第44話 新しい季節の訪れ~その4~
ミンスター城にある応接間。
ロヒインは手紙を読み終わり座っていたソファーに首を預けると、深いため息をついた。
その方には、手紙の内容を食い入るように見つめるマドラゴーラの姿がある。どこか気まずそうだ。
「え~!? なになに~~~~~っ!? ちょっとそれ見せてっ!」
突然目の前の手紙が、誰かにとり上げられた。
マドラゴーラはすぐに後ろに振り返る。
「あっっ!? ちょっとヴェル様っ!? 勝手に人の手紙読まないでくださいよっっっ!
読んで楽しい内容じゃないんですからっっっ!」
現れた野性的な少女の足元で飛び跳ねるマドラゴーラだったが、いかんせん身体が小さすぎる。
ヴェルは容赦なく手紙に目を通し始めた。
「いいじゃん、ちょっと見せてよ。
なになに『ロヒインへ。あなたのことをもはや考えたくもないと言う父に代わり、わたしが手紙を書きました。キロンの……
キロンの大商店の嫡男に生まれ将来を期待されたあなたが、魔導師になりたいと言ったのに大反対したのは覚えてますね。
それでもあなたは勝手に家を出ていきましたが、やがて勇者つきの魔導師となったことでわたしたち家族一同も、最近は少しこれでよかったのではないかと思いはじめてました。
ですが、最近のあなたの行動には、がく然としました。
どうして、あなたは魔王と契約して、魔物になる選択をしたのでしょう。
しかも言われている理由が、女性になって勇者と結婚したいからという話じゃないですか。
あなたが幼いころから、女の子の世界に興味があるのはわかっていました。
だけどまさか本当に女の子になりたかったなんて。
しかもそれだけじゃなくその望みをかなえるために、あの恐ろしい魔王と契約をかわすなんて、わたしたちは、わたしたち家族は絶対に許すことができません。
あなたの家族はわたしたちではなく、魔王です。
ですからあなたはもうわたしたちの家族ではありません。
店に関してはご心配なく。あなたの弟が立派に継いでくれます。
……ですからわたしたちのことは一刻も早く忘れなさい。
そして絶対に店には姿を現さないこと。
出来れば、わたしたちの住んでいるキロンの街にも近寄らないでください。
母、より……」
ヴェルの声は、最後には消え入りそうになってそっと手紙を下ろした。
「あ~あ、だから人の手紙は勝手に読まない方がいいって言ったのに……」
「ご、ごめんマドラちゃん。
アタシ、てっきり勇者クンの恋文だと思って……」
「何考えてんですかっ! コシンジュさんは今大スランプ中なんですよっっ!?
手紙を書いてる余裕なんかないじゃないですかっ! アンタ意外とアホですかっっ!?」
マドラゴーラに思い切り責め立てられ、泣きそうになっているヴェル。
一方のロヒインは、あらためて深いため息をついた。
「やはり、こうなりましたか。覚悟はできていました。
でもわかっていてもはっきり明言されると、ちょっとショックですね」
少しぼう然としていたヴェルだが、やがてはげしく首を振った。
「いやいや! 絶対違う! 絶対違うよっ!?
キミの家族、理解がたらなすぎるっ!
もっと魔王サマや、キミの悩みについてもっと理解すべきだよっっ!」
そしてヴェルは眉を吊り上げてこぶしを握った。
「くっそ~っ! あったまきた!
こうなったらキミの実家に乗り込んで、ガツンと言っといてやる!
わかるようになるまでとことん言い聞かせてやっからねっっ!」
「よけいなことはやめてください。わたし、気にしてませんから」
「い~や! 納得できないね!
だって、キミの家族なんでしょ!? 家族だったら……」
「いいから関わらないでくださいっっ!」
ロヒインが声を荒げると、ヴェルは思わずきょとんとした。
ロヒインは、すぐに気まずい表情になった。
「……すみません。でも、これはわたしと家族の問題なんです。
時間はかかるかもしれませんが、わたしの、わたし自身の手で解決させてください。
お願いします」
実際には、ロヒインにはこれを解決する気力などなかった。
とっくに縁が切れていたと思っていた実の家族のことなど、正直忘れたいとすら思っているのだった。
つられて気まずい表情になっているヴェルだったが、やがて思いなおしたように笑顔を作り、長いソファーのロヒインのとなりにどっかりと座りこんだ。
そしてこちらのマントの下からのぞく白い太ももを軽くパンパンと叩く。
「ま、元気出して!
手紙に書いてある通りこれからは魔王サマも家族なんだから、あの人に思いっきり甘えちゃっていいんだよ!?
さみしかったら、アタシらもついてるんだからさ!」
「ありがとうございます。
みなさんがついてくれるおかげで、わたしもずいぶん楽しい思いをさせていただいてます」
ていねいに頭を下げたロヒインに対し、ヴェルはくちびるに人差し指を当て、首を大きくかしげた。
「ロヒインちゃんって~、誰に対しても敬語だよね?
そんなに気ぃ使わなくってもいいよ? アタシむしろそういうの苦手だしっ!」
「そうですか。でもわたし、よほどの相手じゃないとすぐ敬語を使っちゃうタイプなんです。
まあここはそういう性格だと思って、あまり気にしないでください」
「ふ~ん、そうなんだ。まあいいけど」
後ろからマドラゴーラが「まあいいけどって……」冷や汗ぎみに言う。
「ところで、勇者クンにも敬語使っちゃうわけ……
あ、これ言っちゃまずかったか、ゴメン」
「気にしないでください。
よかったらコシンジュのことに関して、お話ししてもいいですよ?」
ここでヴェルは思い切り目をキラキラさせた。
「ホント!?
実はぶっちゃけ、思いっきり聞いてみたかったんだよね! 教えて教えてっ!?」
「でもわたし予定が……あ、いや今日は大丈夫か。
いいですよ? それじゃ、なにからお話ししましょうか」
そして、2人はマドラゴーラを巻き込んで大いに盛り上がったのだった。
夜になり、チチガムは妻に呼び出された。部屋に入るなり夫は声をかける。
「大丈夫か。ずいぶん悩んでるみたいだが」
夫婦の寝室でベッドに座りこむリカッチャは、愛する夫に目も向けずに言う。
「ねえ、正直言ってちょうだい。
わたし、正しいことをしてるのかしら」
「コシンジュのことか。
いや、俺は否定しない。リカッチャ、君の選択は正しいよ」
妻が「母親だから?」と少しだけ顔を向けた。
チチガムは首を振る。
「コシンジュだからだ。あいつは優しい子だ。
これ以上、争いごとに巻き込みたくないという君の気持ちはよくわかる」
それを聞いてリカッチャは深いため息をつき、そっと目を閉じた。
「昔、あの子はケンカすら嫌いな子だったわよね。
他の子たちから『勇者の子孫なんだからもっと自覚もてよ』って言っていじめられても、あの子はずっと『なんで人は戦わなくちゃいけないんだ』の一点張りだった」
「あいつらしいよな。でも、もっともだ。
この世界では魔物とだけじゃなく人間同士でさえ、時に無意味に争う。
ある時は個人同士で、ある時には国同士で争い、そこで人が死んでいく。
そのことを嘆く気持ちは、俺にも理解できる」
ふたたび目を見開いたリカッチャは、そっとこちらの方を向いた。
「ねえ、覚えてる? わたしがあなたにひかれた理由」
チチガムはうなずいたが、リカッチャは勝手に先を続けた。
「わたしの家は前国王陛下によって廃嫡された、貴族の名門だった。
でもわたしはそのことに不満はなかった。
むしろわたしの家族が何の疑問も持たずに、他人よりぜいたくな生活を送るほうがイヤでたまらなかった」
相手がうんうんとうなずき続けるのを見て、リカッチャは顔を戻した。
「権力を失ってもランドンにしがみつく両親を見て、心底うんざりしていた時にあなたと出会った。
わたしと同じ元貴族なのに、もとからぜいたくな生活を嫌っていたあなたの家族を見て、わたしは強くひかれたの。
もちろんあなた自身がとっても素敵だったこともあるけれど」
チチガムが赤面して「わ、わかってるじゃないか」と言うと、リカッチャはひかえめに笑った。
「わたし、この家族の一員になりたいと思った。
勇者の子孫なのになぜ両親が反対するのかわからなかったけど、わたしの心に迷いはなかった」
ここで、妻ははっきりと夫の顔を見つめた。
「わたし、勇者の家族の一員である自覚を持つ気はなかったの。
正直、今でも」
「わかるよ。
君は心の底では勇者の妻、あるいは母になるつもりはなかった。
君が結婚したのはカリバーン家であって、勇者の家じゃない」
「情けないと思うかしら?
勇者の家に嫁いだのなら、もっと覚悟を決めるべきなのかしら」
「死んだ父や、兄ならそう思ったかもしれないな。
だけどこの家の今の当主は、この俺だ。
俺は君を尊重する。そして誰にも文句は言わせない」
「そう、ありがとう。心の底からそう思うわ」
そっとほほ笑んだ妻に対して、チチガムは「なにを今さら」と言い、思わせぶりな笑顔でそっとベッドに腰を下ろした。
「少し元気が出たみたいじゃないか。
それなら、今夜は久しぶりに盛り上がるか?」
言いつつ妻をそっと押し倒そうとするが、妻はなぜか夫の胸に手を当て、押し返す。
「いいけど、ちょっと待って。少しやりたいことがあるの」
「なんだ、まだ家事が残ってるのか。
あんまり待てないから、手伝おうか?」
「そうじゃなくって、コシンジュのこと」
「コシンジュ? こんな夜更けにか?」
いぶかしむ夫に対し、リカッチャは笑顔で首を振った。
「あなたのおかげで、勇気が出たわ。
わたし、決めたことがあるの」
チチガムはそっと眉をひそめた。「本当に、それでいいのか?」
「チチガム。あの子はもう大切な人がいるのよ?
あなたなら、わたしがピンチの時、必ず助けに来てくれる?」
「当たり前に決まってるだろ。
リカッチャ、俺は世界より君の方が大切だ」
そう言って、愛する妻と笑い合う。
リカッチャは夫の胸をポンと叩いた。
「そう言ってくれるのはうれしいけれど、世界のことも大事にね」
夜が更けて、ロヒインはようやくヴェルから解放された。
話の間にヴェルの仲間や、さらにベアールの家族まで話に加わり、大きく脱線しながらずいぶん時間がかかってしまった。
しかし、ロヒインの心は満足感であふれていた。
新しい、そして何より暖かい仲間とのふれあいを経験し、ロヒインは今まで感じていた孤独が気のせいだったことに気づかされた。
ロヒインは最後のやり取りを思い出す。
「わたし、新しい家族ができたんですね。
これからは、みなさんのことも大切にしていきたいと思います」
ベアールの妻であるウィネットが、肩に手をかける。
「わたしたちのこともだけど、コシンジュさんたちのことも大切にね。
彼らも、あなたにとってはかけがえのない、仲間なんだから」
「仲間っていうより、将来のダンナさんだけどね~!」
「ちょっ! ヴェルさんなに言ってんですかっ!」
あわてるロヒインを見て、その場にどっと笑いが起こった。
ただ1人ふてくされるドゥシアスが、頭の後ろで手を組みながらふんぞり返る。
「あの勇者と結婚するつもりなのかよ。
どう見ても、まだガキじゃねえか」
「ドゥシアスさん、あなたが言っても説得力ありませんよ?」
「んだとぉ!? オレさまはこう見えてもお前よりよっぽど年上なんだぞっ!?
センパイだ、大センパイだっ! すこしはうやまえっっ!」
そう言って立ち上がってロヒインを指差すドゥシアスを見て、マルシアスのほうがしらけた顔で黒いグローブに包んだ人差し指を彼に突きつける。
「気にするなロヒイン、こいつはいつまでたってもオコチャマだ。
魔族は寿命が長い分精神の発達も遅れがちだが、そもそもこいつは論外だな」
「その通りですわ。もともと賢い子だとは言えないもの。
きっと大の大人になってもこのままではなくって?」
そう言って笑うマーファを見て、ドゥシアスはムキになる。
「んだとぉ~~~~っ!
やんのかこらぁっ! お前ら、今すぐ表に出ろやぁっっ!」
ヴェルがジト目を向けて腕を組む。
「いいけど、街から大分離れた場所にしてよ?
あんたが暴れるとたいていロクなことにならないから」
「おっしゃる通りだ。だけどそうするのは面倒だから、俺はパス」
マルシアスにコケにされ、ドゥシアスは拳を握るしかない。「おんどれ~~~~!」
それを見て仲間と笑うロヒインに、彼の妹のピモンが話しかけた。
「げんき出してね。きっと、ゆうしゃさんも元にもどるから。
そしたらえんりょなくおよめさんになってあげてね」
どこか幼げな彼女に言われ、ロヒインはこっくりうなずいた。
「楽しかったですね。
これでコシンジュさんたちがいたら、もっと盛り上がるでしょうに」
マドラゴーラに言われ、ロヒインは満足げにうなずいた。
「すべてが終わって、コシンジュが立ち直ったら、みんなで集まろう。
きっと楽しい宴になるだろうから」
浮かれていたロヒインだが、何かの気配を察した。
ロヒインは眉をひそめ、つぶやく。
「マドラゴーラ、後ろから不穏な気配がある」
「えっ!? マジっすかっ!?」
ロヒインはそっとマントの中を開き、「隠れてっ!」と告げた。
夜のため均整のとれた身体つきが見えない暗がりの中に、マドラゴーラは急いで入り込む。
「……おやおや、気づかれたか。
さすがは殿下の直参だけのことはあるな」
聞き覚えのある声に、ロヒインは顔の向きを変えずに声をかける。
「ヴェルゼックか。一体何の用だ?
わたしはお前と友人になった覚えはないぞ」
柱のかげから、そっと動き出した闇の貴族は皮肉な笑みを浮かべる。
「ククク、大先輩に対して失礼だな。
魔王軍では規律が第一だぞ?」
ロヒインはマントをひるがえしながらクルリとうしろを向いた。
「だまれっっ! お前がコシンジュにしたことを忘れたかっっ!
いかなる理由があろうと、わたしはお前がしたことを絶対に許さないぞっっ!」
にらみを聞かせるロヒインに対し、ヴェルゼックは不敵な笑みで近寄ってくる。
片手を後ろにし、もう一方の手でするどい爪の先をいじくる。
「君はそう言うが、俺は殿下にとって貴重な戦力だ。
つまり、俺はいまだ君と並ぶ魔王軍の最高幹部の1人、ってわけだ」
「ヴェルゼック。お前が信用ならないことは殿下もお見通しだ。
よもやフィロス神の化けの皮をはがすだけで満足してるはずがあるまい」
「ほう、俺も狂人と言う化けの皮をかぶっているとは思わないのか」
「信用できないな。まったくもって信用できん」
至近距離まで近寄ると、相手はロヒインがだいぶ見上げなければならないくらい背が高い。
自分が168あるとすると、相手は190は軽く超えているだろう。
「安心するな。
お前はデーモンやダークエルフには気に入られているようだが、それ以外の魔族どもの信用は、無に等しい」
「十分だ。わたしはデーモン族だ。
穏健派の彼らにさえ気にいられればそれでいい」
「だが、調子に乗っていると足元をすくわれるぞ。
時に、君はナーガ族のエドキナ君にずいぶん嫌われているようじゃないか」
「よく知っているな。
魔王軍の参謀に加わり、今や強硬派の筆頭格か。
だが人間たちを嫌っている以上、さらに出世する可能性はないだろう」
すると、突然相手は顔を耳元に近づけた。
ロヒインは思わず身じろぎする。
「いいや、彼女は必ず出世する。今に見ているがいい。
そして早いうちに、仲良くしておいた方がいいぞ」
「知ったような口を。
貴様、よくそんなことが断言できるな」
「神の本質を見抜いた男だぞ?
俺の忠告には素直に従ったほうが身のためだ。いいや……」
ヴェルゼックの手が、ロヒインの肩におかれた。
すぐにはねのけようとするが、いきなり強い力でつかんだ。
「ロヒイン、
君は、このヴェルゼックの妻となれ」
ロヒインはすぐに目を見開き、「いやっっ!」と言ってもう一度相手の手をはねのけた。
「お、かわいい声をあげるじゃないか。もはや身も心も完全に女だな」
どこかなめまわすような視線を、いまいましさ全開でにらみ返す。
「いきなり何を言いだすっっ!
貴様、本当に狂っているのかっっ!」
「もちろん正気だとも。
俺はな、自分で言うのもなんだがハンサムだ。
だがなぜか誰もよりつかない。
疑問には思うが、将来の伴侶は自分で探すしかない」
「当たり前だっ!
お前のような不気味な奴に、誰が身を捧げるものかっ!」
ロヒインは厄払いするかのように、マントの触られた部分を払いのける。
「だがなぜだっ! なぜわたしなのだっ!?
わたしがいずれ納得するとでも思っているのかっ!?」
「ああ、納得するさ。
君は、コシンジュ君以外には誰とも結婚できないだろう?」
「ずいぶんと言い切るな。
たしかにわたしが元男だと言う理由で、敬遠する殿方は多いだろうが」
「だが、俺にはわかるぞ。
君は美しい。俺だけが、君の本当の価値を理解できる」
そう言ってアゴに手を触れようとするのを、ロヒインは身をよじってかわす。
「忘れるな。わたしには将来を決めた人がすでにいる。
彼がいる限り、お前はわたしをものにすることができないぞ」
「だが、奴はいずれ死ぬ」
ロヒインはまたしても驚愕に目を見開く。
「……バカなっっ! コシンジュが死ぬわけがないだろうっ!
だいいち、彼がもう一度旅に出るわけがないっ!」
しかし相手はゆっくりと首を振った。
「いいや、奴は再び立ち上がるさ。
ロヒイン、君のためにね」
ロヒインはハッとした。
たしかに、彼が自分のことを意識しだしたのなら、ふたたび武器を手に取る可能性は、ある。
「だが、それで奴は命を落とすさ。
この、俺の手によってね」
そう言って、ヴェルゼックはするどい爪を胸元でつき立てる。
ロヒインは遠い目をした。
「そうなれば、わたしは自ら死を選ぶぞ。
お前は永遠に望みを失う」
「それはさせんさ。たとえ力づくでも、君は俺のものにする。
ククク、楽しみだ。
光を失い人形になり果てた君を、この手にかき抱く日が来ることをね。ククククク……」
不気味な笑い声をもらすヴェルゼックを見て、ロヒインは眉をひそめた。
ところが、ここでヴェルゼックはちらりと顔を横に背け、ニヤリと笑った。
「……いいや?
なんならここで、君を無理やり俺のものにする。そういう手もあるか」
ロヒインの全身に鳥肌が立った。すぐに身構える。
「貴様っ! このロヒインとやり合うかっっ!
言っておくがこの殿下の直参を押し倒すのは容易ではないぞっっ!」
再びこちらを向いたヴェルゼックは、口元を大きくゆがめた。
「魔剣を手にしていない状態で、まともにこの俺と張り合えるのか?」
今度こそ全身が泡立った。
思わず身体に手をやる。
「くそっっ、こんなときにっっっ!」
杖を部屋に置き忘れたのを後悔しているうちに、ヴェルゼックは向かってきた。
あえなくしがみつかれたロヒインは必死に抵抗するが、女の身体で素手での戦法を得意とする魔物相手に、なすすべがない。
「ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハァァァァァァァァァァッッッッ!」
ヴェルゼックの汚い手が、抵抗するロヒインのマントを容赦なく破いていく。
「ろ、ロヒインさんっっっっ!」
中から現れたマドラゴーラが、残忍な魔族の追及を必死に逃れ右往左往する。
それを見て必死でこらえていたロヒインの目が大きく見開かれた。
「……いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!」
貞操の危機を悟り、思わず叫びあげるロヒイン。
奥でさわぐ声が聞こえるが、パニックのあまり耳に届かない。
「スターロッドさま、あそこですっ!」
「おのれっっっ!」
何かが真横からやってくる。
するとヴェルゼックが勢いよく退き、それは何もない場所を通り過ぎた。
ロヒインは自由になったことを悟るが、まだ冷静にはなれない。
Uターンするそれをぼう然と見ると、先にいたスターロッドの手元に黒い円環が帰ってきた。
「廊下で大騒ぎしたら、普通誰かがかけつけるに決まっておるじゃろうが。
ヴェルゼック、貴様真正の馬鹿か?」
相当な侮辱にもかかわらず、ヴェルゼックはとぼけた顔で両手をあげる。
「いやはや、警備の数が多すぎましたな。
さすがに今おそいかかるのは早計でした」
「バカ者めっっ!
このような狼藉、必ずやファルシスに報告させてもらうっ!」
ヴェルゼックは首をすくめ、ゆっくりと後ろ歩きしだした。
「まあいい。どうせ彼女は俺のものになる。
あわてず時を待とう、ククククククク……」
そう言ったきり、ヴェルゼックは柱の中に消えた。
スターロッドの視線がこちらを向いた。
ロヒインも自分の身体を見ると、ボロボロになったマントの中からがくがくと震える白い身体が見える。
それを隠そうとするかのようにあわてて身を伏せて、床に散らばったマントの切れ端を拾いはじめた。
「そのようなこと、しなくてもよい。
お前のマントは魔力が込められた生地だ。すぐに元に戻る」
途中で手を止め、いたたまれなくなったロヒインは顔をくしゃくしゃにゆがめた。
「う、うぅっ。ううぅ……うぅっっ!」
とめどなく、目頭から熱いものがこみ上げる。ロヒインはそれを止めることができなかった。
自分で決めたことなのに、ロヒインはつい女になったことを後悔してしまう。
するとスターロッドのほうから弱々しく声がかかった。
「……女の身体は不便じゃ。
いくら魔族と言えども男相手に力の勝負となると、最後には負けてしまう。
そして一生消えない傷が残る」
妙に意味深な発言を聞いて、ロヒインは思わず顔をあげた。
「……スターロッド様、もしかして……」
ぶぜんとして腕を組むスターロッドは、こっくりとうなずいた。
「遠い昔、一度だけじゃ。
わらわの場合は完全にやられた。
相手は格下の醜いバケモノじゃったが、不覚を取って力勝負で負けた。
プライドがズタズタになったよ。
立ち直るのにずいぶん永き時をかけた。最後の最後で開き直った」
「ごめんなさい。変なことをお聞きしてしまって……」
「よい。
これでお主が立ち直れるなら安いものじゃ」
首を振るスターロッドは、それでもクルリとうしろを向いてしまった。
ロヒインは顔を向ける。
この肌もあらわな美しい身体には、目に見えない深い傷が刻み込まれているのだ。
それを見て、ロヒインはいたたまれない気持ちになった。
「ロヒイン、お主はコシンジュのものじゃ。
じゃが奴に魔族になる素養はない。ゆえにその一生は短い。
もし傷つけばただでさえ短い時間を、ふいにするぞ」
スターロッドのすらりと伸びた白髪が、チラリと横に向けられた。
「ロヒイン、大事な身体じゃ。
これからは杖を常に持ち歩け。寝る時もそばにおけ」
そしてスターロッドは優美な足取りで歩き始めた。
「いつか立ち直る奴のために、その身体は大切に守れ……」
ロヒインは立ち上がり、ペコリと頭を下げた。
そばにいるマドラゴーラが、切なげに黒い瞳をゆがめる。
夜遅くになって、部屋着姿のコシンジュは下の居間に呼び出された。
「なんだよお袋。もう寝ようと思ってたのに……」
少し眠そうな顔をしたコシンジュ。
テーブルの上でおとなしく腕を組む母親の姿を発見し、真面目な表情になる。
「コシンジュ。あなた本当に、ロヒインちゃんを助けにいきたいの?」
「……まだ、迷ってる。
行きたい気持ちは強いけど、まだ不安の方が大きい」
「あなたにとって、ロヒインはその程度のものなのね」
言われ、コシンジュは思い切り顔をしかめた。
「お袋に、まさかそんな冷たい一言が出てくるとはな。
オレが死んじゃってもかまわないのかよ?」
「そんなわけないでしょう? ふざけたこと言わないで」
妹たちは寝静まっているので、あまり大きな声は上げられない。
そのかわり親子の口調はとげとげしくなる。
「わたしだって、いまだに抵抗はあるわ。
でも考えてごらんなさい。
ロヒインちゃんは、絶対コシンジュに会いたがってると思うの。
まわりが魔物ばっかりに囲まれて、彼、じゃなかった彼女は絶対さみしいと思うの」
言われ、コシンジュは腰に手を当ててうつむいた。
そしてゆっくりとあごをあげる。
「お袋。オレ、本当にあいつを助けに行っていいかな?」
「イサーシュ君もよ。
彼はあなたを待ってないと思うけど、きっとあなたの力が必要になる時が来る」
「ヴェルゼックっていう、すっげえヤバい奴とやり合うことになるんだけど」
「うっ、それはちょっとね。
だけど、あなたがロヒインちゃんたちを助けるためなら、仕方ないわ」
しかし、それでも迷っていた。
眉間に手を当て、じっくりと考え込む。
「コシンジュ、お母さんにはわかってる。
ふたたび戦いの舞台に立ったら、あなたにはとても辛いことが待ってる」
「ああ。だから怖いんだ。
オレが、いったいどんな奴になっちまうのか……」
苦しげな声をあげるコシンジュだったが、リカッチャの「大丈夫よ」のひとことで顔をあげる。
「大丈夫。あなたには、わたしたち家族がついてるんだから。
ロヒインちゃんも、イサーシュ君もついてる。
あとの仲間はネヴァダさん以外知らないけど、大切な人があなたにはたくさんいるじゃない」
コシンジュは目を見開いた。
そうだ、なぜこのことに気付かなかったのだろう。
「そうか、俺には守るべきものがあるんだ。
お袋たちやロヒイン、イサーシュ達みんな。
そしてランドンの人たち、北大陸の人たち、ゾドラを含めて、世界中のみんな。
あと一応ファルシス達も入れとくか。守る必要ないと思うけど。
みんなみんな、おれにとってかけがえのない、大切なものだ」
「そう、わかってるんならいいわ。
だとしたらあなたは大丈夫よ」
コシンジュは、はっきりとうなずいた。
迷いはきれいさっぱり消えてなくなっていた。
「だけど、あなたがするべきことは、わかってるはずよね?」
ここでリカッチャはキッと鋭い視線を向けた。
「あなたが与えられた使命は、あくまでロヒインちゃんたちを守ること。
そして、ヴェルゼックとかいう変な化け物を倒すことだけよ? わかってる?」
コシンジュの脳裏に変な考えが浮かんだが、すぐに打ち消した。
「当たり前だろ。
ただでさえ恥をかくのに、よけいなことしてどうするんだよ」
「それならよかった。
だとしたら、もうお母さんは何も言えないわ」
一瞬ほおがゆるんだリカッチャは、今度は強いまなざしを息子に向ける。
「絶対、ロヒインちゃんとイサーシュ君を、無事に連れて帰りなさい」
コシンジュは、母に向かって力強くうなずいた。
2階の寝室に戻ったコシンジュ。
昨日までは正気を失い別の家に泊まっていたため久方ぶりの自室なのだが、コシンジュはベッドには向かわず窓の方を開けた。
涼しい風が、部屋の中に入りこんでくる。
季節はいよいよ冷気をこの地に運んでくる。
コシンジュは空を見上げた。
乾燥した空気が、星々をはっきりと描き出している。
母にはああ言ったが、コシンジュの中に、ある思いが生まれはじめていた。
ファルシスと、フィロスのこと。
自分にとって因縁の相手と、自分の運命を狂わせた2つの元凶のうちの1つ。
こいつらと、必ず決着をつける。
その想いが込み上げてきたとたん、あふれて止まらなくなってしまった。
どんどん意欲がわいてくる。
あふれる想いが、これからやってくる苦難への不安をどんどん押しつぶしてしまう。
もう迷わない。オレは戦う。
たとえ名誉ある勇者ではなく、すすけた心をかかえる戦士になり果てたとしても。
……『俺』は戦う。
必ずヴェルゼックを倒し、ロヒインを迎えに行き、ファルシスやフィロスとの因縁に、必ずや決着をつけて見せる。




