#5-1
先輩から殴られる、なんて騒動はあったけれど、その日はそれ以外にこれと言って大事は起きなかった。
クラスメイトからの視線は、相変わらず痛かったけれど、それでも誰も何も言って来ない辺り、もしかすると今朝の騒動すらも皆知っているのかもしれない。
もちろん、彼女と話し合う機会など恵まれるはずもなく、その日、僕は憂鬱な気分のまま家路について、いつもの場所で『日課』を済ませた。
それでも、微かな希望と言えるものもある。
それは坂田君の存在だ。
彼が彼女との仲を取り持ってくれると言ってくれた事は、今の僕には非常に心強い。
もしかすると、明日には……。
そんな淡い期待を胸に、その日僕は眠りに落ちた。
*
翌日の朝、坂の下に彼女の姿はなかった。
淡い期待が、微かな不安へと変わった瞬間だった。
坂を上り切って、正門を潜る。
今日は何事もなく、学校にたどり着くことができた。
これも昨日坂田君が先輩達を脅してくれたおかげなのだろう。
教室に入ると、その坂田君は既に登校してきていた。
僕が席に着くと、彼の方から僕の方へとやってきた。
「おはよう、坂田君」
「よ、よお、高杉。おはよ」
どうしてか、坂田君は浮かない顔をしている。
それが、一層に僕の不安を強くする。
「ど、どうしたの?」
「あ? あー……やっぱ分かる?」
「うん、様子が……いつもよりテンションが低いから」
「ありゃりゃ……オレも案外分かりやす奴ってことか」
そんな軽口を叩いていても、彼の顔は浮かない。
「さ、坂田君……?」
呼び掛けると、突然彼は両手を拝むようにして合わせて、頭を下げた。
「わりぃ、高杉。今回ばかりは、オレでも力になれなかった」
「え……それって……」
坂田君が何について謝っているかなど考えるまでもない。
彼女との仲を取り持つと言った彼が、こう言っているのだ。
きっと上手くいかなかったのだろう。
「すまん。何とかしようとしたんだが、アイツの落ち込みよーときたら、こっちの話に聞く耳すら持とうとしねぇ。アイツ本来の引っ込み思案な性格が顔を出しちまったようだ。あーなっちまうと、オレが何言っても効果がねーのよ」
「そ、そんな……そこまでなんて……」
「ま、まあ、学校だといつも通り振舞っているようだから、そう心配もいらないと思うが……ありゃあ、相当無理してるな」
「そうか……」
いつも通りに振舞っていると聞いて、内心ではほっとしていた。
あのいつも明るい彼女が、暗くなっているところなど想像できなかったし、そんな彼女の一面が学校で公になってしまえば、また騒ぎになりかねない。
けれど、だからこそ、いつもと変わらないように振舞っているのかもしれない。
坂田君が言うように、無理をして。
「ま、まあ、そういう訳だから、ちょっと今は無理だねぇ。少し落ち着いてからにするか、あるいは……」
「あるいは?」
言い掛けて黙る彼に尋ねるが、彼は難しそうな顔をして、やや悩んだ後、苦笑いを浮かべながら言った。
「いや、あるいは、お前の方から何か声をかけてやればと思って……」
「ぼ、僕から!?」
「あー、いや、無理だよな。こんな状況じゃあ。わりぃ、無茶言ったわ」
「う、うん……」
そう、無理だ。そんな事はできない。
いや、実際のところ無理な訳ではない。
彼女の電話番号もメールアドレスも知っているのだから、彼女に何か伝えることはできる。
けれど、それを僕の方からするのは、躊躇いがある。
彼女を傷つけたのは、僕だ。
おまけに、僕は彼女の期待に応えられない。
そんな僕が、今更、彼女になんて言葉を掛ければいいのか分からなかった。
「ま、まあ、あれだ。時間が解決してくれることあるだろーし、そう深く考えんな。な?」
そう慰めるように坂田君は声を掛けてくれたけれど、僕の気持ちは一向に晴れることはなかった。
その日、結局僕は学校では彼女に会うことすら叶わなかった。
夜になって、相変わらずどう彼女に声を掛けていいか分からないままだった。
けれど、僕は意を決して彼女に電話することにした。
スマホの画面をタップしてから、耳に押し当てる。
数回のコール後、電話が通じた。
繋がった。
出てくれないと思っていたけれど、彼女は出てくれた。
それは嬉しい反面、緊張の一瞬だった。
「あ、あの、高杉だけど!」
意を決した第一声は、向こうだって分かり切っているのに、名乗りだった。
けれど――、
『ただいま電話に出ることはできません。ご用件のある方は――』
スマホから聞こえてきたのは、機械的で定型文の留守番電話サービスの音声だった。
僕はそれを最後まで聞き終えることなく、電話を切った。
出てくれなかった。そう思った。
彼女はもう僕と話をすることさえしたくないと言う事だろうか……。
僕はスマホをベッドの上に放り出し、自分の身もベッドへとダイブさせる。
悶々とする気持ち、その鬱憤を発散させる術などない。
いつもの僕なら、ここでふて寝をかまして、それらの憂鬱な気分を翌日の僕に押し付ける。
そうやって、ずるずると引き延ばしにする。
けれど、今日の僕は違った。
どうしても、彼女ともう一度話す必要があると考えていた。
何を話せばいいのか分からなかったけれど、あの時彼女が見せた涙がどうしても忘れられなくて、このまま放って置けなかった。
寝っ転がりながら、放り投げたスマホを手に取り、顔の前に持ってくる。
そして、スマホを操作して、ある人物の名前を表示させた。
スマホに表示されているのは、『名倉浩介』という文字。
それと暫く睨めっこした後、僕は意を決してスマホをタップした。
「で? 久々にお前の方から連絡してきたと思えば、何で俺がこんな真夜中に呼び出されないといけない訳?」
浩介が不満そうな顔で僕に尋ねてくる。
高杉家と名倉家の丁度境に、僕と浩介は並んでヤンキー座りをしていた。
「訳はさっき電話でも話しただろ? 高橋さんと話がしたいって」
「ああ、聞いた。聞いたけどよ、それだけだ。それじゃあ、何の事がさっぱりだ。話がしたいなら話せばいいだろう?」
「いや、だから、そう簡単にいかないから、お前に相談してるんじゃないか……」
「お前ね……それ、俺に相談することか?」
浩介は呆れたと言わんばかりにジト目を向けてくる。
「ど、どういう意味だよ、それ? なんでお前に相談しちゃいけないんだ? 彼女はお前んとこのマネージャーだろ」
「ああ、そうだったね、そうでした! お前に俺の気持ちを察しろと言うのが間違ってましたよ!」
「なんだよそれ……て言うか、なんでそんなにやさぐれてんだよ?」
いつも爽やかな浩介にしては珍しい態度だ。
何かあったのかもしれない。
すると、浩介はキッとこちらを睨んできた。
「そりゃあな、練習で疲れて帰って、眠気と闘いながら、さあ、明日提出の課題をやろうって時にだよ? よく分からん事情で呼び出されれば、誰だってやさぐれもするぜ、おにいさん!」
「す、すまん……」
怒涛の如く捲し立てられて、思わず謝ってしまった。
まあ、実際、浩介に悪いことをしてしまっているわけだが。
「俺、帰っていい?」
そう言って浩介は帰る気満々で立ち上がる。
「待て待て! わるいとは思ってるから、そこを何とか! な?」
藁にも縋る思い、とはこの事だろうか。
この時の僕には、頼れるのはもう浩介しかいなかった。
浩介はそんな僕の思いを察してくれたのか、再び座り直してくれた。
「はあ……ったく、仕方ねぇな……話せよ、事情を」
渋々と言った表情ではあったけれど、浩介は僕の話を聞く気になってくれたようだ。
持つべきものは友、ならず、幼馴染と言う奴だろうか。恩に着る。
僕は浩介にこれまでの経緯を包み隠さず話した。




