#5-8
色々とあったけれど、僕らは笑い合えるような仲になることができた。
そういう関係に戻ることができた事に、僕は心底嬉しかった。
そんな安堵の空気に包まれた時だった。
「あ、そうだ!」
笑い合う僕らの間で、彼女が突然思い出したように声を上げた。
「どうしたの? 高橋さん」
「うん、いいことと思いついちゃって」
「いいこと?」
「うん、いいこと、だよ」
そう繰り返す彼女は、本当にいいことを思いついた時のように嬉しそうな表情だった。
けれど、僕はそれに何か嫌な予感がしていた。
「そ、それってどんなこと?」
「難しいことじゃないよ。私達、折角仲良くなれたのに、いつまでも他人行儀に苗字で呼び合ってるじゃない? だから、もっと親しげに呼び合えたらいいなって思っただけ。それに、二人とも前から私の事は名前で呼んでいいって言ってるのに、ちっとも呼んでくれないんだもん。これを機に、名前で呼び合うとかしようよ」
「おー、それはいい考えだな!」
浩介が彼女の提案にあっさりと賛同してしまった。
「う、うん、僕も構わないよ」
彼女の言い分は、別におかしな事でもなんでもない。
だから、僕も嫌な予感がしつつも賛同した。
「じゃあ、二人とも、これからは私の事、由香って呼んでね?」
「おう、分かったぜ、由香!」
ここでも浩介はあっさりと彼女の名前を口にする。
それに彼女は嬉しそうに微笑み、そして、期待に満ちた目を僕へと向ける。
「う……」
僕は気恥ずかしさのあまり、すぐに言葉にできなかった。
この時ばかりは、浩介の豪胆さを羨ましく思った。
「ほら、高杉君も」
彼女は僕にも呼ぶように促してくる。
「わ、分かったよ……ゆ、由香」
僕は渋々彼女の名前を口にする。
すると、彼女はまた嬉しそうに満面の笑みを見せた。
恥ずかしかった。さっき彼女に想い告げた時よりも、ずっと緊張してしまった。
そんな思いをしている事に彼女は気づく気配もなく、話を続けた。
「それじゃあ、私は二人をなんて呼んだらいいかな?」
彼女が僕と浩介にそう尋ねると、浩介が答えた。
「ん? それは由香が呼びやすいように呼んでいいんじゃないか?」
「え! ホント!?」
「ああ、それでいいよな? 達也」
「え!? あ、ああ……うん、そう、だね……」
僕は戸惑いつつも浩介の賛同してしまった。
それがいけなかった。
「そっかー、それじゃあ、なんて呼ぼうかなぁ……」
彼女は何故かそんな事を呟きながら悩みだした。
そして、しばらくすると、閃いたと言わんばかりに表情を明るくした。
「よし、決めた! じゃあね、名倉君はコウちゃん、高杉君はタッちゃんって呼ぶね!」
「え!?」
彼女の言葉を聞いて、僕は驚きのあまり声を上げてしまった。
タッちゃん……。
それじゃあ、まるで本当にあの漫画の……。
これはいくらなんでも……。
「え……ダメ、かな……?」
彼女は僕の反応に不安げな表情を向けてくる。
「い、いや、俺は全然問題ないけどよ……」
浩介はそう言うと、僕をちらりと見てくる。
「良かった。高杉君は?」
「あ、いや……それは……」
「やっぱり、ダメ?」
「あ……う……」
申し訳なさげに上目遣いで彼女が見てくる。
それに僕は嫌だとすぐに告げる事ができなかった。
浩介はそんな僕を見ながら、クスクスと笑っていた。
その浩介の様子に彼女も気づき、小首を傾げた。
「あれ? コウちゃん、どうしたの?」
「い、いや……達也の反応が面白くって……。由香、お前、狙ってやってるのか?」
よっぼど僕の反応が滑稽だったのか、浩介はそう彼女に尋ねている時でさえ笑っていた。
けれども、彼女は訳が分からないとでも言いたげな表情をしているばかりだ。
「そっかそっか、知らないでやってたのか! まあ、そうだよな!」
浩介はそんな彼女の反応を見て、さらに笑っていた。
浩介の奴、こっちがこんなに困ってるのに完全に楽しんでやがる。
「えっと……どういうこと?」
「ん? あ、ああ、コイツの名前な――」
「ば、馬鹿、浩介! それ以上先はお前でも許さないぞ!」
浩介が口を滑らせそうになったので、慌てて止めに入った。
「いいじゃねぇか、この際。知ってもらっておくことも必要だと思うがなぁ」
「馬鹿言え! お前は、ただ面白がってるだけだろ!」
第一、そんなにやけ面で何を言われても信じられるか!
「ええっと……つまり、タッちゃんは、ダメ?」
「うぅ……ダメじゃ、ないけど……」
再度、彼女に悲しげに尋ねられて、僕はその表情に押し負けてしまった。
「ホント!? ホントにタッちゃんって呼んでいいの?」
「……うん」
「わぁ! よかったぁ!」
僕の返事を聞いた彼女は満面の笑みを浮かべた。
その笑顔があんまりも嬉しそうだったので、僕はもう嫌とは言えなかった。
「よし、ひとまず話は纏まったし、もう遅いから、そろそろ帰ろうぜ」
僕が頭を抱える中、浩介がこの話題を打ち切るように告げた。
公園にある時計を見れば、もうすぐ八時を回ろうとしていた。
随分と長く話していたようだ。
「うん、そうだね。すっかり遅くなっちゃったもんね。二人とも、もちろん家まで送ってくれるよね?」
「おう、当然だろ」
「夜道を女の子だけ歩かせるわけにはいかないからね」
僕も浩介も当然の如くそう言うと、彼女の両脇に並んで、歩き出した。
「あ、そう言えば!」
歩き出すと、突然彼女がまた思い出したように声を上げた。
「タッちゃん、コウちゃんが出てくる前に私に何か尋ねようとしてなかった?」
「え……ああ、うん、そう言えばそうだったね……」
そうだった。
彼女が中学生の時に見たピッチャーが誰なのか聞こうとしていたんだ。
今や、それが誰なのかなんて、もうどうでもいいかもしれないけど、それでも気にはなることだ。
「あれって、なんだったの?」
「う、うん……由香が中学に見た時のピッチャーって、結局誰だったのかなって……」
「おう、それ、俺も気になってたんだ。どう考えても、その練習試合、俺達がいた北中と三崎中の練習試合だろ? つーことは、その時のピッチャーは、俺か達也のどっちかってことだろ?」
そう、僕と浩介のどっちかだ。
あの試合は、前半は浩介が投げて、後半は僕が投げた。
だから、彼女が見たピッチャーは僕か浩介のどちらかなのだ。
果たしてどっちだったのか……。
「えへへ……やっぱり二人にはバレてたんだね……」
彼女は恥ずかしそうに笑いながら、僕達より一歩前に踏み出して、振り向いた。
僕はその瞬間、息を飲んだ。
ずっと疑問に思っていたことが、つい分かると思って緊張した。
けれど、彼女は人差し指を口元にそえて、
「それは……内緒だよ!」
愉しげにそう言った。
「ちょっと待て! それはないだろ!」
「そうだよ! 教えてよ!」
「えー、どうしよっかなー?」
僕と浩介は彼女に迫ったが、彼女は愉しげに笑うだけで、決して話そうとはしなかった。
その時の彼女の天真爛漫な笑顔は、本当に綺麗だった。
そんな君の笑顔を、僕はずっと見ていたいと思った。
第一部、完。
第二部へ続きます。