#5-3
マスターはそれ以降何も言わず、せっせと珈琲を作っていく。
ここの珈琲は珈琲豆から挽く本格派だ。
それなりに時間は掛かるが、味は確かで、昔は僕のお気に入りだった。
暫く待っていると、白いカップに注がれたブレンド珈琲が目の前に置かれた。
「ほらよ。ご注文のブレンドだ」
マスターはそっけなく言うと、再び椅子に腰を下ろし、新聞を広げる。
僕は出された珈琲カップに口を付けた。
「……うん、やっぱりここの珈琲は美味しいね」
「ふん、たりめぇだ! 誰が入れた珈琲だと思ってんだ!」
「はは、そうだね」
新聞を顔の前で広げたままのマスターの反応に僕は少し苦笑してしまった。
それでも、確かにここの珈琲は美味しいし、僕と浩介がよく通っていた頃と味も変わっていない。
「ホント、美味しいよ。これで、店主の接客がちゃんとしてれば、もう少しお客が入るのになぁ」
「馬鹿言え。そんな事したら、うるさくて敵わんだろ。オレはな、静かに喫茶店を営みたいんだ」
「はあ……相変わらずだね。でも、お客がいないといないで困るでしょ?」
「ふん、大きなお世話だ。それにな、お前なんぞに心配されんでも常連ならちゃんといる」
「ふーん……」
そうは言うけれど、僕がここに来た時に、他のお客がいたためしがない。
本当に常連がいるのか怪しいものだ。
「それで? 今度は何を悩んでるんだ?」
「え……」
突然、マスターが新聞を広げたままそんな事を尋ねてきたから、驚いてしまった。
「ふん。テメェがここに一人で来る時は、何か悩んでいる時だって相場が決まってんだ」
「そ、そう……だったかな……?」
「そうだよ。大人をなめんな。それぐらいお見通しだ」
そんな事、意識したことはなかった。
けれど、もしかしたら、悩みを抱えていた時、知らずの内に僕はここに来ていたのかもしれない。
それにしても、一年も前の事なのに、よく覚えているものだ。
この一年間、僕の事を少しでも気に掛けてくれていたという事だろうか?
だったら、少しだけ、ほんの少しだけ、頼ってみてもいいだろうか。
いくら非常識な接客しかしないこの人でも、大人であることは変わりないのだから。
「ねえ、マスター。浩介と高橋さんって、よくここに来るんだよね?」
「ん? ああ、野球部の連中と部活帰りにな。最初はうるさくて敵わんかったが、浩介が連れてくる連中だ。どいつもこいつも無類の野球好きな奴らばかりだから、見逃してやってるよ」
それはつまり、裏を返せば、野球好きではなかったら、追い出されるということか。
なんだか、急に自分の身が心配になってきた。
「余計な心配はするな。お前は昔のよしみで追い出したりなんかしねぇ。ま、もっとも、この間のような事をまた言ったりしなけりゃだがな」
新聞を顔の前に広げて、こっちの表情すらも窺えないはずなのに、マスターは僕の気持ちを見透かしたような事を言ってくる。
大人をなめるな、か。この人には敵わないな……。
「そ、それで、浩介達って、ここでどんな話をしてるの?」
「話か? そんなの、お前と一緒に来てた頃と変わってねぇよ。野球の話ばっかだ。バッティングはどうとか、この時の守備体系はこの方がいいだとか、そんな話ばっかだよ。ま、由香ちゃんはそれを楽しそうに聞いてるだけの方が多いけどな」
楽しそうに、か。
野球の事が殆ど分からない彼女にとって、浩介達のする話は高度過ぎるだろう。
普通なら詰まらないと思う方が普通だ。
けれど、彼女にとってそれが楽しいと思えたなら、それは野球部の仲間と一緒にいる事自体が楽しかったんだろう。
それほど彼女は野球が好きだったんだ。
「じゃ、じゃあさ、浩介と高橋さんが二人で来ることってなかったの?」
「ん? ああ、あったぞ。たまにだけどな。……なんだ? お前、なんでそんな事を気にするんだ? まさか、お前……」
「そ、そんなじゃないよ! べ、別に高橋さんが浩介と一緒にいようが僕には……か、関係ない話さ」
マスターが疑うような口ぶりをしたので、慌てて否定した。
けれど、よく考えたら、慌てる必要なんてなかったんだ。
本当に僕は、浩介と高橋さんのことなんて気にしてない……はずだ。
「ほー。ま、オレから見てもあの二人はお似合いだけどな。お前と由香ちゃんじゃあ、釣り合わねぇし」
「お、大きなお世話だよ!」
まったくもって失礼だと思いながらも、その一方ではその通りだと納得していた。
顔もそこそこの野球部のエースピッチャーと校内一の美少女の取り合わせは、誰も文句言いようがない。
対して、僕は何の取り得もない帰宅部高校生だ。釣り合いなんて取れる訳がなかった。
「ね、ねえ、浩介と二人で来た時って、何を話してたの?」
「あ? さあな。流石に二人で来た時は、オレは引っ込んでたよ。邪魔しちゃ悪いしな。ま、楽しげな声だけは聞えてきてたよ」
僕の質問に対して、マスターは妙に愉しげに答えている。
まだ勘違いされていそうだが、もうこの際それはスルーすると決め込んだ。
「じゃ、じゃあさ、ここに来た時に、高橋さんが野球好きになった理由の話とか聞いたことない?」
「む……んー、ああ、あるな。確かに浩介と二人で来た時に、オレも混じってそんな話を聞かされたことが」
「え! あるの!?」
「あ、ああ……だが、なんでお前そんな事を気にするんだ?」
「え……それは……」
そうだ。
なんで僕はこんな事を気にするんだろう?
彼女が野球を好きになったのは、彼女が中学三年の夏に中学野球の試合で見たピッチャーの影響だとしか知らない。
けど、だからこそ、気になっている。
彼女に影響を与えた中学生ピッチャー、僕はそんな凄いピッチャーに一人くらいしか心当たりがなかった。
「ねえ、マスター。彼女が影響を受けたピッチャーってどこの中学だったか分かる?」
「なんだ、そこまで知ってて話を振ってたのか。さあな。由香ちゃんもそれは言ってなかったが……確か、中学三年の夏に、彼女の中学に練習試合に来た中学のピッチャーらしいから、県内の中学だろうな」
「え……練習試合……?」
「おうよ。なんだ? そこまで聞いてなかったのか?」
「う、うん……」
中学野球の試合であることは知っていたけど、練習試合だと思わなかった。
彼女が言うには、観客までいたそうだから、てっきり大きな大会か何かだと思っていたのに……。
「ね、ねえ、マスター。そう言えば、彼女の出身中学ってどこだか知ってる?」
「あん? なんだ? それも知らなかったのか……お前ら、本当に友達か?」
「う……ま、まだ知り合って間もないんだよ。仕方ないだろ……」
「ほー、知り合って間もないのに二人で買い物か。最近の高校生はその辺がよーわからんな、おじさんには」
「ほ、ほっといてよ」
そうは言ったものの、確かに僕は彼女の事をあまり知らない。
最近になって、昔の彼女はどうだったとかを他人づてに知っただけで、彼女自身からはあまり聞かされていない。
むしろ、彼女からは意図的に肝心なところをはぐらかされていたようにさえ思える。
僕は彼女の事を本当にどこまで分かっているのだろう……?
「まあ、お前らの関係性ってのは、お前らのもんだからとやかく言わねぇよ。それよりも、由香ちゃんの出身中学はもういいのか?」
「いいわけないでしょ。マスター、知ってるの?」
「ああ。確か、隣町にある三崎中だって聞いたことがあるぜ」
「三崎中……それって……」
「おう、あそこの野球部も中学ながら中々の実力があったらしいな。ま、お前らがいた北中ほどじゃなかったにしろ」
「う、うん……そう、だったね……」
マスターの言うことに同意しながらも、僕は全く別の事を考えていた。
三崎中……。
確か、僕が中学三年の夏、まだ怪我をする前に、全国大会に向けて練習試合をした中学だ。
マスターが言うように、三崎中は県内では強豪のチームだった。
だから、全国大会前に監督が練習試合を組んでくれた。
そして、僕らはその中学に出向いて行ったんだ。
あの中学が、彼女の出身校?
それじゃあ、まさか……彼女に影響を与えたピッチャーって……。
いやいや、まだそう決めつけるのは早い。
けど、そう言えば、あの練習試合、やけにギャラリーが多かった記憶がある。
確か、地区大会優勝校と県内2位の学校が対戦するって言うんで、どういうわけか話題になって、人が集まってたっけ……。
じゃあ、やっぱり彼女が見た試合って、僕達北中と三崎中の練習試合だったってことだろうか。
いや、でも、あの試合は……。
「ね、ねえ、マスター?」
「なんだ? 急に黙ったと思ったら、今度は何が訊きたい?」
「あ、いや……訊くっていうよりさ、マスターの意見が欲しんだけど……」
「当ててやろうか? お前が気にしてること」
「え……」
「由香ちゃんがその試合で見たピッチャーってのが、浩介だったんじゃないか、だろ?」
「え……どうして……?」
何故分かったのか不思議でたまらず、僕は尋ね返していた。
すると、マスターは顔の前に広げていた新聞を下し、得意げな表情をした。
「大人をなめんな。お前の考えていることぐらい、顔を見んでも分かるわ」
「……恐れ入るよ、マスターには」
ホント、僕はこの人の事を舐めすぎていた。
中学生だった頃は分からなかったけれど、この人の推察力は半端ない。
きっと些細な嘘でさえ見破られてしまうだろう。
「それで、マスターはどう思う?」
「さあ、どうだろうな。だが、彼女の言うようなピッチャーは、オレの知る限り、あの頃県内には二人しかいないな」
「それって……」
「皆まで言わせんな、馬鹿。お前と浩介以外いるか、そんな奴」
「やっぱり、か……」
自分でそう思うのは自惚れが過ぎると思っていたけど、マスターが言うならそうだと、確信できる。
けど、だからこそ、僕には分からない。
「ねえ、マスター……」
「そっから先の質問には答えんぞ。それは本人に尋ねる事だろうが」
「うん、そうだよね……」
まったくもって、マスターの言う通りだ。
ホント、大人って凄いな……。
本人に尋ねる。
そうすることが正しい。それは分かっているけれど、それを彼女に確かめるのは少し怖い気がする。
だって、もしそれが――。
そう考えそうになって、僕は頭を振った。
その恐怖から僕はいままでずっと逃げ続けてきた。
けど、いつまでもそんなんじゃいられない。
でも、怯えてしまっているのも確かだ。
ここから先に踏み出すのが怖い。
だから、その勇気が欲しかった。
「ねえ、マスター。最後に一つ訊いていい?」
「ああ、いいぜ。これで最後だ。そろそろオレもお前と問答に飽きてきたしな」
飽きたなんて憎まれ口は相変わらずだけど、この時のマスターの表情は穏やかだった。
その顔は、まるで子を見守る親のようで、安心できた。
「さっきさ、彼女が浩介とここ来た時に楽しげだったって言ってたでしょ? じゃあさ、この間の日曜、僕と話してる時の彼女は、どうだった? 浩介の時と比べて」
その質問に、マスターはすぐに答えようとしなかった。
その答えを出すのに考えている様子ではなかった。
それはまるで僕の覚悟が決まるのを待っていてくれてるようだった。
僕はマスターの顔をジッと見た。
そんな僕にマスターは鼻を鳴らして微笑んだ。
「……変わらねぇよ」
「え……」
「浩介の時と同じだ。楽しそうに話してた」
「……そっか」
その言葉を聞けただけで、なんだか嬉しかった。
「ああ、ついでにもう一つ教えておいてやる」
「え……?」
「テメェは自分で気づいてないだろうが、由香ちゃんが野球の話をしてた時、お前も同じような顔、してたぜ」
「……そっか。そうだったんだ」
いつもなら反論しただろうけど、この時の僕はマスターの言葉を素直に受け入れることができた。
僕はマスターの言葉を聞いて、自分のすべきことが分かったような気がした。
「ありがとう、マスター。珈琲、美味しかったよ」
マスターにお礼を言って、僕は椅子から降りて、立ち上がる。
「悩みは解決したのか?」
「どうだろう? でも、なんだか色々とスッキリしたよ」
「……そうかい」
僕の返事にマスターの表情は少しだけ緩んだような気がした。
それはなんだかとっても嬉しそうな表情だった。
なんだろう?
今更だけど、今日のマスターは、ちょっとだけいつもより大人に見えるし、親切だ。
「あ、そうだ。お代。いくらだっけ?」
「いらん」
「え!? いや、流石にそれはまずでしょ!?」
「いいんだ。気にするな」
「いや、でもさ」
いくらなんでも、そんな商売をしていたら、この喫茶店が潰れてしまう。
払うものは払わないと。
いくら今日のマスターが親切でも、そこまで甘えるわけにはいかない。
「あー、いや、そうじゃない。この間、釣りを返し損ねた。そっから差し引いてチャラだ」
「あ、そういうことね」
全然、親切心とかそんな事ではなかった。
取るものは取る。
この人はそう言う人だ。
何があってもそこが変わるわけはなかった。
それでも、今日のマスターは……。
「飲み終わったんなら、さっさといけ」
マスターは僕をあしらうようにそう言うと、飲み終わった珈琲カップを片付けることなく、再び新聞を顔の前で広げる。
それだけだったのに、マスターが僕の背中を押してくれているようなが気がした。
僕は、顔の見えないマスターに無言で頭を下げてから、店を出た。
喫茶店を出た僕はスマホを取り出す。
そして、まだ部活中であろう浩介にメールを打って、送信した。




