#3-4
僕が野球部に入らなかった理由を彼女は訊かないとは決して言っていない。
今も彼女は疑問に思い、僕の口から訊きたいはずだ。
それは料理を食べ終え、マスターが珈琲と紅茶を持って来た後だった。彼女の方から口火を切った。
「野球のこと詳しいのは、やっぱり経験者、だったからなんだね。どうして黙ってたの?」
意外にも、彼女がしてきた質問はこちらが意図していたものとは違っていた。
「べ、別に話す必要はないって思ったから……」
「ふーん、そっか。でも、折角、友達になれたんだから、一言ぐらい言ってくれても良かったのになぁ」
彼女はジト目でこちらを見て、遠回しに非難してくる。
僕はその彼女の視線から目を逸らした。
悪いとは思っているけど、別に謝る必要はないと思った。
それに、僕が経験者であるかどうかに関わらず、今日、彼女の買い物に付き合うという目的は果たされたのだから、彼女自身が困ることなど何一つない。
だから、お礼を言われることはあっても、文句を言われる筋合いはないはずだ。
「はあ……ま、いっか。じゃあ、代わりに一つだけ私の質問に答えてくれないかな?」
「な、なに?」
来たと思った。遂にあの質問をされるのだと覚悟した。
「高杉君から見て、今の野球部はどう見える?」
「……は?」
一瞬、何を質問されたのか分からなかった。
「だから、青蘭高校野球部の実力についてだよ。高杉君から見て、現状のうちの野球部は甲子園に行けると思う?」
「ちょ、ちょっと、待って! どうして、そんな質問をするわけ?」
てっきり野球部に入らなかった訳を訊いてくるものばかりと思っていた僕は、彼女の質問の意図が掴めなかった。
「どうしてって言われても……私ね、野球の知識はそんなにないけど、名倉君が凄いピッチャーだってことくらいは見ていれば分かるの。それに他の人たちだって必死に毎日練習してる。だけど、名倉君はまだまだダメだって」
「浩介が?」
「うん。自分もまだまだだけど、甲子園に行くには、もっと野球部全体のレベルアップが必要だって言うの。だから、キャプテンや顧問の先生――監督にね、練習時間を増やすように進言したらしいんだけど、監督はそんな必要はないんじゃないかって……練習メニューについて、名倉君と監督の間で意見が分かれちゃって……」
「へ、へえ……浩介が……」
実力が足りないなら、練習時間を増やすしかない。
実に浩介らしい野球バカで脳筋的な考えだ。
一年のくせにキャプテンや監督と揉めてる辺りも浩介らしい。
そう言えば、中学の時も僕や監督と練習メニューで揉めてたことがあったっけ。
「高橋さんは、どう思ってるの?」
「わ、私? 私は……私もそこまでする必要はないかなって思ってる。今のままでも十分みんな頑張ってるし、それに名倉君は今のままでも凄いよ。一年生なのに、もう野球部の誰よりも凄いんだよ。見ているだけだけど、私にだってそれくらいは分かるもん。だから、そこまでして追い込まなくてもいいかなって……」
なるほど……やはり、そういう考えでいるのか。
ならば、それは彼女に限ったことではないのだろう。
この間、練習を見学した時に部員に覇気がなかったのも頷ける。
「正直言って、浩介の言う通り、今の野球部じゃ、甲子園には行けないと思う」
「え!?」
彼女は驚きの声を上げた。
きっと、浩介の実力を知っている僕がそう言うことが意外だったのかもしれない。
けれど、それこそが間違った考えだ。
「いいかい? どんなに凄いピッチャーやバッターが一人いたとしても、野球は勝てるもんじゃないんだ。確かに、浩介は高校野球の中じゃ、トップレベルだと思うけど、それでも絶対に打たれないなんてことはない。というか、絶対に打たれないピッチャーなんてこの世にはいない。だからこそ、ピッチャーの後ろを守る守備陣もしっかりしてないとダメなんだ。あと、攻撃に関してもそうだよ。ホームランなんてものはそんなにポンポン飛び出すわけじゃない。野球ってのは、ヒットやバントを重ねて、打線を繋げ、塁を進ませて点を取るもんなんだから。だから、個人個人のレベルとチームとしてのレベルが高くないと絶対に甲子園なんて行けないよ」
「そ、そうなんだ……だから、名倉君は練習時間を増やそうと……」
「いや、僕が言っているのは、そういうことじゃないよ」
「え……?」
「僕が言っているのは、今の野球部が浩介一人に頼りすぎてるってことだよ。さっき言ったから分かると思うけど、野球は一人でするもんじゃない。グラウンドに立つ9人とベンチで指示出す監督と控え選手、全員でやるもんなんだ。たった一人に頼っているようなチームじゃダメなんだよ。つまり、君たちは練習時間を増やす以前に意識の問題があるってこと」
それが部員全員とは言わないが、少なくとも多くの部員がそうなのだろう。
まあ、三年生が引退した直後の新体制なのだから致し方ない部分もあるが、だからこそ、新キャプテンがそれに気づいて引っ張って行かないといけない。
一年生の浩介には、まだ部員の意識改革なんてことは立場上難しいのだから。
浩介自身もそれが分かっているから、練習時間増やすなんて脳筋的な発想になってしまったのかもしれない。
「だからさ、まず君達がしないと行けないことは――」
そこまで言いかけて、僕は慌てて口を噤んだ。
見れば、彼女は神妙な面持ちでこちらを見ている。
既に笑顔は消えていた。
しまった。言い過ぎたかもしれない。部外者である僕が野球部の方針についてとやかく言うのは筋違いだ。彼女が気を悪くするのも当然だ。
「そっか……そうだったんだ!」
「……へ?」
彼女は突然声を張り上げ、僕の考えとは全く正反対に納得した表情を浮かべていた。
「私、分かったよ! そうだよね、皆が同じ目標に向かって頑張らないと意味がないよね。目標とその目標を達成するために何が必要かチームで共有することが大切だったんだね。私、今度キャプテンや監督にそういう場を作ってもらえるように掛け合ってみるよ!」
「あ、ああ……うん、そうだね。それがいいじゃないかな。こ、浩介の助けにもなると思うし……」
彼女の勢いに、僕は驚くと同時に感心してしまった。
こちらが最終的に言いたいことを彼女は、僕が言う前に理解した上、自ら浩介とチームの間の架け橋になろうとしている。
その思慮深さと行動力には、正直驚かされる。
「ありがとう、高杉君! 君のお陰で、私、やっとマネージャーとしての第一歩が踏み出せそうだよ!」
「……ッ!」
彼女は嬉しそうに、眩しいくらいの笑顔で、お礼を言ってくれた。
その笑顔があんまりにも輝いて見えたから、僕は直視することができず、視線を珈琲カップにずらした。
その時、僕は自分がしたことへの愚かさに気がついてしまった。
「それにしても、野球部でもないのに、この間練習風景を見ただけで、こんなことまで分かっちゃうなんて、やっぱり経験者は違うね。凄いよ!」
「そ、そんなこと、ないよ……」
「ううん、凄いよ! だって、私、感激しちゃったもの! 凄いよ!」
「……」
彼女はうれしそうに声を弾ませて、何度も凄いと言う。
けれど、それは僕にとって呪いにも似た言葉で、僕の気持ちを苛ませていく。
彼女の中で、僕への期待が大きくなっていっているのが、彼女が僕に何を期待しているのか、手に取るように分かってしまったから。
そして、そんな僕の気持ちに気づくはずもない彼女は、決定的な言葉を口にした。
「でも、そこまで真剣にこの間の練習を見てたなんて、君も本当に野球が好きなんだね?」
「――」
思わず視線を上げ、訊いてきた彼女の顔を凝視してしまった。
「野球が好きか?」、それは彼女と初めて一緒に登校した時にも問いかけられた質問だった。
あの時、僕はそれにすぐに答えることができなかった。
けれど、今回はその答えは用意してきていた。だから……。
「……違うよ、高橋さん。僕は野球が好きなんかじゃないよ」
「……え?」
僕の言葉に、一瞬、彼女は表情を凍り付かせた。
けれど、すぐに取り繕うように笑顔になった。
「ま、またまたー、そんなこと言っちゃってー。別に照れなくてもいいんだよ?」
彼女は茶化す様に笑いながらそう言って、僕の言葉を信じようしなかった。
そんな彼女に僕は首を左右に振って、ハッキリと口にした。
「違う。僕は野球が嫌いだ。だから、君とは違うよ」
敢えて、彼女の目を見ながら言った。
野球が好きだと言う彼女には、それが本心であることをちゃんと伝える必要があるから。
彼女は僕の言葉を聞いて、困ったように目を泳がした。
そして、今度は彼女が悲しそうにカップへと視線を下げた。
「……それは嘘だよ」
「嘘?」
「うん、嘘だよ。君は野球が好きなはずだよ」
「な、なにを言って……僕自身が嫌いだって言ってるんだよ?」
「そうだけど……それは君の本心じゃないよ」
彼女は頑なに僕の言葉を信じようとしない。
それだけ、彼女の僕への期待は大きなものになっていたのかもしれない。
だからこそ、僕はそれを裏切ることしかできない。
期待は、苦しいだけだから。
「何を根拠に、そう思うの?」
「根拠は……ないよ。けど、君は野球の知識もいっぱい持ってる。去年まで野球もやってた。私に野球について教えてくれるって約束もしてくれた。だから……」
「僕に野球の知識が無駄多いのは、親が野球好きだったせい。確かに去年まで野球をやってたけど、実際、今はもうやってない。君に野球の事を教えることになったは、君が無理やり僕にそうさせたからだよ」
「そ、そんな……」
僕の突き放すような言葉に彼女は瞳を潤ませ、言葉を詰まらせる。
けれど、彼女はそれでも認めようとしなかった。
「でも……違うよ! 君は、野球が好きなはずだよ! もう一度野球をしたいって思っているはず――」
「ふざけるなよ……! 君に僕の何が分かるって言うんだ! 僕のこと何も知りもしないくせに、知ったような口を利くなよ!
僕は野球なんて二度とやらない! 野球なんて大嫌いだ……!」
認めようとしない彼女に、つい感情的になりすぎて、気づけば、僕は立ち上がって怒鳴っていた。
そんな僕に彼女は驚いたのか、茫然として表情を失ってしまっていた。
「ぁ……」
彼女のその顔を見て、僕は自分のしたことの重大さ思い知った。
辺りを見渡せば、僕ら以外には客はいなかったが、マスターがギョッとした顔でこちらを見ている。
「ごめん、今日はもう帰るよ」
僕は居た堪れなくなって、彼女の顔も見ずにそう告げて、小走りにマスターのいるカウンターの方へと向かう。
「あ、待って、高杉君!」
背後から彼女が呼び止める声が聞えてきたけれど、それを無視して、カウンターにお札二枚を置く。
もちろん、マスターの顔を見ないようして。
「ごめん、マスター。お釣りは、また今度取りに来るから」
そうは言ったものも、たぶん二度とこの店に来ることもないかなと漠然と思った。
僕はそのまま店を出ていこうと、出入り口に向かう。
「お、おい、達也!」
マスターの呼ぶ声が聞えてきたけれど、それも無視して、僕は店を出た。




