第39話 おつかいの日々~その6~
アリドネが突然片方の爪を振りあげた。
するともう一方の爪から離れよりまっすぐ伸びた赤い糸が、大きくしなりながらこちらへと向かっていく。
身の危険を感じたコシンジュは素早く飛びのく。
とたんに先ほどまでいたクモの巣がぱっくりと切り裂かれ、大きな穴を開いた。
コシンジュは身が縮みあがる思いでそれに目を向ける。
「どうだいっ!? これがアタシの真の力だよ!
この特別製の糸は、オマエが着ているギンガメッシュの革と同じく物理、魔法耐性に優れる!
その力を失った棍棒で受け止めたとしてもすぐに真っ二つになっちまうよ!」
アリドネがムチを扱うがごとく、赤く長い糸を縦横無尽に振り回す。
そのたびに彼女の足元の巣が軽く切り裂かれ、小さな穴を次々と開ける。
コシンジュは予想以上のまずい状況に置かれたことに気づいた。
もしこの巨大な巣が不安定な状態になったら、自分は真下にある奈落の底にまっさかさまだ!
しかも今の自分には敵の武器に対抗できない。
吐き捨てるように「クソッ!」と叫びながら、急いで端にある安定した足場へと向かう。
しかし「させないよっ!」の叫びでアリドネがムチをふるい、前方の巣を軽々と引き裂いた。
穴が広がるに伴いクモの巣もそこにたれ下がったため、体重が前にかたむきそうになりコシンジュは引き返さざるを得なかった。
Uターンしたコシンジュに、アリドネの赤いムチが迫る。
最初は横に着たそれを伏せてかわせたが、今度は真上からおそいかかり、あわてて逃げるとそこからも穴が開いた。
とたんに身体がそこに吸い込まれそうになった。
「わ、わあぁっ! お、落ちるぅっ!」
懸命に巣をよじ登り、なんとか安定した場所までたどり着く。
思わず胸をなでおろし、アリドネをにらみつけてしまう。
「ちっ! ちょこまかと! だったらこれはどうだいっっ!?」
アリドネがあらぬ方向にムチをふるい、離れた場所の足元を切り裂く。
コシンジュはすぐにその意味を理解した。
「おいやめろっ! 巣を壊すなっ! お前まで落っこちるぞっ!」
「心配無用さ。この巣を作ったのはアタシだからね。
お前だけをつき落としてアタシだけ助かる手順は心得てるさ」
言いながらアリドネは楽しげに巨大な巣をどんどん切り裂いていく。
そのうちに巣は穴だらけになっていき、1人と怪物1体分の体重を支えきれなくなったのか、とうとうなにもしなくても穴は勝手に広がっていってしまう。
コシンジュは必死に前に進み続けるが、時おりアリドネの赤いムチに妨害され方向を変え続けなければならない。
対する蜘蛛女自身はくずれつつある足場を6つの足で器用に渡り歩き、あっという間に洞穴の端にたどり着いた。
コシンジュはあと少しのところで岩の足場にたどり着くところだった。
しかしそこで何かがプツンと切れた。
はいつくばっていた巣が、とうとうコシンジュを支える力を失ったのだ。
「わ、わああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!」
コシンジュは急速に縮みあがっていくクモの糸とともに、前方にある岩の壁に叩きつけられる。
傾斜がかっているのですぐに落ちることはなかったが、しがみついている糸の束がブチブチと音を立てながらちぎれていく。
コシンジュは急いで握り手を持ち替え、いまや1本のロープとなってしまった白い糸を懸命に登り続ける。
「ケケケケケケケッッ! 万事休すってことだねっ!
待ってな、いまとどめを刺しに言ってやるよっ!」
後ろを見ると、アリドネのクモの肉体がまるで重力を無視するように岩場に張り付いてこちらへと向かってくる。
振りまわしている赤いムチのリーチはまだこちらに届かないようだが、それは時間の問題だ。
「ああクソッ! やべぇっ!」
ここまで命の危機を感じたのは久しぶりかもしれない。
そう思わせるほどの大ピンチにおちいっていた。しがみつくロープすら、ブチブチとちぎれていまにももたない。
それでもコシンジュは必死に登り続けた。
こんなところで、こんなところで死んでたまるかっっ!
「……ぐぼぁっっ!」
思わぬ叫びに、コシンジュはつい振り返ってしまった。
上半身をのけぞらせるアリドネの身体が、動かない。
まだ人間らしい美しいボディラインを残している彼女のわき腹に、深々と赤い刃が突き刺さっている。
「少々お遊びが過ぎたようだな……お前の子分はとっくに全滅したぞっっ!」
ロヒインがまっすぐ突き刺した剣を、一気に引き抜く。
マントがふわりと待って、これまた下着のようなものを身につけただけの美しい身体をおおい隠す。
アリドネは剣を引き抜かれた後も力を失わず、血がほとばしる傷口を両腕で押さえる。
その間にロヒインはこちらに向かってきた。
「コシンジュッ! 捕まってっ!」
急いで彼女が手を伸ばすと、コシンジュはそれをつかみ取った。
間一髪、相手の手を握った瞬間に白い糸は完全にちぎれ、下の暗黒空間に吸い込まれていった。
それに目を向けているうちに、ロヒインが人間の女性ではありえない強い力でコシンジュの身体を引っ張り上げた。
あっという間に安定した足場に乗り上げたコシンジュはついつまずいてヒザをぶつけた。
「あっ、いったぁっ!」「ご、ごめんコシンジュ!」
ロヒインは思わず肩に手をかけるが、コシンジュの視線は別のほうに向けられていた。
見るとアリドネはゆっくりと自分たちのいる足場へとやってくる。
「よくも、よくもあがあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!」
ヒステリックに叫んだアリドネがムチを振り上げ、ロヒインもまた剣を前にかざす。
しかし横から別の影が現れた。
チチガムが横幅の広い剣を振り下ろすとアリドネの身体から大量の血がほとばしり、チチガムの身体を少し汚す。
「に、にわかぁぁぁぁぁぁぁ……」
意味不明の声をあげて崩れ落ちるアリドネ。
上半身が地面に激突し、うつぶせのまま動かなくなった。
「大丈夫かコシンジュ!」
チチガムがすぐに駆け寄り、ロヒインがかける方とは反対の肩に手を置いた。
「あ、ああ。うん……」
ケガはないが、全身の力が抜けた。
ロヒインとチチガムがすぐにその顔色をうかがう。
コシンジュは小さく首を振りつつ、背中に戻していた棍棒に手をかける。
顔の前まで持っていくと、深いため息をついた。
「オレ、ほとんど何もできなかったな。
棍棒の力なしじゃ、オレはなんにもできやしない」
「そんなことない! コシンジュはよくあそこまでもったよ!」
「ロヒインの言うとおりだ。
お前は成長した。前のコシンジュだったらとっくに奴にやられていたところだ」
コシンジュはうなずきながら立ち上がるが、気は全く晴れない。
チラリと魔物のなきがらに目を向け、実感する。
初めて思い知らされたかもしれない。
単なる人間と、身体能力と魔力に優れた怪物との力の差を。
気を取り直して入口の方に向き直ると、トナシェが座り込んでいた。
近づくと彼女はどうやらクモの死体に目を向けているようだ。
なんでそんな不気味なものをじっと眺めているんだと言おうかと思ったが、やめた。
トナシェがコシンジュの存在に気づき、振り返る。
「このクモたち、あのバカな親玉さえいなければ、こんなところで命を落とすこともなかっただろうに……」
ロヒインはあらぬ方向を向いて深いため息をつく。
「それが魔物というものだよ。
主がいなければ、なにもできない。
逆に言えば主の命令に忠実に従って捨てられるだけの、単なるコマでしかない」
「これが、魔界……」
そう言ってトナシェがクモの死がいに向き直る。
コシンジュもまた、魔界のあまりにきびしい現実に背筋がふるえる思いだった。
実はこのあたりもう次話に移ってたんですけど、次話タイトルがあまり関係ないし、キリがいいので39話に急きょ加えました。




