#9-4
その日、異様な雰囲気の中ではあったが、無事練習を終えた。
入部初日から色々と問題は起きたが、それでも、僕は自身の目標に向かって、その一歩を踏み出すができた。
そんな充足感の中、練習後更衣室で制服に着替えていると、僕の目にあるものが飛び込んできた。
それは『名倉』と書かれた名札が付いたロッカーだった。
浩介のロッカーだ。
着替え終わって次々と更衣室から出ていく部員たちを尻目に、僕は浩介のロッカーが気に掛かり、気づけば、更衣室には僕だけになっていた。
僕は誰もいない更衣室の中、浩介のロッカーに近づき、手を掛ける。
ロッカーには鍵は掛かっておらず、すんなりと扉は開いた。
僕は恐る恐るロッカーの中を覗く。その中には、背番号『1』のユニフォームと、グラブ、そして一冊のノートが置かれていた。
「このノートは……?」
僕は気が引ける思いがしながらも、そのノートを手に取り、ロッカーから取り出す。
ノートの表紙には『トレーニングメニュー』と書かれている。
どうやら、このノートは浩介がトレーニングために作ったトレーニングメニューノートのようだ。
僕はそのノートの表紙を捲り、中身を確認する。
「え……なんだこれ!?」
ノートに記載されていたメニュー内容を目にして、僕は度肝を抜かれた。
それは、とても高校生が行うものとは思えないほど高度な内容だった。
まずは筋力を高めるためのウエイトトレーニング。
トレーニング方法に加え、重量、回数、そして休憩時間が細かく書かれている。
次に、体幹トレーニング。
こちらも、そのトレーニング方法と回数などが詳細に記載されている。
さらに、ロードワーク。コースや距離が書かれている。
そして、最後に投げ込み。球種と投球数が決めてあった。
これらのトレーニングが一ヶ月分日単位で詳細に組まれている。
それだけならまだいいが、その日その日のカロリー摂取量まで決めてあった。
「こ、浩介の奴……野球部の練習以外にこんな事を……」
唖然とした。
浩介が努力家なのは分かっていたけれど、まさかここまでやっていたとは知らなかった。
僕の前ではこんな事を話題にしたこともなかったし、その素振りすらも見せたことがない。
分かっていた事だけれど、浩介は、青蘭高校野球部のエースとして、本当にチームを甲子園に連れて行こうとしていたのだ。
僕が浩介のノートを食い入るように見ていると、更衣室のドアがガチャリと開く音がした。
その音に驚いて振り返ると、そこには松井が立っていた。
松井は僕と目が合うと、しかめっ面になる。
けれど、その視線が僕の手の中にノートに向いた瞬間、彼は鬼の形相になった。
「てめぇ、何勝手に浩介のノートの見てんだ!」
松井はそう怒鳴りながら近づいてきて、僕の手からノートをかっさらう。
そして、激怒した表情のまま、僕の胸ぐらを掴んできた。
「これはな、お前みたいな半端もんが見ていいものじゃないんだよ!」
「う、ぐっ……!」
松井は怒りからか、僕の胸ぐらを掴む手に力が籠っている。
そのせいで、少しだけ苦しかった。
「アイツは、甲子園に行くために、甲子園で優勝するって目標のために必死に努力してたんだ! お前のように今迄フラフラしてたバカと違うんだよ! それなのに……それなのにお前は……!」
「あ、ぐ……や、やめ、ろ……」
やばい。
松井の奴、頭に血が上りすぎて力が自制できてない。
このままだと……。
「何してるの、二人とも!?」
危機感を感じたまさにその時、更衣室内に声が飛んだ。
その声の聞こえきた方を見ると、更衣室の出入り口に彼女が硬い表情をして立っていた。
「ゆ、由香ちゃん!?」
松井も声に振り返り、彼女の存在に気づくと、僕の胸ぐらを掴んでいた手から力が抜けていった。
だが、彼女は状況が把握できたのか、顔から血の気が引いていき、青い顔に変わる。
「ま、松井君……なに、してるの?」
「い、いや、これは……」
松井は彼女に問い詰められ、慌てて僕から手を離した。
けれど、彼女は松井をキッと睨み、見たこともないような怖い顔をしている。
そんな彼女は、声を掛ける事すらも憚られるような雰囲気を纏っている。
こんな彼女を見るのは、あの二人でのデート以来だ。
松井も彼女の雰囲気に完全に気圧されて、先程までの怒りなど何処か行ってしまったかのように、意気消沈している。
「松井君、どういうことか説明して」
「いや、これは、高杉が浩介のトレーニングメニューを勝手に見てたから……」
「トレーニングメニュー……?」
松井の言い訳に、彼女は彼が手に持っているノートに気づき、それに視線を移した。
すると、彼女は表情を少しだけ翳らせる。
「そっか……コウちゃんのロッカーにあったんだね、そのノート」
彼女はどこか懐かしむようにそう言って、松井が持つノートに手を伸ばす。
松井は抵抗することなく彼女にノートを渡した。
彼女はノートを取ると、暫しノートの表紙を見つめてから、顔を上げる。
その顔は何か決意したように僕には見えた。
彼女はノートを手にしたまま、松井に言った。
「松井君。このノート、タッちゃんに貸してあげてくれないかな?」
「え!?」
僕と松井は、彼女の唐突な提案に驚愕の声を上げる。
「な、何言ってんだよ、由香ちゃん! コイツに浩介のノートを貸すなんて、出来るわけないじゃないか!」
松井は彼女の提案を全力で拒否した。
それが当然の反応だと僕は思った。
「松井君のコウちゃんへの思いも、タッちゃんに怒る訳も分かるよ。だけどね……」
「ダメだ! ダメだダメだ! いくら由香ちゃんの頼みでも、それだけは絶対にダメだ! こんな、ちょっと怪我したくらいで野球を投げ出すような奴に、そんな半端な奴に浩介のノートを貸すなんて絶対に嫌だ! 由香ちゃんは分かってないんだよ。どうせコイツは浩介がいなくなった今ならエースになれるとでも思って、野球部に入ってきたに決まってる!」
松井は僕に対しての嫌悪をこれでもかと言葉にして彼女に伝える。
それは、半分は事実で、もう半分は事実と反したものだ。
松井の言う事には反論したい気持ちはあったけれど、そう思われていても仕方ないと僕は思って、反論しなかった。
けれど、彼女は違っていた。
「違うよ!」
彼女は僕の心の声を代弁するように声を上げる。
その声は聞いたこともないほど、大きな声だった。
「違うんだよ! タッちゃんは――」
「由香!」
まずいと思って、僕は彼女の名前を叫んだ。
そのおかげで彼女の言葉は途中で止まってくれた。
「で、でも、タッちゃん!」
「いいんだ、由香。僕は気にしてないから。だから……」
「その先は言わないでくれ」と僕は彼女に目で伝える。
すると、彼女は悔しそうに唇を噛んだ。
これでいい。
僕は誤解されたままでも別に構わない。
どんなに取り繕ったって、僕のしていることは、僕自身の夢に近づく行為に他ならない。
だから、どんな説明をしたところで、きっと当事者でない他人には分からないだろう。
そう思って、諦めていた。
けれど、僕は間違っていたんだ。
それは僕の自己満足で、周りを、彼女を傷つけていることだって分かってなかった。
次の瞬間、彼女が涙目になって、叫ぶまでは。
「でも……それでも、私は嫌だよ! タッちゃんが周りから誤解されたままなんて絶対に嫌だよ……!」
彼女は必死になって訴えていた。
その目には光るものがある。
この時になって、漸く僕は自分の犯した間違いに気づいた。
もう泣かせないと、彼女には悲しい涙は流させないと誓ったはずなのに、僕はまた彼女の気持ちも考えず、自分勝手な意地だけで彼女を傷つけてしまった。
「おい……誤解って、何のことだよ?」
松井は事態が分からず、それでもその重大性だけには気づいたのか、真剣な顔で僕に尋ねてくる。
そうなって、僕は漸く松井にも本当の事を話すに気になれた。
「由香……ごめんね。話すから。僕からちゃんと。だから、泣かないで」
「……う、うん」
なるべく優しく語り掛けるように言うと、彼女は涙を袖で拭いて、少しだけ微笑んだ。
その目はまだ赤かったが、もう涙を流してはいなかった。
「話すよ、松井。お前にだけには、僕が野球部に入った本当の理由を話しておく」
「な、なんだよ……本当の理由って……?」
松井は僕があまりにも真剣な顔をしていたからなのか、戸惑っていた。
けれど、これから話すことは、きっとそれ以上に彼にを戸惑わせるものだ。
だから、僕は構わず話した。
「僕は、浩介を野球部に戻したいって思ってる」
「え……」
僕の言葉に松井は面食らった表情で固まる。
それでも、僕は構わず話し続けた。
「けど、あいつはいま、自分の置かれている状況に絶望して、前に踏み出せなくなってる。左足を失って、前みたいに野球ができなくなってしまった恐れで、前に踏み出す勇気が持てなくなってしまっているんだ。だから、僕は浩介に見せてやりたい。どんなハンディがあったって、夢は追い続ければ、叶うもんなんだって。それを証明してやりたいんだ。この左腕で」
それが、僕が野球部に入って、エースピッチャーになると決意した本当の理由だった。
あの時、浩介を立ち直らせるには、それしかないと思った。
どんなハンディを抱えていても、全力でプレーできなくても、それでも人は努力でそれを補えるんだってところを浩介に見せてやれば、きっと浩介だって……。
僕の話を聞き終えた松井は、何を思っているのか、暫く俯いていた。
「ま、松井、くん?」
彼女はそんな松井を心配してか、不安そうに彼に声を掛ける。
すると、松井はバッと顔を上げた。
「分かった。そのノートは高杉に預けておく」
「え……」
それは僕からしてみれば意外な言葉だった。
どんな事を話しても、松井は信じてくれないと思っていたから。
「か、勘違いするなよ! ゆ、由香ちゃんがお前を信じてるから、俺も信じてやるってだけだ。じゃなきゃ、お前の話なんか信じてやるもんか!」
松井は恥ずかしそうに顔を逸らしながら言う。
その言葉はとてもぶっきらぼうだったけど、僕には嬉しい言葉だった。
「ありがとう……松井」
ただ嬉しくて、僕は素直に松井にお礼を言っていた。
でも、松井の方は素直なんかにならず、
「ふ、ふん! お前にお礼を言われる筋合いなんてないね! じゃあ、俺は帰るけど、戸締り忘れんなよ、新人! あと、もう遅いからちゃんと由香ちゃんを送って行けよ! 分かったな、バカ新人!」
そんな風に口を荒らして更衣室から出て行った。
僕と由香は、そんな松井の姿を見送りながら微笑み合った。




