#3-5
勢いのまま喫茶店を飛び出した僕は、わき目を振らず走った。
「くそ……僕は一体何してんだ……」
後悔はあった。彼女にあんな事を言うつもりなんてなかった。
なんであんな事を言ってしまったのかも分からない。
けれど、彼女の言葉を聞いていると、どうしても我慢できず、感情的になってしまった。
彼女に悪いところなんてなくて、何もかも僕が悪いって分かっているけれど、それでも、喫茶店に戻る気になれなかった。
だから、走った。
自分がどこに向かおうとしているのかも分からないまま、ただがむしゃらに走った。
その勢いのまま見知らぬ路地に入った途端、左肩に何かがぶつかった。
「いってーなっ! どこ見てやがる!」
すぐに左側から荒げるような声が聞えてきた。
振り向くと、そこには茶髪で、耳にピアスをしている如何にも柄の悪い男が肩を押さえて立っていた。
その隣にも似たような格好の男がいる。二人ともこちらを怖い顔で睨んでいる。
一目でまずい人間と関わったと分かった。
「ご、ごめ――」
慌てて謝ろうとしたけれど、それが意味のないことだとすぐに分かった。
僕はぶつかった男に胸ぐらを掴まれる。
「てめぇ、いてーだろうが! なめてんのか、ああ!」
「い、いや、だから……」
男はこちらの言うことに聞く耳を持とうとしない。
まずい、このままじゃあ……。
「口ごたえしてんじゃ――」
男は拳を振り上げる。殴られるのは確定。
そう思って僕は目を瞑った。
「――ん? お前、どっかで……」
「え……?」
殴られると思っていたのに、いつまでもその衝撃も痛みもなく、聞えてきた声に僕は恐る恐る目を開ける。
男は依然として、胸ぐらを掴んでいたが、僕の顔をしげしげと見ていた。
「お前……もしかして、北中の高杉……か?」
「え……なんで知って……」
この状況下で思いもしない単語を耳にして驚いた。
北中と言うのは、今年の三月まで僕が通っていた中学校の事だ。
けど、どうしてこの男は、その事だけじゃなくて、僕の名前まで知っているのか……。
「やっぱり、そうか。あの高杉か!」
「なに? こいつ知ってんの、お前?」
「ああ、まあな。中学ん時に、野球でちょっとな」
「なに、同じチームだったとか?」
「いんや、残念ながら敵チーム」
「なんだそれ? まさか、お前、コイツに負けたの?」
「うっせーな! 笑ってんじゃねぇよ!」
「うっは、やっぱそうか。ウケる」
「お前ね……」
男達は好き勝手話し始めた。
会話の内容を聞く限り、僕はコイツと以前会ったことがあって、しかもこの男がいた中学のチームと試合までしたことがあるらしい。
けれど、僕にはコイツの顔になんて覚えがない。
男はニンマリと嫌な笑みを零して、こちらに視線を戻した。
「なあ、森中の遠藤って覚えてっか?」
「森中の遠藤……?」
男が口にした中学名には憶えがあった。
その中学とは中学時代に何度か試合をしたことがあったけど、遠藤という名前にも憶えがない。
と言うか、選手の名前までは憶えていない。
印象に残る選手ならともかく、森中自体さほど強いチームではなかった。
「チッ……やっぱ憶えてねぇわな」
「くっは! コイツ、忘れられてやんの。なっさけねー!」
隣の男が冷やかす様に笑っている。
どうやら遠藤っていうのは、僕の目の前に立って、胸ぐらを掴んできている男のようだ。
「テメェは黙ってろ! 大体な、コイツに野球で勝てる奴なんて県内にいやしなかったんだよ!」
「え? なに、コイツ、凄かったの?」
「全国でも指折りのピッチャーだったんだよ」
「マジで!?」
「おうよ。な? そうだったよな? 高杉よ」
遠藤はヘラヘラと笑いながら問いかけてくる。
それは悪意のある笑みだった。
決して、僕の事を凄いピッチャーだとか、敬っているとかそんな風に思っていない表情だ。
その顔を見ていたくなくて、僕は顔を背けて何も答えなかった。
「なんだよ、何か言えよ? それとも何か? 元有名人さんはオレらなんか相手したくねぇってか? ったく、いつまで過去の栄光にしがみついてんだって話だぜ!」
「……ッ!」
遠藤の言葉に、思わず彼を睨んでしまった。
「なんだよ、その目は? 怖い顔してどうしたよ?」
睨んでいるのに男は笑っている。
けど、その目は決して笑ってなどいない。
コイツはきっと知っている。
僕が野球をやめてしまったことを。
それを知っててわざとこんな事を言っているんだ。
安い挑発だなんてことは分かっていたけれど、さっきの今で僕は冷静さを失っていた。
他人の気持ちなんて考えもしないこの男の言葉に、僕は我慢が出来なくなってしまった。
「……ふざけんなよ」
「あ? あんだと?」
「ふざけんなって言ってんだ! お前らみたいな奴に僕の気持ちが分かってたまるかよ!」
やめておけばいいのに、僕は感情を爆発させてしまった。
こういう輩達にとって、それは上手くないと分かっていたはずなのに。
男達は激高した僕の様子に顔を見合わせ、そして、ケラケラと笑い出した。
「なに、コイツ? 突然どうしちゃったわけ? 頭、おかしくなったのか?」
「ああ、全くだよな。きっと、あれだ。痛いところ突かれて我慢できなくなったとかじゃね?」
「なにそれ? どゆこと?」
「ああ? あー、そりゃあ、あれだ。コイツは――」
「ちょっとあなた達! そこで何やってるの!?」
遠藤の隣にいた男の質問に遠藤が答えようした時、路地の外から女性の声が聞えてきた。
その声に僕も男達も一斉に振り向く。
そこにいたのは、彼女だった。
「た、高橋さん!?」
「た、高杉君!?」
彼女は僕の顔を見て、驚いた顔をした。
どうして彼女がこんな所にいるのか?
まさか、僕を追いかけて……。
「おいおい、なんだよ? あの可愛い娘は……まさか、お前の彼女か?」
「ち、ちが……そんなんじゃない! あの娘は知らない娘だ!」
高橋さんをこんな奴らと関わらせたくなくて慌てて否定した。
けれど、遠藤はにへらとまた嫌な笑みを見せた。
「なるほどなるほど。そういうことか――よ!」
「あぐっ!」
遠藤は胸ぐらを掴んでいた手で僕を突き飛ばした。
僕はそのまま地面に尻もちをつく。
「高杉君!」
彼女が僕に駆け寄ってくる。
「大丈夫? 高杉君」
心配げな表情で尋ねてくる彼女に、僕はただ頷いた。
すると、彼女は何を思ったのか、キッと僕を突き飛ばした遠藤を睨んだ。
その様子を見ていた遠藤はさらに悪意の満ちた笑みを零した。
やばい、このままじゃ……。
「高杉よぉ、野球がダメになったからって、今度は女遊びか? 大方、昔は有名な中学生ピッチャーだったとか言って誑かしたんだろ? でなきゃ、怪我して野球できなくなった奴にこんな可愛い娘が見向きしてくれるはずないもんな?」
「え……怪我……?」
遠藤の言葉を聞いた彼女は、怪訝そうな声を漏らす。
「あ、彼女、やっぱ知らなかったんだ? だったら、教えてやるよ」
「や、やめろ!」
その先を言わせまいと、僕は叫んだけど、遠藤の口が止まることなった。
「コイツはよ、中三の夏に、右肩怪我して、もう二度とボールを投げれなくなったんだよ。全国有数の剛腕天才ピッチャーから一転、満足にボールも投げれなくなった残念な奴になっちゃったってわけ」
「くっ……」
遠藤から語られた事実に、僕は何も言えなかった。
嘘なら否定ができる。けど、それは事実だ。
だから、何も言い返せない。
「分かった? だから、そいつは君みたいな可愛い娘が一緒にいても何の得にもならないってわけ。君はね、そいつに騙されてたってわけよ」
「……」
彼女は何も答えない。 俯いて黙ったままだ。
「分かったら、そこをどいて、そいつをこっちに渡してくんない? まだ、そいつとは話したいことがあるのよ、オレら」
そう言われても、彼女はピクリとも動こうとしなかった。
まるで、遠藤の言葉が耳に入っていないようだ。
その彼女の様子に僕は何か嫌な予感がした。
「あー、それともなに? 君がオレらの相手でもしてくるのかな? それだったら、こっちとしても喜んで相手なるよ? 君がいるなら高杉なんてどうでもいいって言うか――」
吐き気がするような言葉を吐きながら、遠藤は彼女に近寄り、彼女の肩に触れようとする。
その時だった。
遠藤の左頬を吹き抜けるように、もの凄い勢いで何かが通り過ぎた。
「え……」
遠藤は何が起きたのか分かっていないのか、呆けた顔をして固まっている。
でも、何が起こったかなんて、すぐに分かった。
だって、彼女の腕が遠藤の顔の真横にあったんだから。
遠藤の頬は赤く滲みだしている。
「相手にしてもいいけど……私、こう見えても、空手六段だから、怪我だけで済むと思わないでね?」
彼女の後ろにいた僕には、その時、彼女がどんな表情をしていたのか分からない。
声の調子だっていつもと変わらないように思えた。
けれど、その時の彼女の体からは目に見えない黒いオーラみたいなものが見えたような……気がした。
「ひ……!」
そんな彼女を目の前にした遠藤は悲鳴を上げて、その場に座り込んでしまった。
恐怖のあまり腰を抜かしたのだろう。
遠藤は足だけズリズリと動かし、彼女から後退っていく。
「おい、何してんだ! 早く立てって! あの女、ぜってーヤバイって! 逃げんぞ!」
遠藤の連れであるもう一人の男が、遠藤の首根っこを掴んで彼を立ちあがらせる。
立ち上がった遠藤は、もう彼女を見ようとせず、代わりに僕を見て、恐怖で顔を歪ませながらも、僕を蔑むように笑った。
「は――ははっ! まったく、元北中のエース様が女の子に守られるなんて、情けねー事だぜ!」
そんなどうしようもなく事実であることを捨て台詞にして、彼らは僕達の前から走り去った。
彼らが去ると、彼女は僕の方に振り向いた。
その表情は、いつもの優しげな彼女そのままだった。
「大丈夫だった? 怪我はない?」
彼女は座り込んでいる僕に手を差し伸べる。
「うん……大丈夫だよ……」
差し伸べられた手を、僕は取らずに立ち上がって、お尻を払った。
「あ、あの……高杉君……さっきの事、なんだけど……」
「……事実だよ」
「え……」
「全部、本当の事さ。僕は怪我で肩を壊して、二度とピッチャーとして再起はできない。だから……」
「だから、嫌いなの? 野球が……」
彼女は悲しげな表情で尋ねてくる。
そこにはそうであって欲しくないという思いが滲み出ていた。
けれど、どんな顔を見せられても、僕の答えは変わらない。
「そうだよ。喫茶店で言ったのは、僕の本心だ。僕は野球が大嫌いだ」
今度こそ、ハッキリと告げる。
怒りや勢いに任せた言葉ではなく、ただ静かにその言葉を口にした。
だと言うのに、彼女は……。
「それは……嘘だよ」
「な……」
彼女は僕の言葉をまた否定した。
今度こそ伝わるようにいったはずなのに、彼女はそれでも認めようとしなかった。
「なんで……なんで、君はそう思うんだよ! 僕が嫌いだって言ってるんだ! それでもういいじゃないか!」
「……じゃあ、訊くけど、どうして君は野球が嫌いだって言う時、悲しそうな顔をするの?」
「え……」
その指摘に、僕の頭の中は真っ白になってしまった。
悲しそうな顔、そんな顔をしているつもりなんてさらさらなかった。
でも、彼女にはそういう風に見えてしまっていた。
だとしたら……今迄も……?
だったら……僕は……。
そう考えた時、何かが自分の中で壊れそうになって、耐えられなくなった。
僕はこれ以上自分の顔を彼女に見せまいと、後ろを向いた。
「……さっきは助けてくれて、ありがとう。でも、もう僕には関わらない方がいいよ」
「待って、高杉君!」
僕は彼女の言葉も聞かず、駆けだしていた。
どうして僕がこんな惨めな思いばかりしなければならないのだろう?
彼女と出会ってから、彼女に付き纏われ始めてから、嫌な思いをしてばっかりだ。
彼女と出会わなければ、僕は苦しまずに済んだはずだ。
「……くそったれが!」
違う。
そうじゃない。
彼女のせいなんかじゃないことぐらい分かっている。
悪いのは、全部僕だ。
弱い自分が悪い。
そんな事は分かっているけど……だけど、今の僕にはどうしようもなかった。




