#2-3
「でね、良かったらなんだけど、私に野球について教えてくれない?」
彼女、高橋由香は、昨日と同様に何故か当然のように僕の横に並び、長い長い坂を上りながら、これまた何故か僕とは古くからの旧友のように話しかけてくる。
「えっと……、高橋さん?」
「ん? なに? あ、由香でいいよ?」
「君をどう呼ぶかは、また今度にするとして……、どうして、君は今朝も僕と一緒に登校なんてしているんでしょうか?」
「あーあ、また今度にされちゃったあ……ま、仕方ないかぁ。
どうしてって、君とお話したいからだよ? 昨日も言ったじゃない。忘れたの?」
うん、確かにそれは聞いた。決して忘れていたわけじゃない。
けれど、それで僕は納得できないし、きっと、他の人も納得いかないと思う。
「あのね……昨日も聞いたかもしれないけど、もう一度訊くね。どうして、僕と話がしたいの?」
「うん、それも昨日言ったよ。君が野球に詳しそうだからだよ」
「うん、そうだったね。じゃあ、訊くけど、君は野球に詳しそうな人なら、誰にも馴れ馴れしく話し掛けるわけ?」
「そ、そんなことないよ! 私はそんな見境なしじゃないよ。君だからだよ!」
「僕……だから?」
その言葉に思わず僕はドキリとしてしまった。
そんな風に言われてしまうと、どんな男でも淡い期待を抱いてしまう。
もしかすると、本当に彼女は……。
「君が、部員でもないのに、うちのエースにアドバイスしてくるような親切な人だから、だよ」
「……あ、そ」
とんだ勘違いでした。
そうだよね、そんなわけがないよね。
何を自惚れているんだ、僕は。すごく、恥ずかしい。
顔、赤くなってないかな……。
そんな僕の心情をよそに、彼女は楽しげに声を弾ませて話している。
「うん。だからね、そんな親切な君なら、私にも野球の事、教えてくると思って」
「え、えっと……それ、さっきも言ってたけど、どうして? 君は野球部のマネージャーなんだから、そんなの教えてもらう必要なんてないんじゃない?」
「そうだよって言いたいところなんだけど……お恥ずかしながら、私、マネージャーになる前は野球について何も知らなかったの。野球部に入ったのも、ついこの間のことだし……」
彼女は両手の人差し指の先をくっつけながら、恥ずかしそうにしている。
言われてみれば、高橋さんが野球部のマネージャーになったのは、夏休み前のことだと聞いている。
ちょっとした騒ぎになったので、当時の事は僕もよく覚えている。
高橋さんは、入学直後、どの部活動にも入らなかった。
多方面から勧誘があったそうだが、どれも断っていたそうだ。
それが、七月なると突然、野球部のマネージャーになったと言うのだから、騒ぎにならないわけがない。
野球部員の誰かが実は彼氏なのではないかと、邪推する者まで現れた始末だ。
結局、この騒ぎは、野球部の先輩マネージャーから口説き落とされたという事実が知られ、収まりをみせた。
その事実と先程の彼女の話を照らし合わせると、彼女はまだ野球についてあまり詳しくないと言うのも頷ける。
だからと言って、僕が彼女に野球の知識を教える必要なんてないのだが。
「だからね、お願い! 私に野球について教えて。このとーりだから、ね?」
いくら教えを請われても、それに応じる必要なんてない。
そう、こんな風に両手を合わせて、頭まで下げられなければ……。
「や、やめてよ、こんな所で! そんな事されたら……」
また、周りから色々と勘違いされてしまう。
今だって、僕達と同じように登校してきている生徒からの視線が痛い。
だって言うのに、彼女は僕の言うことも聞かず、頭を下げ続けている。
これは、早くなんとかしないと、彼女のファンから何をされるか分かったもんではない。
「はあ……分かったよ。分かったから、頭を上げてよ!」
「え!? それじゃあ!」
彼女はパッと顔を上げて、明るい表情を見せる。
その目は期待に満ちていた。
「ひ、暇な時になら教えてあげるよ」
「わぁ! 良かったぁ!」
僕は嫌々ながら応じたのに、彼女は嬉しそうに頬を綻ばせ喜んでいる。
どうも、彼女は他人の表情や声の機微には鈍感のようだ。
「それじゃあ、連絡先、教えてもらっていいかな?」
彼女は自分のスマホを取り出して、こちらに差し出してくる。
番号やメールアドレスの交換をしようと言うことらしい。
僕も自分のスマホを取り出して、お互いの連絡先を交換し合った。
連絡先の交換が終わる頃には、ちょうど坂を上り切り、学校の正門前に着いていた。
「それじゃあ、後で連絡するね!」
「え、あの、ちょっと!」
彼女は僕の制止も聞かず、校舎の方へと駆けて行ってしまった。
この場合、追いかけるという選択肢はない。
そんな事をして、彼女のファンの目に留まることになってしまう。
僕と彼女は、ただ連絡先を交換し合っただけの仲だ。
けれど、それだけでも周りに知られたら、きっと嫉妬の嵐だろう。
だから、彼女に今回の事は誰にも言わないように言い含める必要があったのだが、それは後で伝えおこう。
幸い、彼女のメールアドレスも分かっていることだから。
正門前で一人取り残された僕は昨日のクラスメイト達の反応を思い出す。
それだけで気が滅入りそうになってしまったけれど、その重い気分を振り払い、校舎へと足を進めた。
言うまでもないけれど、教室に入った僕に、殺気めいた男子の視線が突き刺さってきたのはお約束だ。
そして、休み時間にニヤニヤ顔の坂田君に質問攻めにあったのもお約束だった。
そして、この日、僕の頭を悩ませる出来事がもう一つ起きる。
昼休みの事だった。
ポケットの中に入れていたスマホのバイブが短く震えるのを感じた僕は、スマホを取り出し、画面を見た。
そこには、『高橋由香』の名前が通知欄に表示されていた。
彼女からのメールだ。
僕は誰にも見られないように周りを警戒しつつ、メールを開く。
『件名:早速メールしてみたよ!
本文:どう? ちゃんと届いてる?
今朝は、私のお願い聞いてくれてありがとうね! やっぱり、君が親切な人で助かったよ!
それでね、早速で悪いだけど、今度の日曜日に実用書とか買いに行きたいから、付き合ってもらっていいかな?』
「はあ!?」
メールの中身に思わず声を張り上げた。
すると、教室中の生徒の視線が一気に僕に集まる。
それに気づいて、僕は愛想笑い振舞きつつ、教室を出た。
僕はトイレの個室に駆け込み、もう一度メールの中身を確認する。
一字一句、先程と変わらない。変わるわけがない。
それは、生涯初めての女の子からのデートのお誘いだった。