#5-4
午後6時半。
まだ薄明るい中、僕はある公園に来ていた。
段々と暗くなってくる中、公園の中は電灯がついていて、その周りだけ妙に明るい。
この公園は僕にとって馴染み深い場所だ。
昔、浩介と二人でここでキャッチボールや投球練習をやっていた。
僕達の二人だけの練習場。
昔は部活が終わってから、この場所に来て、このぐらいの時間から一時間程の二人で練習をしていた。
そんな思い出が詰まった公園だ。
と同時に、この公園は今の僕にとっては、別の意味を持つ場所にもなっている。
そんな場所に何故来ているかと言うと、昨日浩介にメールを送った後、夜になって返事が返ってきたのだが、そのメールに時間と場所が書かれていたからだ。
『明日の午後6時半頃、俺達がいつも投げ合ってた公園に来い。そこで、お前の答えを聞かせてもらう』
浩介からはそんな短い文面だけのメールが返ってきただけだった。
僕はそれに従って、約束時間に約束の場所にやってきたのだ。
辺りを見渡すが、浩介の姿はどこにも見当たらない。
約束の時間は既に過ぎているのに……。
「アイツ、忘れてるんじゃないだろうな……」
折角、覚悟を決めて来たというのに、浩介がいなければ意味がない。
本当に来るのか心配になって、携帯を鳴らしてみたが、出ることなく留守番電話サービスに繋がってしまう。
「あの野郎……」
いよいよ、来ないかもしれないという予感が現実のものになりそうで、不安が募る。
どうしようかと迷った。
けれど、浩介も今は色々と忙しい身だ。部活で遅れているだけかもしれないと思い、待つことにした。
僕は電灯の柱に寄りかかって、浩介を待ち続ける。
すると、約束の時間から十分経った頃だった。
「高杉……くん?」
「え……」
背後から唐突に名前を呼ばれた。
僕はその声に慌てて振り返った。
すると、そこには――。
「た、高橋さん!?」
そこには、強張った表情をした彼女が立っていた。
「ど、どうして……」
どうして彼女がこんな所にいるのか。
浩介を待っていたはずなのに、まさか彼女が現れるなんて……。
「た、高杉君こそ……どうしてここに?」
「ぼ、僕は浩介に呼ばれて……」
「え……わ、私も名倉君に呼ばれて……」
「……」
「……」
こ、浩介の奴め、嵌めやがったな!
浩介の企みが分かって、浩介に怒りを覚えつつも、僕は平静を保とうとした。
彼女だってこの状況に戸惑っているのだろう。不安げな表情を浮かべている。
まずは落ち着くことが先決だ。
ここで取り乱しては、余計彼女を不安にさせてしまう。
「……たぶん、浩介は来ないよ」
「え……そっか、そういうこと、なんだ……」
彼女は僕の言葉を受けて、どういう状況か理解できたのか、俯いてしまった。
「ごめんなさい!」
彼女は唐突にそう言うと、踵を返し走り出そうとした。
それを僕は――。
「待って、高橋さん!」
僕は後先考えずに逃げ出そうとする彼女の腕を掴んでいた。
「は、放して!」
「嫌だ!」
彼女は僕の手を振りほどこうと必死にもがいている。
まさか、ここまで抵抗されるとは思わなかった。
そんなに僕といるのが嫌なのかと思って一瞬躊躇いもしたが、ここで手を放してしまっては、もう二度と彼女とちゃんと話をする機会に恵まれない気がした。
だから、彼女の腕を掴む手に力を入れた。
「お願いだから、放してよ!」
「ダメだ。君がここから逃げないって約束するまで放さない! 君とちゃんと話がしたいんだ!」
僕が諦めずにそう言うと、彼女の体から力が抜けるのが分かった。
「……分かったよ。逃げないから、放してよ」
「本当に?」
「うん……」
「……分かった」
僕は彼女の言葉を信じ、腕から手を放した。
彼女は約束した通り逃げなかった。
けれど、気まずさからか、俯いてこちらを見ようとしない。
「どうして、逃げようとしたの? 電話しても出てくれなかったし……もしかして、僕、避けられてる?」
「……ごめんなさい」
ごめんさない、か。
この間から、彼女は僕に謝ってばかりだ。
僕は責めているわけじゃない。
ただ、彼女が、今、僕の事をどう思っているのか聞きたいだけだ。
「ねえ、もしかして、この間の体育館裏での事、気にしてるの?」
「……」
尋ねても彼女は何も答えなかった。
ただ、黙って俯いている。
いつも明るく振舞っていた彼女とは思えないほど、暗い表情だ。
「あの事だったら気にすることないよ。あれは君のせいなんかじゃない。それに、坂田君のお陰で、あれから先輩達から絡まれたりしてないし」
「そうじゃないの!」
「え……そうじゃ、ない?」
「う、ううん……それもあるけど、それだけじゃないの。私は……私は君を傷つけた。君の気持ちも考えないで、自分勝手に振舞って……そのせいで君に辛い思いをさせちゃった。だから……」
「それって……日曜日のこと言ってるの?」
尋ねたが、彼女からの返事はなかった。
それを僕は肯定と受け取った。
「あ、あの事だって、君は悪くないよ。あれは僕がいけなかったんだ。本当は君にあんな事言うつもりじゃなかったのに……」
「ううん。私、君からすれば話題にもしたくない野球のことばかり話して、無理をさせてたんだもん。怒るのは当たり前だよ」
「ち、違うんだ。そうじゃないんだよ!」
「え……違う……?」
そう違う。
彼女が思っているような理由で僕は怒っていたんじゃない。
もっと言うと、怒ったとも違う。
僕はあの時……。
「うん。あの時は、その……君があんまりも僕の事を凄いって言うもんだから……だから、怖くなったんだ」
「こわ、く……?」
「そう、怖くなったんだ。君の中で僕への期待が大きくなってるのが分かったから。君が僕に何を期待しているかが分かっちゃったから……」
だから、僕は自分から彼女を遠ざけようとして、野球が嫌いだなんて事を言ってしまった。
恐怖から逃げようとしたんだ。
「……訊いていいかな?」
「うん。なに?」
「どうして、期待されるのが怖いの?」
「そ、それは……」
それを彼女に話して理解してくれるだろうか?
あの恐怖は、体験した人にしか分からないものだ。
だけど、きっとそれを話さないまま、彼女と本当の意味で向き合うことなんてできない。
そう思った。
「肩を怪我する以前の僕が剛腕ピッチャーとか言われて、もてはやされていたのは知ってるよね?」
「うん……この間、マスターも言ってたね」
「そうだね。あの頃の僕はそう呼ばれるだけの自信があった。監督やチームメイトの信頼と期待を一身に背負ってマウンドに上がって、ボールを投げてた。それを怖いとか重いとか思ったことなんて一度もなかったよ」
「だったら……どうして? どうして、今は怖いの?」
「……怪我を負って、ピッチャーが続けられないって分かった時さ、ショックだったけど、それでもこれで野球が出来なくなったわけじゃないって思ってたんだ。実際、プロ野球選手の中にも学生の頃に投手から野手に転向した人なんていくらでもいたしね。自分で言うのもなんだけど、バッティングも中々だったから、僕。だから、ピッチャーが出来なくなっても、野球は続けられる。甲子園での優勝を目指すって夢は追い続けられるって思ってた。
だけどさ、ピッチャーが出来なくなったって知った周りは、僕以上に落胆してたんだ。あんなにいいピッチャーだったのに残念だってね。そして、僕を見る目が変わった。浩介や両親以外は僕を見るたびに落胆して、可哀想にって言ってるような気がしたんだ。そういう目をしていた。彼らはバッターとしての僕には期待なんてしてなかったんだ。実際、そういう声だって聞えてきた。それが堪らなく嫌だった。辛かったんだ。
期待が大きい分だけ、それに沿えなくなった時、周りの落胆は大きくなる。期待を寄せていた人達は離れていく。それを知って、その辛さを知って怖くなったんだ。期待されることも、その期待に沿えなくなった時の喪失感を味わうことも。だから、僕は野球をやめた。最初から何もしなければ、そんな辛い思いもしなくて済むって思ったから」
結局、僕は逃げ出したんだ。自分が置かれている現状から。
ピッチャーが出来なくなったから潔くグラブを捨てた?
そんなの嘘だ。
僕はただ野球から、周りから、そして、自分からすらも逃げていたにすぎない。
そんな情けない話を彼女はただ真剣な表情で黙って聞いていた。
「笑っちゃうよね? 君が凄いって思ってた奴は、いつも逃げ腰で、一度の挫折すらも乗り越えられないような奴だったんだから」
そんな風におどけて見せたが、彼女は決して笑おうとはしなかった。
彼女は僕の言葉に少しだけ辛そうな顔をして俯いた。
その表情が同情から来るものか、それとも、落胆から来るものなのか分からなかった。
それでも、彼女が僕の話を聞いて、少なからず心を痛めていることは分かった。
「……私はね、逆だったの」
「え……逆?」
それまで黙って聞いていただけの彼女が、唐突に口にした言葉に僕は戸惑った。
その言葉だけでは何を意味しているのか、僕には分からない。
彼女は顔を上げると、戸惑う僕に微笑みかけ、語りだした。




