#8-5
喫茶店を出た僕はその足で浩介の家に向かった。
浩介の家に着くと、僕はおばさんに浩介と話がしたいと素直に告げた。
すると、おばさんは一瞬当惑した様子を見せたけれど、快諾してくれた。
僕は家に上がり込むと、そのまま浩介の部屋がある二階に上がる。
浩介の部屋の前まで来て、僕は躊躇うことなくドアを二度ノックした。
けれど、部屋の中にいるはずの浩介からは返事がない。
「浩介、僕だ。達也だ。中にいるんだろ? 入るよ」
僕はそう言ってから、ドアノブを回した。
けれど、鍵が掛かっていて、ドアは開かない。
「なあ、鍵、開けてくれないか?」
鍵を開けるように呼び掛けるが、やはり返事はないし、鍵が開く気配もない。
部屋の中に浩介はいるはずのなのに、まるで誰もいないようだ。
けど、確かにこの中にはいるんだ、浩介が。
「おい、浩介。返事ぐらいしたらどうだ? 幼馴染が訪ねてきてるんだから、声ぐらい聞かせろよ。それとも、寝てるのか?」
「…………せぇ」
くぐもった声がドア越しに聞こえてくる。
何を言っているのかはっきりと聞えなかっだが、それは確かに浩介の声だった。
「なんだ、起きてるじゃないか。だったら、早くここを――」
「うるせぇって言ってんだよ!」
浩介の突然の怒鳴り声に僕の声は遮られた。
「今更、俺なんかの所に何しに来やがった!」
「……今日はお前と話をするとために来たんだ」
僕は素直に目的を告げる。
浩介と話をする。
たったそれだけの事が僕の目的だった。
以前ならなんて事のない、普通の事だ。
けれど……。
「話? 俺と? ハッ、俺はお前と話すことなんてねぇよ! だから、さっさと帰れ! もう俺に構うな!」
「……ッ!」
吐き捨てるような言葉にチクリと胸が痛む。
分かっていた事だ。
こうやって拒絶されるのは、予想できていた。
それでも、こう明確に拒絶されると堪えるものがある。
けれど、この程度で逃げ出すわけにはいかない。
僕はもう二度と逃げないと決めたんだ。
「分かった。じゃあ、中に入れてくれなくてもいいし、話をしてくれとも言わない。だから、これから話すことは僕の独り言だ。なんだったら、聞き流してくれても構わない」
「お、お前は……!」
ドア越しでも、ハッキリと浩介の怒りが分かる。
それ程、今の浩介は感情を剥き出しにして、すべてを拒絶していた。
それでも、僕は話し始める。
僕自身の思いを、心を。
「浩介。僕はね、右肩を怪我して、もうピッチャーが出来なくなったって知った時、目指していたものを失って、目の前が真っ暗になったんだ。真っ暗で、何も見えなくて、聞えてくるのは嫌な言葉ばかりで、どうして自分ばかりがって呪った。呪って、全部周りのせいにして、諦めたんだ。でもさ、本当は違ったんだ。僕が見ようと、聞こうとしてなかっただけで、暗闇の中、僕に手を差し伸べてくれる人がいた。僕に声を掛け続けてくれる人がいた。僕を助けようとしてくる人達がいたんだ。自分の殻に籠ってた僕はそれに気づけなかった。でも、それに気づかせてくれた人がいた。誰だか分かるか?」
ドアに向けて尋ねるが返答はない。
当たり前だ。
これは僕の独り言なんだから。
だから、僕は返答を待たず、その独り言を続けた。
「由香と……お前だよ、浩介。お前がずっと僕を気に掛けてくれてたから、僕は気づけた。僕自身が本当はどうしたかったのかを。お前がいたから、僕は野球をもう一度やろうって思えたんだ。怪我で右肩が使えなくても、前のようにプレイできなくても、それでも諦めなかったら夢は追い続けられるって気づけたんだ」
そう、例え、彼女の存在があったとしても、浩介がいなければ、僕は野球をもう一度やろうなんて考えもしなかっただろう。
きっと、夢を諦め、ただ惰性で毎日を送る日々だった。
浩介が僕を見守り続けてくれたから、僕に声を掛け続けてくれていたから、僕はもう一度歩き出すことができたんだ。
だから……。
「浩介。僕はね、お前にも諦めて欲しくない。自分の夢を、諦めて欲しくないんだ」
その思いを口にする。
これを浩介がどんな気持ちで聞いているか分からない。
以前、病室で僕は浩介に、彼女との、僕との約束はどうするんだと尋ねた。
いま思えば、それは浩介の事を何も考えていない自分勝手な言葉だ。
だけど、今回は違う。
僕の言ったことは、浩介の思いでも、願いでもなく、自分の思いだけど、それでも、浩介だってきっと……。
「……なんでだよ?」
「え?」
不意にドアの向こうから浩介の声が聞えてきた。
「なんでお前は俺に構うんだよ! なんで……なんでこんな俺なんかを……」
何故と浩介は問うてくる。
何故、何もかも失くした自分なんかに構うのかと。
でも、そんな事、浩介だって分かっているはずなんだ。
「そんなの決まってるだろ。お前は僕の幼馴染で、同じ夢を持った親友で、そして、同じ人を好きになったライバルだからだ。だから、お前に何を言われようと、僕はお前に構い続けるよ」
「お前……」
簡単な事だ。
幼馴染が、親友が、ライバルが苦しんでいるなら、手を差し伸べる。
だって、幼馴染も親友もライバルも、そいつの事が好きじゃなきゃ続けられない。
そして、好きな奴には笑っていて欲しい。
前を向いていて欲しい。
そういう姿をずっと見ていたいと思うのが当たり前の事だ。
難しいことなんてない。
ただそれだけなんだ。
「俺は……」
ドア越しからこれまでよりハッキリと声が聞えてくる。
浩介の声が。
「俺だって……けど、どうしようもないんだ! 俺とお前じゃ違う。こんな体で夢なんて追い続けられるわけがない! 俺は……俺だって……」
俺だって。
そう浩介は繰り返した。
悔しそうな声で。
その言葉だけで十分だった。
それだけ聞ければ、浩介が何を望んでいるのか分かった。
僕はやっと浩介の気持ちに触れられたんだ。
浩介は夢を諦めきれていない。
それは裏を返せば、夢をまだ諦めていないということだ。
ただ、自分の置かれている状況から、夢を追い続ける勇気が持てないだけだ。
追い続けても苦しいだけで、叶いっこないって思えてしまうから。
なら、僕が浩介にしてやれることなんて、一つしかない。
それが僕にしかできない唯一のことだと知って、僕は決意した。
「分かった。だったら――だったら、僕が証明してやるよ。夢は諦めなければ、追い続けていけるものなんだって。諦めさえしなければ、叶うんだってことを」
「お、お前……一体何を……?」
「さて、それは後のお楽しみってことにしておいてよ。でも、これだけは約束するよ。僕はさっき言ったことを絶対に証明してみせる。僕自身の手でね」
僕は浩介にそれだけを伝え、ドアの前から離れた。
この日、僕はある決断した。
その決断は、きっと誰から見ても無謀と思えるものかもしれない。
けれど、僕はそれを実行に移すと決めた。それが、浩介が立ち直るきっかけになると信じて。
そして、その手始めに、僕は彼女にある頼み事をするため、電話を入れたのだった。




