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ずっと君を見ていたい  作者: みどー
第二部 彼女と幼馴染と野球と
33/52

#8-2


「かあさーん!」


 家に入ると同時に母親を呼んだ。

 だが、返事がない。

 僕は彼女を玄関に残し、家に上がって母親の姿を探す。

 けれど、母親はどこにもいなかった。


「出掛けてるのか……?」


 だとしても、家の鍵は開いていた。

 なんて不用心なんだ……。


「わるい、由香。ちょっとそこで待ってて」


 僕は廊下に顔だけ出して、玄関にいる彼女に言う。

 返事はなかったが、姿は見えていたので、僕はそのまま彼女の着替えやタオルを取りに行った。

 着替えについては、母親のものを借りることにした。

 後で母親からはあれこれと言われそうだが、うちには女性が母親しかいないし、ちゃんと事情を説明すれば問題ないだろう。


「あっと、その前にお風呂に入れた方がいいか」


 もう春が近いとはいえ、雨が降れば真冬並みに寒い。

 彼女がどれだけあの雨の中にいたのかは分からないが、濡れた体をタオルで拭くだけでは風邪を引き兼ねない。

 せめて、温かいお湯にでも浸かってもらわないと。


 僕はお風呂場に行って、浴槽にお湯を張る準備をしてから、彼女のもとに戻った。


「これで頭を拭いて」


 彼女にタオルを差し出すと、彼女はおずおずとそれを受け取り、髪を拭きだす。

 彼女が髪を拭いている間に、僕はこれからどうすべきか考える

 お風呂の湯が入り切るには、まだ十分くらいは掛かるだろう。

 けれど、幸いにも我が家のお風呂はシャワーの使用と湯船のお湯張りは同時にできる。

 彼女には、浴槽にお湯が入り切るまでシャワーで勘弁してもらおう。


 彼女が髪を拭き終わると、僕はお風呂場の脱衣所に彼女を連れて行く。


「もうすぐ、湯が貯まる思うから、ひとまずシャワーを浴びてて。それから、濡れた服は、そこの洗濯機に入れておいてくれればいいから。それから、これは着替えね。後、シャワーの使い方は……」


 僕は手早く説明していく。

 彼女はそれを黙って聞いていた。


「えっと……何か分からないことは、ある?」


「……ううん。大丈夫」


「そっか。じゃあ、体をしっかりと温めてから出ること。いいね?」


「……うん」


 僕は彼女の返事を聞いてから、脱衣所から出ようした。


「あの、タッちゃん!」


 脱衣所から出ようとすると、彼女に呼び止められた。


「どうしたの? やっぱり、何か分からない事がある?」


「ううん、そうじゃなくて……あ、あのね、ありがとう。それと……ごめんね」


 ありがとう。

 そのお礼の言葉は、きっといまの状況についてだろう。

 だけど、ごめんねという言葉は、その謝罪は、何に対してのことなのか。

 彼女は家の前で僕と会ってから謝ってばかりだ。

 彼女が受けている責め苦が何か、それは大体予想がつく。

 けど、少なくとも、それは彼女が負うようなものではない。

 だから僕は……。


「ん。お礼だけは丁重に受け取っておくよ」


「え……」


「由香は謝らないといけないような事は何もしてないよ。だから、謝罪は受け取らない」


「タッちゃん……」


「お風呂、ゆっくりね」


 僕は今度こそ脱衣所から出る。

 僕はなんて不甲斐ない奴なんだろう。

 出来ることなら、彼女が抱えている苦しみを取り除いてあげたい。

 だけど、いま彼女に掛けてあげられる言葉は、あれで精一杯だった。

 それだけに、僕は自分が不甲斐なくて、情けない。



 彼女がお風呂から出るまで、僕は居間に座って母親の帰りを待った。

 けれど、結局母親は彼女がお風呂から上がるようになっても帰って来なかった。


「タッちゃん……」


 居間でひたすら待っていると、背後から呼び掛けられる。

 振り向くと、そこには母親の衣服に身を包んだ彼女が立っていた。


「お風呂、どうだった?」


「とっても温かったよ。ありがとう」


 彼女は弱々しい微笑みとともに僕にお礼を言って、隣に座る。


 どうやら、お風呂に入れたのは正解だったようだ。

 あの雨の中にいた時は、錯乱していたし、顔色も悪かった。

 だけど、いまは落ち着きを取り戻しているし、顔にも赤みがさしている。


「でも……服、ちょっと大きいかな……」


 そう言って、彼女は恥ずかしそうにする。

 言われて気づいたけど、彼女と僕の母親では、体格が大きく異なるのだろう。

 襟元はダボダボで弛みきっているし、裾も長くて、手足が隠れている。


「ご、ごめんね。うち、女は母さんしかいないから、それぐらしかなくて。服は洗って乾燥機に掛けてるから、乾くまでそれで辛抱してもらっていいかな?」


「うん、大丈夫だよ。それより、おばさんは? 服借りてるし、お礼を言っておきたいんだけど……」


「あー……ごめん。まだ帰ってきてないんだ」


「そ、そうなんだ……」


「う、うん」


 母親がいない事を伝えると、彼女が突然ぎこちなくなるのを感じた。

 僕もそれにつられてしまう。

 彼女がぎこちなくなった理由は、鈍いと多方面から言われ続けている僕でも想像がつく。

 年頃の男女が一つ屋根の下、二人っきりでいるのだ。

 ぎこちなくならない方がおかしい。


 正直、この瞬間だけは、流石の僕も意識してしまっていた。

 けれど、二人っきりというワードが頭に浮かんだ瞬間、その先に浩介の顔がちらついて、急速に僕からその熱を引かせていった。

 そんな僕に彼女も気づいたのだろう。

 僕と目が合った瞬間、彼女も少しだけ悲しそうな顔になった。

 そうなると、それまでとは違う重苦しい空気が僕と彼女の間で流れ始め、自然と僕も彼女も押し黙ってしまう。


 だけど、そのままではダメだということも僕には分かっていた。

 僕にはどうして彼女から訊いておきたいことがある。


「……ねえ、由香」


「……ッ!」


 僕が呼び掛けると彼女はビクリと肩を震わせる。

 きっとこれから僕が何を問いかけようとしているのか分かったのだろう。

 だけど、訊いておかないといけない。

 あんな彼女を僕は今迄見たことがなかった。

 だから、その理由をちゃんと聞いておかないと後悔すると思った。


「無理に話そうとしなくてもいいよ。だけど、出来たら聞かせて欲しいんだ。どうして、雨の中、傘も差さずにいたの?」


「…………」


 僕の問いかけに彼女は表情をさらに暗くして、黙ってしまう。

 それだけで、余程辛いことがあったのだと分かった。


 辛いことを無理矢理話させてならない。

 そんな事をすれば、彼女が壊れてしまうと思った。

 それほど、今の彼女は触れただけで壊れてしまう、そんな弱くて脆い壊れ物のように見えた。

 だから、僕もそれ以上追及することはしなかった。


 時間だけが虚しく流れていく。

 このまま、母親が返ってくるまでこの状態が続くと思われた。

 けれど……。


「コウ、ちゃん、が……」


「え……」


 彼女が唐突にその口を開き、浩介の名前を口にした。

 見れば、彼女の口元は何か喋ろうとして微かだが動いている。

 彼女は何かを僕に伝えようと必死に話さそうとしているのだ。


「こ、浩介がどうしたの?」


 僕は必死に話そうとする健気な彼女の姿を見て、居ても立っても居られず、促すように尋ねる。

 すると、彼女は続きを語りだした。


「コウちゃんが、ね……、もう、来るなって……」


「え……」


 それはあまりにも衝撃な言葉だった。衝撃的過ぎて、自分の耳を疑った。


「俺なんかに構って、高校生活を無駄にするなって。どうせ、俺はもう何もできないんだから、構うだけ無駄って。約束の事も……忘れて、くれ……って。だから……もう二度と……、来ないで、くれ……って」


 彼女は言葉に詰まりながら、泣きそうになりながら、それを僕に伝えてくれた。

 それを聞いた時、僕はそれが現実の事とは思えなかった。

 あの浩介が彼女にそんな事を言うなんて、信じられなかったんだ。


「タッちゃん……私、どうしたらいいの?」


「由香……」


 彼女の目から頬を伝う一筋の涙が零れ落ちる。

 それは感情が溢れ出す一歩手前だった。


「私……どうしたらいいか、もう分かんないよ! どうしたらコウちゃんは元気なってくるの? どうしたら前にみたいに笑ってくれるの? 私……私……どうしたら……。タッちゃん……どうしたらいいの? 教えてよ、タッちゃん!」


 堰を切ったように彼女はその心情を僕にぶつけてくる。

 溢れ出る涙を拭うことなく、ただ僕に助けを求めてきた。


 そうして僕は気づいた。

 ここまで彼女が疲弊してしまった理由も。彼女が僕に何度も謝っている理由も。

 僕は勘違いをしていたんだ。

 どうしてもっと早くそれに気づいてあげられなかったんだろう。


 彼女はとっくに限界だったんだ。

 それなのに、僕はそれに気づかない振りをして、一番つらいことを彼女に押し付けてきた。

 きっと、誰よりも先に僕がやらないといけない事だったのに、それなのに僕は逃げたんだ。

 たった一回拒絶されただけなのに、浩介からそれ以上拒絶されるのが怖くて、全部彼女に押し付けてしまっていた。

 なんて僕は弱くて、自分勝手で、卑怯で、最低な奴なんだろう。

 彼女はそんな僕を傷つけたくなくて、一人で必死になって浩介を支えようとしていたというのに。

 それなのに僕は……。


「ごめん、由香……ごめんよ!」


「た、タッちゃん……?」


 無意識だったけれど、僕は彼女を抱き寄せて謝っていた。


 謝るのは彼女の方じゃない。

 謝らなければいけなかったのは、僕の方だ。

 あんな辛いことを彼女一人に背負わせた僕の方だったんだ。


「ごめんね、いままで。これからは僕が頑張るから。だから、もういいんだよ」


 それが最後の引き金となった。

 彼女は僕の胸に顔を押し付けて、感情を爆発させる。


「ひ、ぐ……うう、うああああぁぁぁぁっっ……!」


 ただ子供のように彼女は泣きじゃくる。

 僕はそんな彼女を強く抱きしめて、その頭を撫でてあげることしかできなかった。


 だけど、僕は誓った。

 僕の胸の中で泣く彼女を見て、これが彼女の流す最後の涙にしてみせると。

 こんな悲しい涙を、彼女にもう二度と流させないと。

 そう誓ったんだ。



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