#8-1
あの事故から二ヶ月が経った。
あと一ヶ月もすれば、四月。僕も彼女も、そして、浩介も高校二年生になる。
浩介はとっくに退院している。
けれど、あれ以来、学校には来ていない。
いや、学校どころか、家の外にすら出ていないらしい。
らしいと言うのには、うちの母親や彼女から聞いた話だからだ。
僕はあれから浩介には会いに行っていない。
あいつにどんな顔をして会いに行けばいいのか、どんな言葉を掛ければいいのか分からず、その勇気が持てなかった。
逆に彼女は足繁く浩介の家に通っている。
だから、浩介の近況の大半は彼女から聞いていた。
あれ以来、前ほど彼女と毎日会うこともなくなった。
週末には、『喫茶カープ』で彼女と会うようにしていたけれど、以前と比べると、僕達の間柄はどこかよそよそしいものに変わってしまっている。
何よりも、僕は彼女と二人きり会うことに、浩介に対して負い目を感じてしまっていた。
彼女とそんな風になって、浩介がどれだけ僕や彼女にとって大切な存在だったのか初めて分かったような気がする。
きっと浩介がいたから、僕も彼女も笑っていられたんだ。
その浩介がいない現在、彼女との関係が変わってしまうのは当然の事だった。
だけど、決して彼女に対する想いが変わってしまったわけではない。
だから、浩介を支えようとする彼女を僕は支えたいと思っている。
そして、それと同時に、彼女のことを心配していた。
週末に度に会う彼女は、以前ほど元気がなくて、いつも顔色が優れなかったから。
「本当に……大丈夫かい? あんまり無理をしない方が……」
いつものようにマスターが出してくれた紅茶を飲む彼女の顔色が、日に日に悪くなっているよう気がして、僕はやっぱり心配なって、そんな言葉を掛ける。
けれど、それに対して彼女の反応はいつも通りだった。
「大丈夫だよ。心配しないで」
そう言って、彼女は弱々しく微笑む。
あの日から比べれば、少しだが彼女にも笑顔が戻った。
だけど、それは彼女の本当の笑顔とは程遠い。
どう見ても、無理して笑っているようにしか思えない。
きっと、彼女が本当の笑顔を、あの眩しいくらいの笑顔を取り戻すには、浩介と同じように、まだまだ時間が掛かるのだろう。
それでも、僕はせめて彼女には笑っていて欲しいと思っている。
けれど、どうしたら彼女に本当の笑顔を取り戻せてあげられるのか僕には分からない。
そんな自分がもどかしくて、情けなかった。
ある日の放課後、その日は朝から雨が降っていて、憂鬱な気分だった僕はさっさと帰り支度を済ませ、教室を出ようと席を立つ。
「なあ、高杉ぃ。ちょっといいかぁ?」
席を立つと同時に、気怠そうな上、軽薄そうな声が背後から聞こえてきた。
僕にそんな態度で呼び掛けるなんて、誰なのか考えるまでもないけど、僕はあえて振り返って、誰なのかを確認する。
「……どうしたの? 坂田君」
声を掛けてきたのは、当然だけど彼女と幼馴染の坂田君だった。
「帰るところ悪いんだけどさ、ちょっと時間いいかー? 話したいことがあるんだよねー」
「……うん、分かった」
僕は二つ返事で了承する。
本当は、あんまり誰かと話をする気分ではなかったのだけれど、坂田君の顔を見て気が変わった。
坂田君は相変わらず軽い口調だったけれど、その顔は至って真剣だ。
無下には出来ないと思った。
「話って言うのは……由香の事、だよね?」
「あ、やっぱ分かる?」
「うん」
彼がこんなに真剣な表情をするのは、決まって彼女の事しかない。
話というのも彼女の事以外しか考えられない。
「うん、だったら話が早いな。それでなんだが、ここ最近のアイツ、高杉はどう思う?」
「どうって……」
「分かるだろ? ここんところのアイツ、元気ねぇの」
「……うん」
やっぱりその話だったかと思って、憂鬱だった気分が、さらに憂鬱になる。
けれど、だからと言って、話を打ち切るなんてことはしない。
彼のこれ程の真剣な表情は今までに見た事なかったし、何よりも彼女の話なら打ち切るなんてことはできない。
「正直さ、お前達に起こったことは、そりゃあ、不幸なことだと思うよ。けどさ、だからって、アイツがあんな辛そうな顔をし続けなきゃいけない理由なんてないだろ?」
「それは……うん……そう、だよね」
坂田君の言いたい事は分かる。
浩介の身に起きた事は確かに不幸な事だ。塞ぎ込み、家に引き籠ってしまうのも無理からぬことだと思う。
だから、彼女はそんな浩介を支えたくて、時間を見つけては浩介の家を訪れている。
だけど、浩介の精神状態はきっと良くなっていないのだろう。
未だに家に引き籠って、学校に来ないことから考えれば、容易にそれが分かる。
彼女はいまでも悩んでいるはずだ。
どうすれば、浩介が以前のように元気で前向きな人柄に戻ってくれるのか、と。
そして、それが彼女の心にも大きな負担にもなっている。
彼女自身が潰れてしまいそうになるぐらいまで。
「なあ、高杉。だからさ、アイツをもう解放してやってくれないか? アイツは責任を感じているようだけど、あの事故はアイツのせいなんかじゃないはずだ」
「それは……でも、彼女は自分で……」
「分かってる。いま、アイツは誰に強制されてるわけでもなく、自分がそうしたくてやってるってことは。けどさ、オレはあんなアイツをもう見てられないんだわ。でも、アイツはオレなんかの言葉を聞きやしない。だから、頼むよ、高杉。お前から、アイツに言ってやってくれ。もう休んでいいだって。苦しまなくていいだって。そうすれば、もしかしたら……」
初めての事だった。
坂田君が僕に懇願するようにお願いしてきたのは。
けれど、僕はそれにどう返答すればいいのか分からなかった。
僕だって、彼女には元気で笑っていて欲しい。
あの笑顔を取り戻せるなら、何だってしたい。
だけど、それが彼女に浩介の事を諦めさせることなのかと考えると、それだけでは彼女の本当の笑顔は取り戻せないと思う。
それは分かっているのに……。
彼女に以前と同じように笑っていてもらうにはどうすればいいか。
それを考えても、僕にはその答えが出せなかった。
雨の中、坂田君に言われたことを考えながら、僕は一人自宅に向かって歩いていた。
どんなに考えても、答えは出ず、ただただ陰鬱な気持ちになるばかりだ。
そうやって悩みながら歩いているうちに気づけば自宅の近くまで帰ってきていた。
けれど、僕は自宅に着く前に足を止める。
なぜなら、僕の家の前に、雨が降っているのに傘も差さず佇む人影が見えたからだ。
「あれは……!」
その人影が誰なのか、すぐに分かった。
僕は慌ててその人に駆け寄って、呼び掛ける。
「何やってるんだ、由香!」
僕の家の前に立っていたのは彼女だった。
彼女は僕の呼びかけに顔だけをこちら向ける。
「……タッ……ちゃん……」
彼女は弱々しく僕の名を呟いた後、申し訳なさそうに微笑んだ。
この顔……雨の中、傘も差さず佇んでいるだけでも、普通な状態ではないのは明らかなのに、加えてこの顔だ。
何かあったに違いない。
けれど、それを気にするよりも前に、まずは彼女の体の方が心配だった。
彼女は制服姿のまま雨でびっしょり濡れになっていた。
「バカッ! こんな雨の中傘も差さずに、何やってるんだよ!」
「ごめんね、タッちゃん……ごめんなさい……」
「由香……?」
彼女が何に対して謝っているのか、僕には分からない。
だけど、彼女は謝り続けた。
辛そうに。
申し訳なそうに。
ごめんさないと。
何度も。
その顔は泣いていた。
もしかすると、髪から滴る雨水がそう見えただけかもしれない。
だけど、彼女の顔は泣いていたんだ。
僕はそんな彼女の顔を直視することが出来なかった。
「ごめん、なさい」
「もういいから。もう謝らなくていいから。それよりも早くこっちに」
「あ……」
僕は謝り続ける彼女の腕を強引に引き、家の中へと向かう。
彼女から何か小さな声が漏れたけど、そんな事は気にせず、僕は彼女を家の中に連れ込んだ。




