#11-5
決勝戦の翌日、左肩の精密検査も終わり、僕は退院できた。
検査の結果、浩介の言っていた医者の見立て通り、肩の腱を痛めて炎症を起こしているとのことだった。
治療とリハビリには時間が掛かるようだが、それを怠りさえしなければ、前と同じようにボールが投げられるそうだ。
結局、僕が入院している間に彼女は来なかったけれど、すぐに退院できたから、その足で彼女のもとに向かおうと思っていた。
けれど、病院を出てみると、彼女が既にそこに立っていた。
「タッちゃん……」
「ゆ、由香……」
彼女は僕を見つけると同時に俯いてしまう。
僕は僕で突然のことで彼女になんと声を掛ければいいか迷い、その場で固まっていることしかできなかった。
「肩は……どう、だった?」
彼女が恐る恐るという感じで尋ねてくる。
「あ、うん……だ、大丈夫だったよ。治るまで時間は掛かるかもしれないけど、ちゃんと元に戻るって言われた」
「ほ、本当に!?」
彼女は顔を上げて訊き返してくる。
その顔は、期待と不安が入り混じっていた。
「本当だよ。心配、掛けちゃったね」
「本当に本当なんだよね? 嘘じゃないよね? また、野球ができるんだよね?」
「由香に嘘なんか吐くわけないだろ。大丈夫、僕は野球を続けられるよ」
「よ、良かった……」
彼女は安堵の言葉を呟くと同時に、見る見るうちにその目から涙が溢れていく。
「ゆ、由香? そんな、泣かなくても……」
「タッちゃんの……バカッ! バカバカバカッ!」
彼女は何度もバカと言いながら、僕の胸を両手で交互にポカポカと勢いよく叩き始める。
「痛っ! イタタタッ! ちょっと由香、やめてよ!」
「いや! やめない! バカバカバカバカ……タッちゃんの、バカァ……!」
バカと連呼すればするほど、その声は涙声で掠れていき、彼女が僕の胸を叩く勢いも弱まっていく。
もう、叩かれていても痛くなどなかった。
「本当に……本当に心配したんだから! タッちゃんが野球出来なくなっちゃうんじゃないかって、不安で不安で堪らなかったんだからぁ……!」
彼女は外だというのに人目も憚らず、泣きながら叫ぶ。
結局、いつだって僕は彼女を泣かせてばかりだ。
「ご、ごめん……」
「ひっく……ばかぁ……」
謝ってみたものも、彼女は泣き止まず、僕の事も許してくれない。
そんな彼女にほとほとに困り果てていると、彼女は涙目のまま、僕に言ってきた。
「もう、あんな無茶、絶対にしないで」
「う、うん」
「本当だよ? ホントの本当に、もう無茶しちゃダメだよ? 約束、してくれる?」
「うん。約束、するよ」
それは彼女と交わす幾つ目の、そして何度目の約束だろうか。
以前はその約束を破ってしまったけれど、もうそれを破ることなんてない。
だって、僕は、最初の想いを思い出すことができたから。
「大丈夫。今度は絶対に守るから。君との約束はもう二度と破らないよ」
「それも……約束……?」
「うん。約束だ! だから、もう泣かないで? 由香」
「う、うん……」
約束だと力強く頷いてみせると、彼女はやっと泣き止んで落ち着いてくれた。
そして、彼女は周りを見渡した後、はにかんで頬を赤らめる。そんな彼女の表情に僕も恥ずかしくなって、彼女と目を合わせることが出来なかった。
「その……本当に、ごめんね。約束、破ってばかりで……」
「そ、そんな事ないよ! タッちゃんは約束通りコウちゃんを……」
「あー、いや、そっちじゃなくて……」
「え? じゃあ……?」
「その……君を甲子園に連れて行くって約束、果たせなかった」
「あ……」
それはいつか交わした約束だ。
青蘭高校を甲子園に導くことが出来たなら、その時は、彼女と――そんな守る事すら難しい約束だ。
僕に言われて彼女もその事を思い出したのか、彼女は先程よりも顔を赤くして俯いてしまう。
けれども、僕はしっかりともう一度伝えたかった。
彼女に僕の想いを。
そうでないと、新たなスタートが切れないような気がしたから。
「そ、その、さ。今回はダメだったけど、秋の大会にも間に合わないかもしれないけど、来年の夏には、きっと果たしてみるから! だから、その……」
それが出来たなら、付き合って欲しい。
そう言い掛けて、僕はその言葉を飲み込んだ。
別にそれを口にする勇気がなかったわけじゃない。
それこそ、今更だ。
そんな勇気がなかったなら、今までしてきたことなんて、出来はしなかった。
違うと思ったんだ。
そんな事を伝えたいわけじゃないと、思った。
僕が彼女に伝えたい想いは……。
「タッちゃん……?」
彼女は恥ずかしそうに頬を染めながらも、僕がその続きを口にしない事を不思議そうな目で見ている。
僕の言葉を待ち望むその目は、見ているだけで吸い込まれそうになるほど綺麗な瞳だった。
その瞳にいま移っているのが僕だけだと思うと、もう止められなかった。
「だから……だから、君にはこれからもずっと僕だけを見ていて欲しいんだ!」
その言葉に彼女は驚いたように目を丸くした。
きっと、想像してものと違っていたから驚いているのだろう。
僕が紡いだ言葉は、愛の告白と言うには、あまりにも中途半端なものだろう。
その癖、独占欲だけは強いと分かる言葉だ。
けれど、それが僕の本心だった。
彼女が中学三年の夏に見た、彼女を魅了したピッチャー。
それが僕だったのか、それとも浩介だったのかは分からない。
けれど、それはもうどちらでもいい。
僕はその時彼女が見たピッチャーのように、彼女を魅了できるようなピッチャーになって、ただ彼女に見ていてもらいたい。
それが、甲子園に行って優勝するという夢以外で、僕が野球をやる動機だ。
「あは、ははは……こ、困ったなぁ……」
彼女は苦笑いを浮かべつつ、本当に困ったような顔をする。
そんな彼女に僕は恐る恐る尋ねる。
「だめ……かな?」
「タッちゃんのこと、見てるのは嫌じゃないよ。だけど、流石にタッちゃんだけを見てるわけにはいかないよ。私、野球部のマネージャーだし、それに……コウちゃんだっているし……」
「そ、それは……そう、だよね……」
彼女の言う事は正しい。
彼女にとっても、野球部にとっても、野球部のマネージャーと言うのは大事な役割だ。
それに、彼女にとって浩介が大切な存在であるのも確かだ。
僕だけを見ている事なんて出来るわけがない。
それは分かっていた事だ。
けれど、それを口にされてしまうのは、少しだけ堪えて、僕はしょんぼりと項垂れるしかなかった。
「でもね……」
「え?」
項垂れる僕に対して、彼女が何かを言い掛けるので、僕は慌てて顔を上げた。
「私ね、昨日のタッちゃんの投げる姿を見てて、思ったの」
「な、何を?」
「もしかしたら、あの時のピッチャーってタッちゃんだったのかなって……」
「あの時って……まさか……それって、中学三年の時に見たって言う……?」
「う、うん。けどね、私が野球を好きになったきっかけを作ってくれたピッチャーのことはね……以前、タッちゃんに話した通りなの」
「え……以前にって……何のこと?」
「その……そのピッチャーが誰なのか覚えてないってこと……」
「え!?」
僕が驚くと、彼女はバツが悪そうに苦笑いを浮かべる。
「で、でも……僕か浩介かどっちかだって……それに、前は内緒だって……」
「う、うん。確かにタッちゃんかコウちゃんかどちらかなんだろうけど……どっちなのか、私には分からないの。二人とも背格好が似てたし、マウンドに立ってる時は帽子被ってたから、顔も良く見えなくて……だから、どっちだったのか、分からないの。それを二人に話すと残念がると思ったから、つい内緒だなんて言っちゃんって……。その……ごめんなさい!」
彼女は申し訳なそうに勢いよく頭を下げて謝ってくる。
「あ、いや、別に謝らなくても……それに、さっき僕だったのかなって……」
「それは、昨日、最後の一球を投げる前のタッちゃんの姿を見てたら、そんな風に思えたの。チームの皆から信頼されて、最後を任されて、それでも堂々としてて……それがあの時のピッチャーと重なって見えて。だから、もしかしたらって……。でも、そのピッチャーが本当にタッちゃんだったのかどうかはやっぱり思い出せなかった」
「なんだ……そういう事だったのか……」
結局、彼女の言うピッチャーが僕か浩介のどちらだったのか、分からず仕舞いということだ。
半分、残念。
けれども、もう半分は嬉しかった。
彼女の言うように、僕がそのピッチャーの姿に少しでも近づけたなら、僕はそれだけでも嬉しい。
「だからね、タッちゃん!」
「は、はい!」
不意に彼女に名前を呼ばれて、僕は思わず姿勢を正す。
「マウンドに立つタッちゃんの姿を、これからも見ていたいって……。私はこれからも、ずっと君を見ていたいって……そう思ってるの」
彼女は真剣な顔をして、その言葉を僕にくれる。
彼女のその言葉だけで僕は十分だった。
ずっと君を見ていたい。
その言葉だけで、そう言ってもらえるだけで、僕の心は飛び上がりそうなほど嬉しくて、幸せだった。
「ありがとう……由香……」
「ううん。折角、タッちゃんが想いを伝えてくれたのに、私、まだ、タッちゃんの事も、コウちゃんの事も、二人の事が大好きで、どちらかだけにってことができなくて……ずるいよね? 私って……」
そう言って彼女は自らを嘲るように冷たく微笑む。
「そんなことないよ、由香。僕は、さっきの言葉だけで今は十分だから。それに、僕も浩介とは、ちゃんと決着つけたいしね!」
そう言って僕は笑って見せる。
すると、彼女も、
「ありがとう、タッちゃん」
そう言って、いつもの優しげな微笑みを見せてくれた。
けれど、その笑みはすぐに消えて、彼女はまた恥ずかしそうに顔を赤く染めて、俯く。
「ど、どうしたの?」
「あ、あのね……タッちゃんを選んであげることは、まだ出来ないけどね。その……コウちゃんの事は、ちゃんと約束は守ってくれたから……」
そう言うと、彼女は意を決したように顔を上げる。
「こ、これは、私からのそのお礼だよ!」
そう言うや否や、彼女は僕に顔を近づけてきて、そして僕の頬に――。
「え――」
右頬に伝わる柔らかな感触。
それは一瞬のことだったが、それが彼女の唇の感触なのだとすぐに分かった。
「ええええええ!?」
僕はあまりの突然の出来事にキスされた頬に手を当てがって、驚きの声を上げていた。
「あははははっ! タッちゃん、顔真っ赤だー! おっかしー!」
彼女は、僕の顔を指さしながら、からかうように大笑いする。
その彼女の顔だって、未だに赤いままだ。
「こ、このぉ! そこ、笑うところじゃないだろ!」
「うわーん、ごめんなさーい! 怒らないでよぅ!」
謝っていても、その顔は笑顔のままで、彼女は僕から逃げ出すように走っていく。
僕は捕まえようと追い駆ける。
僕がずっと見ていたいと思っていた、その眩しいくらい弾けた笑顔を。




