#9-1
四月。
浩介と約束して、一ヶ月が経った。
高校二年生の春、僕は、一度はもう着ることのないと思っていたユニフォームに袖を通す。
あの頃とは違うものだが、それでも懐かしいものを感じる。
僕は靴をスパイクに履き替え、うちの高校のカラーである青い帽子を被る。
そして、最後にグラブを持って、更衣室から外に出た。
外に出ると、僕は迷うことなく真っ直ぐグラウンドに向かう。
グラウンドに着くと、既に声が飛び交っており、そこには僕と同じユニフォームに身を包んだ多くの部員が白球を追いかけていた。
僕はそんな彼らを見つつ、グラウンドの脇に立って同じく彼らをじっと見つめている男性へと歩いていく。
男性は、がたいのいい体にスポーツウェアを着込み、その見た目は40代とは思えないほど若々しい。
僕が近づいていくと、男性は僕に気づき、ニッコリと微笑んだ。
「やあ、来たね」
「はい。今日から宜しくお願いします、監督」
「うん、よろしく」
僕が挨拶すると、男性も挨拶を返し、またニッコリと微笑んだ。
相変わらず、教壇に立っている時と同様、優しそうな人だ。
この優しげな男性の名前は相沢祐介さん。
青蘭高校の数学教師で野球部の監督でもある。
青蘭高校は進学校で、そこまで部活動には力を入れていない。
だから、どの部でも外部から監督やコーチを招くことはなく、教師が兼任していることがほとんどだ。
野球部もその例外ではない。
そして、教師が兼任している場合、大抵その教師は顧問となったスポーツについて詳しくない。
未経験で、知識もゼロということが往々としてあるらしいのだ。
けれど、相沢監督は違う。
野球のことも知っているし、技術も持っている。
それは、以前、野球部の練習を覗き見た時に知っていたし、浩介からも聞かされていた。
そう言った意味では、うちの野球部は弱小でありながら、恵まれていると言ってもいい。
けど、まあ、知識と技術を持っているからと言って、名将であるかは別なのだが……。
「よし。皆、集まってくれ!」
相沢監督は練習している部員に号令をかける。
すると、部員たちは練習を中断し、監督のもとに集まって、横に並んで整列した。
その一番端には体操着を着た彼女の姿があった。
僕は相沢監督の横で、両手の指先を伸ばして直立不動の姿勢を取る。
監督の前に並んだ部員たちはチラチラと僕の方を見てくる。
その目は好奇なもの、訝るもの、不思議がるものと様々だ。そんな中で、彼女はニコリと微笑んでいた。
相沢監督は一歩前に歩み出て、一度咳払いをした後に、口を開いた。
「さて、新入生が入ってくる前だけど、皆に新入部員を紹介したいと思う。知っている者もいると思うが、私の隣にいる二年生の高杉達也くんだ」
その瞬間、部員たちがざわざわと騒ぎ始めた。
「なんで二年生がいまさら?」
「高杉、達也……?」
「どこかで聞いた名前だな?」
「嘘だろ……?」
「なんでアイツが……」
様々な声が聞えてくる。
当たり前の反応だ。
二年生の僕が入部してくるなんて、おかしな事と思うだろうし、僕の経歴を知っている人間ならば、それがどれだけあり得ない事か分かるはずだ。
けれど、僕はそのどの声も気にならなかった。
なんせ、僕はこれからそれ以上にあり得ない事をするつもりでいるんだから。
浩介と話したあの日、あの後、僕は彼女に電話して、野球部の顧問と二人で話がしたいと伝えた。
彼女にそのパイプ役をお願いしたのだ。
もちろん、そんな事をお願いした理由は、野球部に入るためだ。
けれど、ただ野球部に入るためだけではない。
部員たちの騒めきは収まる気配はなく続いている。
「静かに!」
相沢監督が静まるように声を出す。
すると、ピタッと部員たちの声が止んだ。
それは監督の下でしっかりと統率が取れている証拠だ。
「高杉くん、自己紹介を」
監督は僕に部員たちに対して挨拶をするように促す。
僕は頷いてから、前に歩み出る。
そして、整列をする部員たちを見渡し、最後に一番端にいる彼女と目があった。
彼女は僕と目が合うと力強く頷いて見せてくれる。
それだけで、これから僕がすることに勇気が持てた。
僕はしっかりと前を見据え、そして、息を大きく吸い込んでから、一気に声にして吐き出した。
「二年の高杉達也です。これから皆さんとチームメイトにならせて頂きます。途中入部ということで、戸惑われているかもしれませんが、中学までは野球をやっていたので、経験はあります。諸事情で今迄野球から遠ざかっていましたが、改めて野球を再開したいと思い、入部させて頂きました。どうか、これから宜しくお願います。それと、入部にするにあたって皆さんに僕から言っておきたいことがあります」
そこで僕は一度言葉を切る。
これから宣言することは、きっと目の前にいる部員たちには受け入れ難いものだろう。
もしかすると、快く思わない者もいるかもしれない。
それでも僕は言う。
それが僕の決意であり、目指すべき目標なのだから。
「僕はエースピッチャーとして青蘭高校野球部を今年の夏の大会で甲子園に連れていきたいと思っています!」
その言葉を僕は声を大にして言い切った。
その瞬間、目の前の部員たちは再び騒めき出した。
「こ、甲子園、だって!?」
「何言ってんだよ、こいつ……」
「本気か?」
「いや、それよりもエースピッチャーって……」
聞えてくる声は予想通りのものだった。
中には、僕の事を冷ややかな目で見てくる者もいる。
徐々に騒めきの声は大きく、そして、多くなっていく。
けれど、今度はそれを相沢監督は止めることをしなかった。
監督が何も言わなかったのは、僕の演説に呆気に取られていたわけでも、部員たちのように驚いたり呆れたりしているわけでもない。
そうするように前もって僕がお願いしていたからだ。
僕がした決意表明、それはいまの野球部にとっては禁句とも言えるものだ。
何故なら、僕が口にした言葉はきっとそのまま浩介が以前に口にした言葉であり、浩介を想起させるものだから。
だから、僕はどんな反発も受け入れる覚悟でいた。
そして、案の定、それは起きた。
「ふざけんな!」
騒めく部員の中、ひときわ大きな声が飛んだ。
そして、ユニフォーム姿の一人の部員が列からはみ出して、僕の方へと歩み寄ってきた。