#11-2
その声は、周りにいるチームメイトやスタンドにいる観衆の声を押しのけ、ハッキリと僕の耳に届いていた。
声がする方を見る。
一塁側のスタンド席、その最前列よりも前、フェンスにしがみつくようにして立っている人物が見える。
その姿を僕は知っている。
「こう、すけ……?」
その人物が浩介のなのだと分かった時、不思議にも混濁していた意識は呼び戻されていた。
その目にはハッキリと浩介の姿を映している。
そして、浩介の隣には彼女が彼を支えるように寄り添っている。
遠目からでもハッキリと分かる。
彼女は僕を心配そうに見ている。
浩介が、彼女が、来てくれた。
約束を守ってくれた。
それが分かったのに、僕は嬉しくなんてなかった。
だって、もう、僕は投げることができない。
約束を守ることが出来ないのだ。
それなのに、浩介は――。
「なに諦めてやがる、達也! お前が、証明して見せるって言ったんだろうが! 俺に証明して見せるって言い出したんだろうが! だったら、最後まで諦めるんじゃねぇ! こんなところで諦めやがったら、俺はお前を一生許さねぇぞ!」
声が聞える。
幼馴染でライバルの声が。
その彼が僕を鼓舞するように叫んでいる。
大声なんて、もう出し方は忘れてしまうほど出してなかったはずなのに、その掠れ声で必死に叫んでいる。
「立てよ! 立って、証明して見せろよ! 勝って見せろよ! 勝って、見せてくれよ! 俺とお前の……皆の夢の続きを! 夢を、叶えろ、達也ぁああああ……!」
夢。
僕と浩介の夢。
甲子園に行って、優勝すること。
それが僕らの夢だった。
いや、高校野球をやっている者なら、誰しもが一度は夢見て、目標とするものだ。
けれど、遠い夢だ。
遠すぎて、手が届かない夢。
少なくとも、県大会の決勝戦のマウンドで膝を折っている僕には、遠すぎる。
「立てぇえええ! 高杉ぃいいい……!」
今度はどこからともなく別の叫び声が聞えてきた。
その声も聞き覚えのあるの声だ。
その人がどこにいるのかは分からない。
それでも僕には分かった。
叫んでいるのは坂田君だ。
「取り戻すんだろ、アイツの笑顔を! だったら、立てよ! お前なら出来るはずだ! 立てぇえええ……!」
取り戻す。
そうだ。
僕は取り戻したかった。
彼女の本当の笑顔を。
僕と浩介と彼女と一緒にいた頃の、あの眩しい笑顔を。
あの輝かしい日々を。
その為なら、僕はどんな事だってやるって決意したんだ。
それなのに、結局僕は……。
「由香ぁ! お前もいるんだろ? 見てるんだろ? だったら、何か言ってやれよ!」
坂田君は、今度は僕ではなく彼女に叫んで呼び掛けている。
その声に僕はもう一度一塁側のスタンドを見た。
浩介の隣に彼女は変わらず立っている。
その顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
そして、彼女も叫んだ。
「もう、いいよ……!」
「え……」
彼女の言葉に静粛が訪れた。
聞えてきた彼女の叫びは、意外なものだった。
きっと僕だけでなく、呼び掛けた坂田君も、隣にいる浩介さえも絶句していたと思う。
でも、彼女を止める人はいなかった。
だって、誰もが彼女の声に聞き入っていたから。
まるで、入学式の時、新入生代表として登壇したときのように。
彼女のその言葉は決して僕を冷たく突き放すわけでも、僕を励まそうとしているわけでもなく、ただ静かに優しく心に染み入るような声だった。
「もう、いいの。もう、大丈夫だから。もう私もコウちゃんも大丈夫だから。だから、もう無理しないで。もう無茶しないで。ただ、タッちゃんが笑って野球ができるなら、それで、いいから。それで、私も笑ってられるから。だからもう、私やコウちゃんの為に苦しまないで! お願いだから、タッちゃんの為の、自分の為の野球をして!」
彼女の涙を流しながらの叫びは、誰の声に阻まれることなく、球場に響き渡る。
静粛の中、彼女の必死な叫びは、僕にしっかりと届いていた。
彼女のその叫びは、彼女の思いそのものだ。
僕に無理をして欲しくない。
無茶をして欲しくない。
その一心で出た言葉に違いない。
僕を鼓舞するわけでなく、ただ僕を心配しての言葉。
けれど、その言葉に僕は……。
「ああ……そっか。そう、だったよね……」
彼女の言葉に、僕は気付かされた。
どうしてもう一度野球をやりたいと思ったのか、どうしてピッチャーになろうと思ったのか、その理由を。
浩介の為だとか、夢の為だとか、そんな小難しいことは、きっとこじつけに過ぎない。
そうした方が、格好がつくから、それを理由にして誤魔化していたんだ。
僕はただなりたかったんだ。
彼女を魅了して、彼女を変え、あの眩しい笑顔の原点となったピッチャーに。
彼女にずっと見ていてもらえるようなピッチャーに。
そんな不純で自分勝手な動機が僕の原動力だった。
それに気づいた時、僕は不思議と活力が湧いてきて、体が軽くなった。
痛みはある。
もう体力も限界だ。
けれど、何故だか体は、肩は、動いてくれた。
まるで、背負っていた重い荷物を降ろしたような感覚だ。
僕は、まだ、投げられる。
「……ったく、アイツら、恥ずかしげもなく、人の名前を連呼しやがって。こっちが恥ずかしくなるっていうの……」
そんな悪態をつきながら僕は立ち上がる。
そして、交代を審判に告げようとする監督に向かって言った。
「監督、あと一球、あと一球だけ投げさせてください」
僕がそう言うと、監督は酷く驚いた顔を見せた。
「な、何を言っているだ!? もういい。高橋さんの言う通りだ。もう無理は――」
「違うんです、監督」
「え? 違う?」
「はい、違います。僕は僕の為に投げたいんです。誰の為でもなく、自分の為に。だから、最後に一球だけ投げたいんです。最初で最後の自分の為だけのボールを。お願いします!」
「し、しかし……」
僕は頭を下げて監督に懇願する。
それに監督は困惑していた。
当然だ。
試合に勝つことを考えれば、肩を怪我した投手よりも、二番手の投手の方が幾分勝機もある。
それに僕自身の事も考えれば、投球を続けさせず、すぐに病院で診てもらう方が正しい選択だ。
だから、僕の要求は受け入れ難いものだろう。
「僕は構いませんよ、監督。高杉に全て任せたいと思います。僕はエースを信じます」
迷う監督の横で、そう言ったのはキャプテンの高木先輩だった。
「キャプテンがそう言うならオレも構いませんよ。大体、達也がいたからここまで来れたんだ。最後ぐらい、コイツの好きなようにさせてもいいじゃないですか?」
高木先輩に続いて、松井も僕の後押しをしてくれる。
すると、チームメイトから次々と声が上がった。
「そうですよ、監督! 高杉に任せましょう!」
「大丈夫。打たれたら打たれただ! エースが打たれて終わるなら、皆納得だ」
「その通りです、監督! それに打たれからって終わりじゃないですよ。俺達だっているんですから!」
皆が僕の後押しをするように監督向かって口々に言う。
誰もが勝ちたいはずなのに、それでも僕を信じて、僕の続投を望んでくれていた。
「やれやれ……しょうがないな、君達は……」
監督はそう言って諦めたように溜息をついた。
「か、監督、それじゃあ……」
「ああ、続投を認めるよ。ただし、本当に一球だけだ。それ以上は監督としても、教師としても見過ごせない」
「ありがとうございます! 皆も、ありがとう!」
僕はもう一度頭を下げ、監督とチームメイトに感謝にした。
そして、監督はベンチに、チームメイトはそれぞれの持ち場に戻って行く。
僕はマウンドの上で、もう一度浩介と彼女のいるスタンドを見た。
二人とも、心配そうな顔で僕を見守っている。
そんな二人に僕は微笑みを返す。
大丈夫。
僕はもう諦めない。
途中で投げ出すなんてこともしない。
だって、好きだから。
野球が、ピッチャーが、僕を信じてくれる皆が。
そして、君のことが大好きだから。
もう、それだけは見失わない。
それさえ、見失わなければ、僕は投げられる。
試合は再会された。
左手にボールを握り、バッターに相対する。
もうお互いの手の内は分かっている。
最後は知識も技術も関係ない。
真っ向勝負あるのみだ。
僕は渾身の力と思いを込めて、最後の一球をキャッチャーのミット目掛けて投げた。
ボールが手から離れた瞬間、肩の痛みが限界に達したせいか、僕の視界は突然電源を切られたテレビのように真っ暗になる。
きっと脳が意識を強制シャットダウンしたのだろう。
ただ、その意識が消える間際、高い金属音が聞えたような気がした。