#8ー4
彼女を、そして浩介を支えると決めた。
けれど、それは簡単な話ではない。
そもそも、どうすれば浩介が立ち直ってくれるのか、僕にも分からない。
僕はその答えを求め、ある人に助けを請うことにした。
僕は扉に手をかけ、押し開ける。
カランコロンという鐘の音を聞きながら、僕は店内に入った。
鐘の音は店内にも響いていたから、気づいているはずだが、相変わらずお客を出迎える声は聞こえてこない。
当たり前だけど、他にお客もいなかった。
僕はカウンターの中で新聞を広げている店主の前に座る。
すると、店主は新聞を下ろして、顔を見せた。
「やあ、マスター」
僕は気さくに挨拶をする。
すると、『喫茶カープ』のマスターは辺りを見渡した後、顔をしかめた。
「なんだ、今日はお前一人か?」
「そうだけど……何か、問題ある?」
「……いや、珈琲、ブレンドでいいんだよな?」
「そ、そうだけど――」
マスターは、僕が返事をする前に立ち上がり、さっさと珈琲の準備に取り掛かってしまった。
もしかすると、マスターはもう僕がここに来た理由が分かっているのかもしれない。
僕がここに一人で来る時は何かしら悩みを抱えている時だと、以前マスター自身が言っていた。
もう、察していても不思議ではない。
「ほら、ブレンド珈琲だ」
マスターは僕の前に出来立ての珈琲が入ったカップを置く。
僕はそのカップの取っ手を持って、口に運んだ。
「……うん、今日もおいしいよ」
それはお世辞ではなく、本当にそう思っての言葉だった。
けれど、マスターはそれが聞こえなかったように無視する。
いつもなら、ここで「当たり前だ」とか言ってきそうなものだ。
なんだか今日のマスターはいつも以上に無愛想というか、無口だ。もしかして、機嫌が悪いのだろうか?
そう思って、マスターの表情を覗き見た。
「――」
マスターの顔を見て、僕は息を飲んだ。
マスターは真面目な顔でじっと僕を見ていた。
けれど、その目は怒っているわけでも、何かを訴えようとしているわけでもない。
ただ、じっと僕を見ている。
「マ、マスター……あの……」
「オレはお前の都合のいい相談役じゃねぇ」
「え……」
先手を打つようにマスターから漏れた言葉は明らかに僕を突き放すものだった。
それに僕は愕然とする。
「だが、まあ、ガキが迷ったら導いてやるのも大人の仕事だ」
そう言って、マスターはニヤリと笑う。
そんな言葉とマスターの表情に、僕はほっと胸を撫でおろした。
「マ、マスター……驚かさないでよ……」
「バカ。さっき言ったことも本当の事だ。何かあったらオレに頼ればいいなんて思われても敵わん。少しは自分の頭で考えることも必要だって話だ。他人に出してもらった答えなんぞ、何の価値がある」
「う……」
マスターの言う事は的を射ている。
確かに僕は自分の力ではどうにもならないことだからと、マスターに頼ろうとしていた。
自分で出せない答えなら、他人に出してもらおうとしていた。
それでは意味がないとマスターは言っているのだ。
「ま、そういうわけだから、オレがしてやれることたぁ、テメェでその答えを出す手助け程度だ。それでいいなら、相談に乗ってやらんこともない」
「マスター……いつも、ありがとう。それと、気を遣わせてばかりで、ごめん」
「ふん。そう思うなら、さっさとテメェの事はテメェで解決できる一人前の男になるよう努力しやがれ」
「う、うん、そうだね」
そうだ。その通りなのだ。
マスターの言うように僕がしっかりしなくちゃいけない。
僕が彼女を支え、そして、浩介を立ち直らせなければいけないんだ。
いま、その思いが一層に強くなった。
「それで? 相談事ってのは、浩介の事だな?」
「……うん、そうなんだ」
「そうか……」
それまでの空気が嘘のように、僕とマスターの間に流れる空気が一気に重くなるのを感じる。
マスターもそれを感じ取ったのか、険しい顔つきになった。
「ひとまず話せ。お前が重い腰を上げたってこたぁ、そんだけの事が起きたって事だろ」
「うん……実は……」
僕はマスターに促されるまま、これまでにあった事を離した。
浩介が部屋に引き籠り、立ち直る気配がないこと。
そんな浩介を支えようとしていた彼女を浩介が拒絶してしまったこと。
そして、それを受けて、彼女も限界が来てしまったこと。
ついでに、自分がこれまでどれだけ自分勝手で馬鹿だったことかに気が付かされたことも付け加えた。
「なるほどな。それで、今度はテメェが浩介を支えようってわけか」
僕の話を聞き終えたマスターは深い溜め息と共にそう言った。
「うん……けど、どうしたら浩介が立ち直ってくれるのか分からなくて……」
「ま、そうだろうな。馬鹿なお前が、一人でいくら考えようが分かりっこねぇだろ」
「う……何もそこまで言わなくても……」
「あ? お前が自分で自分を馬鹿だって先に言ったんだろうが」
「それはそうだけど……」
そんなにストレートに言われてしまうと、正直、傷つく。
「ま、自分で自分を賢いって思ってる奴よりは、自分で馬鹿だと気づいてる奴の方が幾分かマシだがな」
僕ががっくりと肩を落としていると、マスターがそんな事を言ってきた。
「それ、フォローのつもりなの?」
「ふん、そんなじゃねぇ!」
マスターはプイッと顔を逸らす。
やっぱりフォローのつもりだったらしい。
幾分か棘はあるが、マスターらしい優しさだ。
その優しさがちょっぴり嬉しくて、僕は口元を緩ませる。
すると、マスターはコホンと一度咳ばらいをした後、真面目な顔に戻った。
「だが、いまの浩介を立ち直らせるのは一朝一夕に行くもんじゃねぇ。それを分かった上なんだろうな?」
「うん……覚悟はできてるよ」
僕はマスターの目を真っ直ぐに見据えながら答える。
そもそも、こんな事、半端な覚悟で言い出せるものでもない。
「愚問だったな。なら、後は何をすればいいかだが……正直言って、オレは当事者じゃねぇから分からん。オレはお前でも、浩介でもねぇからな」
「ちょ、ちょっと待ってよ! それじゃあ、相談してる意味がないじゃないか」
「バカ。オレが言ってるのは当事者同士にしか分からない事もあるってことだ。それが何よりも大切なんだよ」
「当事者同士にしか……? どういうこと?」
僕が尋ねると、マスターは溜息を吐いて、やれやれと頭を振る。
「お前、いま浩介がどういう気持ちでいるか分かるか? 落ち込んでるとか、悲しいとかそういう事じゃねぇぞ。もっと具体的な事だ。アイツがいま自分の置かれている状況をどう受け止めてるかとかだ」
「そ、それは……たぶん……」
浩介は彼女に自分は何もできないと語った。
それは浩介が自分自身をそのように捉えているということだろう。
僕はそれをマスターに話す。
すると、マスターは吐き捨ているように言い放った。
「お前はほんっと馬鹿だな。それは由香ちゃんから聞いた話だろ。お前が感じ取ったことじゃねぇ!」
「え……」
「言ったはずだ。当事者同士にしか分からないことがあるってな。お前自身が感じ取ったものがなけりゃあ意味がねぇんだ」
「僕自身が感じ取ったもの……」
「そうだ。お前は浩介が由香ちゃんに言ったことが本心だと思うか? それをアイツが本気で望んだと思うか?」
「それは……違うと、思う……」
きっと浩介は彼女に言ったことを本気で望んでいなかったと思う。
けれど、自分が置かれている状況に苦しくて、耐えられなくて、絶望してしまった結果、あんな言葉が出たに違いない。
「じゃあ、アイツが本当に望んでいることが何だか分かるか?」
「……」
僕は黙るしかなかった。
そもそも、それが分かっていれば、きっとこんなに悩むこともない。
「ふん、話にならねぇな。アイツが望んでいることを、どうしたいと思っているのか、どうなりたいと思っているのかも知らないで力になれるわけねぇだろ」
突き放すようなマスターの言葉が痛いほど胸に刺さる。
マスターの言う通りだ。
浩介が何を望んでいるかも知りもしないで、あいつを支えるなんて出来るわけがなかった。
「いいか、達也。浩介が本当に望んでいることを知るには、アイツと言葉を交わすだけじゃダメだ。アイツはいま暗闇の中にいる。どこに行けばいいのかも分からないで、心を閉ざしてる。そんな奴に言葉だけじゃ何も届かない。アイツの本心を引き出すには、心まで通わさないとな」
「心を……。できるかな、僕に……そんなこと……」
いまの浩介と心を通わせるなんて、本当にできるだろうか。僕みたいな馬鹿で自分勝手な人間に……。
「オレはお前ほどアイツの気持ちを分かってやれる奴はいねぇと思うがな」
「どうして、そう思うの?」
「そりゃあ、お前が、浩介の幼馴染で、浩介と同じで野球好きで、そして、一度は野球を諦めた事のある奴だからだ」
幼馴染。
野球好き。
一度は野球を諦めた事がある。
それらは僕と浩介を今迄結びつけてきたものだ。
「それと、もう一つ。お前達は同じ女の子を好きになった者同士だ。これほどお互いの事が分かる間柄なんてないとオレは思うがな」
マスターの言葉を聞いて、目から鱗が落ちるようだった。
「ああ……そっか。そうだったね」
こんな事に今迄気づかなかったなんて、本当に僕は馬鹿だ。
これは僕にしかできない事だったのに。
漸く、僕は自分のすべきことが分かった。
「ありがとう、マスター!」
僕は決意を胸に立ち上がる。
「行くのか?」
「うん。浩介に会ってくるよ」
「そうか……ま、せいぜい頑張れや」
それだけ言って、マスターは僕がここを訪れた時と同じように、新聞を顔の前に広げた。
僕はマスターからの激励を有難くいただいて、店を出る。
そこに、もう迷いなんてなかった。




