#9-2
その部員は小太りな体格で、とても打って走るというタイプには見えない選手だった。
僕は彼の事も知っている。
彼の名前は松井祥太郎。
浩介と一年の頃からバッテリーを組んできたキャッチャーだ。
その松井は顔を真っ赤にして、今にも殴り掛かってきそうな勢いで僕へとにじり寄り、吊り上がった目で僕を睨んだ。
「エースピッチャーとして、だと!? ふざけたことぬかしてんじゃねぇよ!」
松井は怒鳴ると同時に右手を伸ばし、僕の胸ぐらを掴む。
「てめぇ、自分が何言ってんのか分かってるのか!」
「……ああ、もちろんだよ」
怒る松井の目を真っ直ぐ見ながら、僕は平然とした態度で答える。
「て、てめぇ……!」
僕の態度が気に入らないのか、松井は左手を握り拳にして振り上げた。
「待って、松井く――」
松井の暴挙を止めようと彼女が声を上げようとしたが、僕はそれを目で制した。
彼女はとても不安げな表情をしたが、僕の気持ちを察して、もう声を上げるようなことはしなかった。
「やめろ、松井!」
松井が拳を僕に振るおうとした瞬間、一人の部員が声を上げて、松井の後ろから振るおうとした腕を掴む。
それを皮切りに、数人の部員が集まってきて、僕から松井を引き剝がした。
「止めないでください、キャプテン! コイツは……コイツだけは許せません!」
最初に松井の拳を止めた部員を松井はキャプテンと呼んだ。
どうやら、彼が現在の野球部の主将のようだ。
「落ち着け、松井。お前の気持ちは分からなくもないが、暴力はダメだ」
キャプテンは落ち着いた声で松井を諫めようとする。
けれど、松井の怒りは収まらない。
「けど……コイツ、エースピッチャーだなんてふざけたことを。浩介はまだ……アイツがうちのエースなのに!」
松井はその思いの丈をぶつける。
けれど、キャプテンはそれに答えなかった。
いや、答えようがなかったのだろう。
キャプテンだけじゃない。
他の部員も松井の叫びに暗い顔をして、黙ってしまっている。
それだけで、僕は分かってしまった。
浩介が野球部にとってどれだけ重要な存在であったのかを。
そして、野球部の誰もが、浩介の復帰はないと諦めてしまっていることを。
「おい、お前!」
松井は僕をギロリと睨んで、声を荒げる。
「俺は認めねぇぞ。お前の入部なんて絶対に認めない!」
怒りが収まらない松井は皆の前で僕を拒絶する言葉を吐き捨てるように言った。
そして、それは拒絶の言葉だけに留まらなかった。
「それに俺は知ってるぞ。お前はもうピッチャーはできねぇ! 中学の時に肩を故障して、ピッチャーとして再起不能だってな! そんな奴がエースピッチャーだなんて、どの口で言いやがる!」
松井の言葉に静まり返っていた部員たちが再び騒めきだす。
僕の事を知らない人間は「マジで?」と、僕の事を知っている人間は「そうだ、その通りだ」と、口々に言い、冷ややか目を僕に向けてくる。
松井の言う通り、僕の右肩は再起不能だ。
野手ならともかく、ピッチャーなんて出来る状態にない。
けれど、だからこそ、僕はピッチャーになることを決めたんだ。
「だったら、証明してやるよ。僕が投げられるってことを。それを証明して見せたら、入部を認めてくれるか?」
僕は松井の言葉を受けて、そう提案を持ちかけた。
「証明してやる、だと? いいぜ、やってみろよ! けど、ただ投げられるところを見せただけじゃあ、認められねぇ!」
「……どうしろって言うのさ?」
「うちの四番を三振に取って見せたら、入部を認めてやる。どうだ? お前にそれができるか?」
松井は僕がその四番打者を三振に取れるわけがないと思っているのか、不敵な笑みを零す。
「おい、松井! お前、何を勝手に決めてるんだ!」
キャプテンは勝手に話を進めようとする松井を止めようと僕と松井の間に割って入ってくる。
けれど、僕はそれを手で制した。
「た、高杉……?」
「僕は大丈夫です、キャプテン。それで皆が納得するなら、僕は構いません」
僕はキャプテンに向かって言い切る。
それにキャプテンは顔をしかめた。
入部初日で生意気な事を言っているのは分かっている。
それでも、ここでやらないときっと誰もが僕を認めてくれない。
それに、こんな所で躓いていたら、僕のやろうとしている事はきっと成し遂げられない。
そんな僕の覚悟が伝わったのか、キャプテンはややあってから溜息を吐いた。
「まったく……仕方ないな。監督、構いませんね?」
キャプテンは監督の許可を得ようと尋ねる。
すると、監督は何も言わず黙って頷いた。
「見ての通りだ。松井の言う条件での入部試験を許可する。だが、その結果に関しては、恨み言は一切言わず、受け入れること。もちろん、仕切り直しもなしだ。いいな?」
僕と松井はキャプテンの言葉に頷く。
「それで? その四番ってのは誰なんだ?」
僕は松井に向けて尋ねる。
けれど、それに答えたのは、キャプテンだった。
「僕だよ、高杉」
やや申し訳なさそうにキャプテンは僕に向けて言った。
「そうですか……宜しくお願いします」
「ああ、よろしく。言っておくが、手は抜かない。こっちとしても四番打者としてのプライドがある。手加減はできないよ?」
「もちろんです。こっちも全力で行かせて頂きます」
僕とキャプテンは微笑み合いながら握手を交わす。
そして、僕はボールとグラブを持ってマウンドに向かった。
「おい、松井。お前が高杉の球を受けろ」
「え! なんで俺が!?」
キャプテンが言い放った命令に松井は嫌がる素振りを隠しもせず、仰天している。
「誰のせいでこうなったと思っているんだ! お前が言い出したことなんだから、それぐらいはやれ!」
「う……わ、分かりました……」
キャプテンの言葉からは、拒否は認めないというハッキリとした意思が感じられる。
それに松井も拒むことが出来なかった。
松井は渋々ながら、キャッチャー用のプロテクターを付けていく。
その頃、僕はマウンドに上がっていた。
久々に上がるマウンド。
スパイクで踏みしめるその土の感触は懐かしい。
懐かしいのだけれど、何故かここに自分が立っているのことが自然なように思えた。
僕がそんな感慨に耽っている内に、松井はキャッチャーマスクを被り、所定の位置で座る。
一方、バッターボックスにはキャプテンがヘルメットを着けて立っていた。
僕は二人が所定の位置に着いた事を確認すると、グラブを右手に嵌め、左手でボールを握る。
その途端、僕とキャプテンの勝負をグラウンドの脇で見守る部員たちの中からどよめきが起きた。
そして、座っていたはずの松井は、マスクを上げて立ち上がる。
その顔は、また殴り掛かってきそうなほど怒っていた。
「て、てめぇ……舐めてんのか! 右利きの癖に左で投げようなんて、ふざけてんじゃねぇ! やる気あんのか!」
松井の怒りは尤もだ。
中学の頃の僕を知っている奴なら、僕が右投げの投手であることは誰でも知っていることだ。
だというのに、真剣勝負を謳っておきながら、利き腕でない方でボールを投げようなんて、この勝負を舐めていると思われても仕方ない。
けれど、右肩を使えない僕がピッチャーに返り咲くにはこれしかないのだ。
「煩いな。そんなの投げてみなきゃ分からないだろ。いいから、さっさと座れよ」
「くっ……!」
松井は忌々しそうに僕を睨みながらマスクを被り直し、座った。
漸くこれで準備が整った。
僕の復帰後初の真剣勝負が、これから始まる。




