#9-5
すっかり暗くなってしまった夜道、僕は彼女を家まで送り届けるため、彼女と二人並んで道を歩く。
「でもさ、なんで僕に浩介のノートを?」
道すがら、僕は彼女に疑問に思っていた事を尋ねた。
すると、彼女は少しだけ申し訳なさそうな顔で微笑んで答えてくれた。
「一人で練習する時にきっと必要になると思ったから」
「え……」
僕は思わず足を止めた。
彼女のその言葉には確信めいたものがある。
それが何であるかは考えるまでもなかった。
「……知ってたの?」
先を進む彼女に僕は尋ねる。
すると、彼女も立ち止まって振り返った。
「うん。と言っても、知ってたのはコウちゃんだよ。タッちゃんが一人でずっと頑張ってたこと、コウちゃんが怪我する少し前に教えてくれたの」
「こ、浩介が……?」
「うん。でも、コウちゃん、この事は黙っとけって。タッちゃんは誰にも知られたくないみたいだから、知らない振りしてろって言われてて」
「そ、そうだったのか……」
知らなかった。
まさか、浩介に『日課』の事がバレていたなんて……。
あいつ、そんな素振りなんて一つも見せなかったから、てっきり気づいてないと思ってたのに。
「ごめんね。本当は言うつもりはなかったんだけど……一人で頑張ってるタッちゃん見ていると、何か私もしたくなっちゃって……迷惑、だったかな?」
上目遣いで僕の様子を伺いながら、彼女は尋ねる。
僕はそれにすぐに答えず、彼女の横に並んで右手を彼女の頭の上に撫でるように乗せる。
「……バカだな。そんなわけないじゃないか」
それだけ言って、僕はすぐに右手を放し、彼女を追い抜いた。
「え、えへへ……やっぱり、タッちゃんは優しいね!」
彼女はすぐに僕の横に並び、嬉しそうに笑う。
僕にはそれが少しだけ恥ずかしかった。
「でも、凄かったなー! 今日のタッちゃん」
不意に彼女はそんなことを言ってきた。
「そ、そうかな?」
「うん、凄かったよ! 高木先輩を本当に三振に取っちゃんうんだもん。それもたった三球で。私、感動しちゃった。ボールを投げてる時のタッちゃん、まるであの時みたいで――」
「あの時? それって……」
「え!? あ、あはははっ! う、うん、まるでコウちゃんが投げてる時みたいだったなーって」
その時の彼女は明らかに狼狽えていて、何かを誤魔化そうとしているようだった。
僕には彼女が何を誤魔化そうとしているのか、一つだけ思い当たる節があった。
「ね、ねえ、もしかしてだけど――」
「あ、そういえばね、皆もタッちゃんのこと見直してたよ。凄いって言ってた。だからね、私言ったの。タッちゃんはその気になれば、もっと凄いんだからって」
「おいおい……」
明らかに話題を変えられた感はあるが、それにしたって言い過ぎだ。
あんまり僕の事を過大評価されても困る。
「心配ないよ。タッちゃんはエースなんだから! エースは皆の期待に応えるものでしょ?」
「それはそうだけど……」
彼女の言う通り、エースは皆の期待を背負って投げるものだ。
けれど、まだ僕はそんな期待に応えることができるか心配だった。
そんな僕の不安を察して、彼女は笑顔で励ましてくれる。
「大丈夫だよ、タッちゃん! もっと自分を信じて。きっと、タッちゃんならできるから。私もタッちゃんのこと頑張って応援するからね!」
彼女のその言葉は、何故だか僕に勇気を与えてくれる。
その言葉だけで、僕は何でも出来そうな気分になってくるのだから不思議だ。
「うん、頑張るよ。ありがとう! けどさ……」
けれど、僕にはどうしても一つだけ気掛かりな事があった。
「ん? どうしたの?」
「あー、いや、その……今更なんだけどさ、その『タッちゃん』ってのは、やめてくれないか?」
「えー! どうして!?」
彼女は驚いた様子で僕に聞き返してくる。
そんな彼女に僕は素直に告げた。
「ど、どうしても何も、恥ずかしいからだよ!」
恥ずかしい以外に理由なんてあるわけがない。
そもそもあの呼ばれ方は心臓に悪い。
いままでは、浩介やマスターの前だけだったから良かったものの、野球部の皆の前であんな呼ばれ方されたら、色々と問題があるし、あの漫画を知っている奴なら、失笑するに違いない。
けれど、そんな僕の思いをよそに彼女は不満そうに頬を膨らませている。
「むぅ! なんだか酷いよ。いままで許してくれたのに、突然そんな事を言うなんて!」
不満そうにするどころか、彼女は怒っていた。
困ったな……まさか、呼び方一つでこんなに怒るなんて思わなかった。
「はあ……分かったよ。じゃあ、二人でいる時とマスターの前ではいままで通りでいいから。せめて、野球部の中では達也とかしてくれないかな?」
「むー。分かったよ……そこまで言うなら、そうしてあげるよ」
そう言いつつ、未だ彼女は不満そうにしているが、それでもこの譲歩策でなんとか納得してくれたようだった。
そんな会話をしている間に、僕らは彼女の家の前に到着していた。
「それじゃあ、由香。また明日ね」
そう言って別れようとした時だった。
「タ、タッちゃん……!」
彼女は僕の名前を呼んで、不安げな顔を向けてくる。
「ど、どうしたの?」
僕は突然のことで訊き返すことしかできなかった。
「あ、あのね……タッちゃん、無理、してない?」
「え……」
彼女のその言葉に僕は困惑した。
無理してないか。
そんな事をどうして尋ねてくるのか分からなかった。
「あのね……あの時、私、タッちゃんに泣きついちゃったけど、それでタッちゃんに重荷を背負わせて、苦しめるようなことになっちゃったんじゃないのかって……」
彼女はその不安を吐露する。
そんな彼女に僕は……。
「……バカだな、由香は」
「え……バカって、酷いよぅ……。私、本当に心配して……」
「だから、バカだって言ってるんだよ」
いじけるような表情をする彼女に僕は微笑みながら言った。
本当に、バカだ。
あんなに浩介の事で潰れそうになるまで傷ついて苦しんだのに、僕の事まで心配するなんて……。
君は優しすぎるんだよ。
その優しさは今の僕には毒だ。
寄りかかって、また君に色んなもの背負わせて、きっと苦しめてしまうから。
だから、僕はそんな彼女の優しさに寄りかかることなく、自分の足で立つことを選んだ。
「大丈夫だよ、由香。僕の事は何の心配もいらない。だから、由香は浩介の事でも心配してあげてよ」
「タッちゃん……」
僕の答えを聞いた彼女は少しだけ戸惑った表情をする。
それは「本当にそれでいいの?」と訊いているようだった。
けれど、それはほんのひと時のことで、彼女は真面目な表情になって、僕の目を見て言った。
「だったら、約束して?」
「なにを?」
「私やコウちゃんの為に自分を犠牲にするような事は絶対にしないって。約束、してくれる?」
「それは……」
彼女は返事を待つようにジッと僕の目を見てくる。
その目を見ていると、どんな嘘や誤魔化しもできないような気がした。
それなのに僕は笑って、
「分かった。約束するよ」
そんな心にもないことを言った。
彼女はそんな僕の返事を聞いて、信じてくれたのか、安心したように笑ってくれた。
そうして、僕達はその日は別れた。
これでいい。
彼女が笑ってくれるなら、浩介が立ち直ってくれるなら、僕はどんな辛い事だって耐えてみせる。
どんなことだってやってみせる。
どんな苦難だろうと、乗り越えてみせる。
それで例え、僕が壊れてしまっても、あの笑顔を守れるなら、あの笑顔を取り戻せるなら、僕は構わない。
ごめんね……。
嘘を吐いた事を心の中で彼女に謝りつつ、僕は決意を強くした。




