートで身を包んでいる。
大人しめだけれど、どこか色っぽさも感じさせつつ、可愛らしさもある。
彼女らしい装いだなと思えた。
そうこう観察していると、茶髪に染めた若い男が彼女に話し掛けてきた。
見るからに軽薄そうなその男が彼女の知り合いではないことは明らかだった。
話し掛けられた彼女も困った顔をしている。誰からどう見てもあれはナンパだ。
男はしつこい。彼女が手も首も左右に振って断っているのに、諦めない。
流石にこのままでは彼女が可哀想になったので、そろそろ出ていこうかと思い始めた時だった。
「あれ……?」
男は慌てた様子で彼女から離れて行ってしまった。
何があったのか、遠目からでは分からない。
けれども、これで僕も正々堂々と彼女の前に出ていける。
時刻も約束の時間ぴったりだ。
男がどこかに行ってしまった後は、彼女は不安そうにキョロキョロと辺りを見渡していた。
だから、出ていこうとしていた僕はすぐに彼女に見つかってしまった。
僕を見つけた彼女はパァっと表情を明るくする。
「やあ、おはよう。お待たせ」
僕は白々しく挨拶をする。
けれど、彼女は先程あったことなど、微塵も感じさせず笑顔のまま返してくれた。
「おはよう! ううん、大丈夫だよ。時間ぴったり!」
「あ……う、うん」
僕達の関係を知らない人間から見れば、恋人のように思える会話なんだろうなと思い、少し複雑な心境になってしまう。
「それじゃあ、行こっか!」
僕の心境をよそに、彼女は笑顔でそう言うと、僕の前を迷いなく歩きだした。
僕はそんな彼女を追いかけ、横に並んで一緒に歩いた。
書店への道すがら、僕は疑問に思うことを彼女に尋ねていた。
「しかし、野球の事も分からないのに、よくマネージャーなんて引き受けたね? そんなにしつこく勧誘されたの?」
そう尋ねると、彼女は目を丸くした後、あはは、と笑った。
「違うよ、高杉君。確かに入学当初は、先輩から勧誘もされたけど、しつこいってほどじゃなかったよ」
「そうなの? じゃあ、どうして……?」
彼女に再びそう尋ねると、今度は真面目な表情でじっと僕を見据えてきた。
「あ、あの……」
僕はその視線に耐え切れず、声を掛ける。
すると、彼女は少し微笑んだ後、前に向き直り、どこか遠くを見るような目をして語りだした。
「私ね、本当は野球が好きだったの。中学の頃、友達に野球の試合観戦に誘われて連れてってもらったことあってね。そこで見た時に好きになっちゃったんだ。試合中に、チームメイト同士で掛け合う声とか、バットから響く快音とか、ピッチャーが投げた球がキャッチャーのグローブに収まる瞬間に聞こえる音とか、スタンドからの声援のとか、全部の音がね、すっごく気持ちよかったの」
「……それで、好きになったの?」
「うん!」
そう頷く彼女の目は輝いていた。
その目は、彼女が語ったことに嘘がないことを証明している。
「だけど、私がその瞬間野球を好きになったのは、その時の試合で登板していたピッチャーのお陰なんだ」
「ピッチャー、の……?」
「うん。そのピッチャーはね、すっごく速い球を投げるの。誰にも打たせるものかっていうくらいの気迫が観戦している私にも伝わるくらい凄かった。その証拠に、彼は何人も三振に打ち取ってた。彼の後ろを守る選手も、ベンチに座る両チームの選手も、そして、その試合を観戦する観衆も、誰もが彼に注目し、感嘆していたの。もちろん、私も。彼のマウンドに立つ姿は今でも忘れられない」
彼女はその時のピッチャーの事を思い出しているのか、話しながら時折目を瞑って話している。
その時、瞼に焼き付けたその彼の姿でも見ているようだ。
目を瞑って歩くなんて、僕には危なかしく思えてならなかったけど、思い出に浸る彼女の横顔は活き活きしていて、注意する気にもならなかった。
「凄い……ピッチャーだったんだね?」
「うん、凄かった」
彼女は頷き、そう断言した。
彼女の話を聞いて、なんとなくどんな選手だったのか、想像してみた。
野球を知らない彼女の心をそこまで射止めてしまうピッチャー。
その彼はきっと誰からも認められるようなプロ野球選手であるに違いない。
そんなプロ選手なら、僕も名前くらいなら知っているかもしれない。
そう思った僕は、彼女に尋ねてみた。
「ねえ、その選手って、なんて名前?」
そう尋ねると、彼女は目を見開いて驚いた様子を見せた後、頬を赤らめながら、苦笑いを浮かべた。
「ええっと……恥ずかしい話なんだけど……わ、分からないの」
「……は?」
彼女の言った事に僕は思わず間の抜けた反応を返してしまった。
その反応を受け、彼女はさらに顔を赤くして、怒ったように言い放った。
「だ、だから、その選手の名前、知らないの!」
「は、はあ!? 凄い選手だったんでしょ? だったら、名前くらい……」
「す、凄かったよ。凄かったけど……それが初めての野球観戦だったし、名前までは気が回らなかったの!」
彼女はそう言って顔を赤らめたまま、そっぽを向いてしまった。
その後、そのピッチャーがなんて選手だったのか気になった僕は、どこのチームだったのかとか、特定できる情報を彼女から引き出そうしたが、彼女は「知らない」の一点張りだった。
どうも、そのピッチャーが投げる姿だけに目を奪われていたらしく、その時はそれ以外の事は目に入ってなかったらしい。
それでも、そこまで引き込まれた選手なら、後日でも自分で調べそうなものだがと、僕は疑問に思ったが、これ以上追及しても話が前に進みそうになかったので、話を本筋に戻すことにした。
「それで? 野球を好きになったから、君は野球部のマネージャーになった、と」
「うん。本当は私自身が野球をしてみたかったんだけど、うちの野球部は女子選手を認めてないから。それで、マネージャーになったの」
「でもさ、君がマネージャーになったのって夏休み前だよね? そんなに好きなら、入学してすぐマネージャーになればよかったのに」
「うん、そうすれば良かったんだけどね……」
そう頷く彼女の表情はどこか暗かった。
「私ね、入学した当初は自分に自信がなかったの……」
「え……」
それは思いもよらない告白だった。
自分に自信がないだなんて、入学式の壇上であんなに堂々とした挨拶をした彼女からは想像できない言葉だ。
「意外?」
「う、うん。だって、君は入学式であんなに堂々としてたから……」
「あんなの、書いてあることを読めばいいだけだもの。練習さえすれば、誰にだってできるよ」
「そ、そうかな?」
「そうだよ。やろうと思えば、高杉君にもできることだよ、きっと」
そうは言うけれど、まずもって、僕ではあの場に立つことすら叶わない。
だから、誰でもってわけではない。
けれど、彼女の言いたのはそういうことではないのだろう。
たぶん、あの役目ならきっと誰でもこなせる、そう言いたいのだと思う。
だから、そんな役目を担ったところで、彼女の自信には繋がらなかった。そういうことなのだろう。
「だから、私には自信がなかった。野球の事も何も知らない私に、野球部のマネージャーなんて務まるわけない。そう思ってたの。そうこう迷っている間に、あっという間に三ヶ月経ってた。その間も先輩から誘いは受けてたけど、やっぱり踏み切れなくって。でもね、夏休み前に名倉君から誘われたの」
「こ、浩介から?」
突然出てきた浩介の名前に僕は思わず過剰に反応して、口を挟んでしまった。
「うん。名倉君にね、『高橋さんがいると士気が上がるから、甲子園を目指す上で君が必要だ!』なんてことを言われて、口説かれちゃったの。あの時は流石の私もドキドキしちゃった。だって、名倉君、すっごく真剣な顔して言うんだもん。一瞬、告白されたのかと勘違いしちゃった」
「こ、浩介の奴……」
アイツは昔から素面でとんでもなく恥ずかしいことを恥ずかし気もなく、さらっと言ってしまう。
そういう奴だった事を思い出した。
ああ、でも、そうすると、この間彼女が浩介の投球を夢中になって見ていたのは、もしかすると……。
「で、でもね、そのお陰で決心がついたの。その言葉があったから、野球部のマネージャーをやろうって思えたの」
「……そっか」
それが、高橋由香という人物が野球という球技に魅入られてから、野球部のマネージャーとなるまでの経緯だった。
この時の僕は彼女の話を本気で信じて、疑うことすらしなかった。