第33話 夜明けの帝国~その3~
ファルシス達は来た道を逆に進む。らせん状の大階段がようやく終わろうとしている。
「それにしても、これでよかったのかのう?
いくらコシンジュ達が先を急いでいたとはいえ、これだけのことで民は我々を受け入れるじゃろうか」
腕を組みぶぜんとするスターロッドの横で、ファルシスは前を見据えたままつぶやく。
「短い時間で、できるだけのことは尽くした。
あとはエンウィーとマージと、そして勇者達の出方次第だ」
「気になりますよねそれ。
コシンジュ達にとっては北の連合の命運がかかってるんだから、今後の動向を無視できるわけがない」
ベアールが首をすくめていると、ファブニーズがぶぜんとした面持ちで言った。
「しかしわが軍の2度にわたる侵攻と、この場内の襲撃で、帝国軍はいくばくかの打撃を負った。
帝国が新体制に移行するのに合わせ、すぐに北に軍を送る、というわけにはいくまい」
「うむ。そのあいだに我らにどれだけのことができるか。
ここからまたふんばりどころじゃな」
スターロッドが言っているうちに、ファルシス達は中庭に出た。
数々のローブ姿と、血まみれの道化師のなきがらが横たわっている。
ベアールが黙りこくるなか、ファブニーズが口を開く。
「アンカーの死に際し、国内の情報統制も立て直さなければならないでしょう。
宰相のグラトーニは城内の各省庁を指揮できる立場にありました。
スローラスの管理は各地の寺院、神殿にも及びます。
無論プラードに率いられていた大勢の騎士が倒れた軍も整理せねばらないでしょう」
「いずれにしても、空いた穴は慎重に埋めなければな。
一体どれだけの時間がかかることやら」
ファルシスがそうまとめて、いまだ動かぬベアールを無視して歩きだした。
赤い騎士がそれに気付いてあわててそれを追いかける。
下層階まで降りてきた。中庭に続く回廊を戻っていくと、圧倒的な規模をほこる吹き抜けがある。
吹き抜けには最下層へと続く大階段が折り重なっており、アーチ型の窓がひっそりとそれを照らしている。
「なんだか騒々(そうぞう)しいな。
この先の大フロアで兵士たちが騒いでおるようじゃ」
スターロッドの声に従い、先にあったバルコニーの柱からそっと様子をうかがった。
赤いカーテンの先にあったのは、大伽藍の真下に陣取っていた無数の黒い鎧。
「やったぞっっっ!
魔王たちがあのろくでなしどもを片づけてくれたっっっ!」
「これで俺たちは自由だっっっ! もう奴らのムチャクチャな命令に従わなくて済むっ!」
「魔王様っ、バンザ~~~~~~~~イッッッ!」
それを聞いていたスターロッドがこちらにふりむく。
「心配などしなくとも、奴らはこの状況がわかっておるようじゃぞ?」
「いや、もう少し様子を見よ」
ファルシスの言う通り静かにしていると、兵士の様子が少し変わった。
「しかし、相手は魔王なんだぞ!?
あんな連中に国をおさめさせて、本当に大丈夫なのか!?」
「お、俺はこわいっ!
かつてのご先祖様のように、コキ使われてボロボロにされるっ!」
「イヤだぞっっ! 俺はあんなバケモノども、信用できないっっ!」
「……やはり魔族を一概には信用できませんか。
先代が犯してきた前例も彼らをふみとどまらせる一因となっているようです」
ファブニーズがつぶやくと、ファルシスは小さく首を振った。
「思った通り一筋縄ではいかんか。
さて、どうやって奴らを説得するか」
ところが、そこでベアールが前に進み出た。
「待てっ! お主では……!」というスターロッドの制止も聞かず、テラスにある手すりに両手を乗せて下を向いた。
「違うんだっっっ! みんな聞いてくれっっっ!」
数人がこちらに気づき、上空を見上げる。
騎士たちがどんどんこちらの方に目を向けていくと、あれは誰だ、あれがデーモンの長だと口々に訴えはじめる。
「みんな知ってくれっ!
俺たちは別に、お前らを力で支配しようだなんて思ってないっ!
俺たちはただ単に、苦しみにあえぐみんなを救いたかっただけなんだっっ!」
「ふざけるなっっ! 魔物の分際で、勇者みたいなことを言うなっっっ!」
1人が兜をもぎ取り、ベアールに投げつけた。
頭のあたりにゴツンと命中し「うっ!」とうめくが、それでもひるまない。
「違うっ! 魔物イコール悪だなんて考えは、殿下のオヤジが植え付けてきた偏見だっっ!
たしかに魔物の中にはお前らをナメてる連中も少なくない!
だけど魔物の中にだって、人間と仲良くしたいと思ってる奴らはいっぱいいるんだっっっ!」
「そうやって言いくるめる気なんだろう!
どうせ後々になってムチャクチャなことを言いだすんだろうがっっ!」
「それは人間だって一緒だろっ!?
現にお前らを苦しめてた5人だって、最初は大帝バンザイってつき従ってたじゃないかっ!」
騎士たちが口ごもる。
ベアールは冷静に見守った。しかし……
「くそっっ! バケモノめっっ!
誰がお前らの言うことなんて聞くもんかっっっ!」
騎士たちがいっせいに兜を脱ぎ、ベアールに向かって投げつける。
身体じゅうに黒鋼の重い兜がぶち当たるが、ベアールは抵抗するどころかうなだれてつぶやき始めた。
「化け物……ばけ、もの……」
兜の嵐が吹きあげるなか、ベアールは突然兜を脱いだ。
ちょうどそこに黒い兜が正面衝突し、中の顔がガクンとのけぞる。
それを見た騎士たちが静まり返った。
青白い顔を戻したベアールは、額から流れる血を拭いもせず、赤い瞳で騎士たちに真剣なまなざしを向けた。
「ああそうさっっ! 俺は化け物以外の何者でもない。
お前の言うとおり、俺は暗闇の中で生まれたみにくい化け物さっっ!」
そしてようやく額の血を拭い、ぬれる指に目を向けると、その手をぐっと握った。
「魔界では、誰もが戦わないと生きていけない。
強くならなきゃ、生き残れない。
俺はそれがイヤだった。ここや天界のように、争いの少ない世界に生まれたかった」
騎士たちがだまりこんでいると、ベアールは両手で手すりをぐっと握った。
「それが今日終わるかもしれないんだ!
お前らの力を借りれれば、魔族は無意味な争いをせずにすむかもしれないっ!
ムダな血を流さなくて済むかもしれないっっっ!」
ベアールの顔がくしゃくしゃにゆがんだ。
いまにも涙を流しそうな勢いである。
「なぁっ! ダメなのかっっ!?
魔族が平和を願って、人間と共存しようと思っちゃダメなのかっっ!?
俺たちはあんな薄暗い地下の中で、いつ終わるかわからない争いにずっと身を投じなきゃいけないのかっ!?
俺たち魔族は生まれただけで悪だと思われなくちゃいけないのかっっ!
教えてくれっっっ!」
言葉だけなら、その内容を信じきることはできなかっただろう。
しかしベアールの切実な訴えには、ごまかすことのできない何かが感じられた。
これまで地上で言い伝えられてきた、魔族に対する常識を打ち破ることのできる、何かを。
ベアールの横に進み出た者たちがいた。
彼が横に目を向けると、スターロッドとファブニーズの姿があり、ベアールは思わず目を開いた。
「なるほど、ファルシスが前に言った通りじゃ。
こういうときは言葉巧みに訴えるより、態度で見せつけるに限る」
黒騎士たちが傷ついたダークエルフを見て動揺している。
美しい身体が傷によって汚され、なんともいたたまれない気分にさせた。
スターロッドは太ももについた傷を手のひらでぬぐい、血に染まったそれを騎士たちに見せつけた。
「どうじゃっっ! これでも信用せぬかっ!
我らが前もって襲撃を予告したのは、お主らに全力を尽くさせ我らの本気を見せつけるためぞっ!
これだけ我らを傷つけておいて、今さら我らのことを悪しき者と言うなら、許せんぞっっ!」
ファブニーズが血に染まったローブを、両手を開いて見せつけた。
「見よっ! この竜王と呼ばれた究極の魔物が傷ついた姿をっっ!
お前たちはもはやドラゴンに対し無力ではないっっ!
我らが道を踏み外そうとするのならば、お前たちは力づくで我らを排除することができるっ!
魔族と人間はもはや対等の関係なのだっっ!」
ベアールはあ然とし、「あんたら……」とだけつぶやいた。
2人がそれを見てニヤリと笑う。
そして後方からファルシスが現れる。
3人が横にどくと、剣を引き抜いてそれを高くかかげた。
「見よっっ! これは大帝クリードグレンが手にしていた剣っっ!
我、魔王ファルシスに託されたっっ!
これこそが、余に他意のない証っ!
不服のある者は、今すぐこの城を立ち去れっっっ!
決して、決してとがめることはせんっっ!」
一同は騒然となった。
さわぎは徐々に大きくなり、次第に完成へと変わっていく。
「新帝だっっ!
偉大なる魔王が、帝国の新たなる君主の座についたっっっ!」
「第2代大帝の誕生だっっっ!
大帝陛下、ファルシス万歳っっっ!」
「いや魔王だっっ! 偉大なる魔王っ、ファルシス陛下だぁっ!
ば、ばんざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいっっっっ!」
大歓声となった。
それを見たファルシスは剣を一層高く上げると、空が晴れたのか窓から差し込む光が強くなり、刀身がまぶしく反射された。
「「「「ファールシスッッ! ファールシスッッ! ファールシスッッ! ファールシスッッ!」」」」
大軍勢が、いっせいに魔王の名を連呼する。
感極まったのか、ベアールが思わず手すりから離れ、後ろを向いた。
兜のない顔を両手でおおう。
「やったぁっ! やったんですねっっ!
俺たちは、俺たちは賭けに勝ったぁぁぁぁっっっ!」
スターロッドがそっと近寄り、そっと肩に手をかける。
ベアールは顔を隠したまま何度もうなずいた。それを見る彼女のそのまなざしは温かい。
ファブニーズは眼下の大集団を見て鼻で笑う。
「なんと愚かな、一部が恭順を示しただけで、すべてがひっくり返りおったわ。
しかしこれこそが、多くの魔族がもちえない力。
これが人間の団結力というものなのか」
「美しい。見事だ。
これほどのものが、わが力となるのか……」
ファルシスは剣を下ろし、両手を手すりについてそれを覗き込んだ。
「そうだ。余はこれがほしかったのだ。
わが名の下で、1つにまとまるこの力。
これこそ、余が心のそこから望んでいたもの……」
ファルシスの瞳から、一筋の涙がこぼれた。
ファブニーズはそれを見てつぶやく。
「殿下、実は私、この計画にあまり乗り気ではなかったんです。
私はドラゴン、人間とはかけ離れた存在です。
私から見れば、人間は家畜や食料のようなもの。それを命がけで守れというのは受け入れがたい事実ではありました。
いままでは殿下の御為にしぶしぶ従ってまいりましたが、殿下のそのご様子を目にして、考えが変わりました」
そしてファルシスとともに眼下の騎士たちをながめ、腕を組む。
「この力の前に、いつかドラゴンの恐ろしさが忘れ去られるかもしれない。
ですが、いまではそれでもいいのではないか、そう思えてまいりました」
少し落ち着いたベアールとスターロッドも前に進み出て、歓喜に包まれた群衆をずっとながめ続けていた。
いまだ冷めやらぬ興奮の中、ようやくファルシス達は吹き抜けの中に戻った。
そこにはなんともいえない表情の美しき姫君の姿があった。
ベアールが思わず「姫さま……」とつぶやく。
「父上が逝かれた。
帝国の未来をお前たちに託せた事に安堵し、力尽きたのだろう……」
ベアールが前に進み出て、もう一度「姫さま……」と訴えかけた。
相手は首を振る。
「よい。何も言うな。
かくなる上は、お前たちにこの身をゆだねるだけだ。好きにするがいい」
「身体は従っても、心は従わぬと申すか」
ファルシスの問いかけに、エンウィーは顔をそむけた。
「責めているのではない魔王、お前は善処した。
父の魂は救われたのだ。それでもわたしは、あっさりとお前の真心を受け止められるものではない」
「……いい加減心をお開きください。
魔王殿下はそのような人物ではありません」
奥から従者が現れた。
幼いころから彼女を見守って来たという彼は、妙なことを口にする。
「殿下は非常に心正しいお方です。
この私が証明いたします」
あまりに唐突なことを言うので、エンウィーは首をかしげた。
「なにを言う『エルゴル』?
お主、こやつが人間として忍び込むまでは会ったことがなかったのではないのか?
それともいつの間に深い関係になったのだ?」
魔王一行がいっせいに低い声を発した。
エンウィーが振り返ると、特にベアールの狼狽ぶりがひどい。
「え、エルゴ……エルゴルって……」
プルプルと指をふるわせていると、従者エルゴルはベアールに向かってこうべを垂れた。
「お久しぶりです『親方』。
里にいる同胞たちの様子はどうでございますか?」
そう言うエルゴルの全身が急に煙に包まれた。
エンウィーはまた振り返ると、そこにはあきらかに人とは思えない異形の形をした生き物がたたずんでいた。
そのせいでうら若き姫君が「ひっ、ひぃぃっっ!」と言って飛びあがってしまう。
スターロッドがニヤリとしてベアールの代わりに話しかけた。
「おうおう。
お前近頃めったに姿を見せないと思えば、この城の中にずっと潜入しておったのか」
現れたのは、全身を赤く染め上げられたデーモンだった。
ほぼ全裸で、肝心の部分に前かけがついているだけである。
両脚は逆関節で、腰の位置から下が毛むくじゃらになっている。
体躯が一回り大きくなり、立派な角が生えている顔面はどちらかと言えば獣に近い。
だからファルシス達が変装した彼を目の前にしても正体がわからなかったのだ。
「そんなっ!
わたしが生まれる前から大帝に仕え、ずっとわたしの従者としてつき従ってきたお前が、デーモンだっただとっっ!?
たしかにいつまでたっても若々しいままなのが不思議ではあったが……!」
ファルシスもさすがにこれにはおどろいたようで、腕を組んだままニヤニヤと笑う。
「余も不思議に思うぞ。
エンウィーの言う通りなら、我々が魔界侵攻作戦を計画してきたときから、ずっと帝国の内情を探っていたとは、こちらとしてもいささかおどろかされたな」
「ルキフール様の指示でございます。
たとえ大軍勢で攻めるとしても、帝国の牙城を突き崩すのは容易ではございません。
ルキフール様の千里眼では見通せない国の内情を、私が人として潜入することでうかがっていたのです。
おかげで数多くの実情が把握でき、今回の制圧にも大いに役立ちました」
そしてエンウィーに向かった。
ひざまずき、胸に手を当てて深々と頭を下げる。
「今まで素性を隠してきたこと、お許しくだされ。
最初は殿下の御為にあなた様につくことが責務だと思っておりましたが、長年あなた様のご成長を目にするにつれ、私も魔物ながら情が移りました。
そのことを常々重苦しく感じていたと同時に、今回このように最小限の被害で帝国を制圧できたこと、まことにうれしく思います」
それを見たエンウィーが、目から上を手で押さえよろめいた。
ファルシスが思わず支えると、彼女はそれをやんわりとしりぞけた。
そしてぼう然と天井を見上げる。
視線の先にはきらきらと光り輝く巨大なシャンデリアがあるが、それを見ているわけではないだろう。
「そうか、ある意味で私は、1人になってしまったのだな……」
ベアールがなんとか声をかけようとするが、なにを言ったらいいかわからずうつむいてしまった。
その時、別の人物が部屋の中に駆け込んできた。
「姫様っ! ご無事でしたかっっ!」
エンウィーが振り返ると、顔の色が濃い男がこちらまで近寄って来た。
「……まさか! マージ、お前なのかっ!?」
エンウィーはすぐに彼の両腕に手をかける。
マージは遠慮してゆっくりそれをどかした。
「今までどこにいたのだっ!
長らく連絡が取れないから心配していたのだぞっ!」
「ラシリスどのにかくまってもらっていたのです。
最近にいたっては、この方々に……」
そう言ってファルシスのほうを見る。
エンウィーもこちらに目を向け、納得した表情になる。
「そうか、お前たちにとっても、この男は必要だということか……」
「そんなことはいいのです。
姫様、陛下はご無事ですかっ!?」
エンウィーは真剣な面持ちでうなずいた。
「父上はご自身の塔におられる。会ってみるがよい」
何かを悟ったのか、マージはこちらの方にもみ向きせずに奥の方へとかけだしていった。
その後ろ姿を見送り、エンウィーはさみしげにつぶやく。
「反乱軍に身を置いていたとはいえ、マージは陛下に心の底から忠誠を誓っていた。
もう戻らないことを知り、どう思うだろうな」
その顔が、急に上に向けられた。
もともと泣きはらした後のようだったが、また涙が込み上げてきたらしい。
「マージの身を守ってもらい、感謝する。
どうやらわたしは本当の孤独にはならないようだ……」
それを聞いたファルシスが、横にいる赤と白のローブに問いかける。
「ファブニーズ。かすり傷と言っていたな。すぐに空を飛べるか?」
「お言葉ながら、殿下がどのようなことを考えておられるかは察しが付いております。
いささか下世話なことだと思いますが、喜んでこの翼、お貸ししましょう」
数分後、ファルシスはドラゴン体のファブニーズの背の上にあった。
小脇にエンウィーの身体を抱き、落ちないようしっかり支えている。
額に手をかざしつつ、エンウィーは真下に広がる風景を食い入るように見つめる。
「なんという高さだ。城から見た景色より、ずっとずっと高い。
生まれて初めて見る光景だ。おおなんと、遠くからしか見えなかったパンカレの街を真上から……!」
「いかにも。
でも余がお前に見せたいのは、もっともっと向こうのほうにある」
ファブニーズがしばらく巨大な翼をはためかせていると、次第に灰色の大地の色が明るく変わり始めてきた。
無数の岩山が並ぶ光景を見て、エンウィーが口元を押さえる。
「……なんと美しい。
城の外の世界とは、こんなにもまばゆく光かがやいておるのか」
「城の外には出たことがないと言っていたな。もったいないことだ。
あまりに大事であるゆえ、大帝はお前をとりかごの中に押し込めていたのだからな」
ファルシスは続いて、上空に目を向け、思いきり顔をしかめた。
「余にとっても、この光かがやく天空はまだ見慣れぬ。
夜に生きる我らにとってはあまりにまぶしいが、それでも空の青の美しさくらいはわかる」
「そうか、わたしにとっては時折目にする光景でも、お前にとっては初めてであったか……」
そしてもう一度大地に目を向ける。
エンウィーは鼻をすすり、目元をほっそりとした指でぬぐった。
「殿下、もうすぐ見えてまいります」
ファブニーズの声にあわせ2人が前方を向く。
次の瞬間、泣きはらしたエンウィーの両目が大きく見開かれた。
目の前に現れたのは、無数に波打った黄金に光かがやく大海。
砂丘に降り立ち、エンウィーはファルシスが見守る中、座り込んで輝く砂を手にすくった。
手のひらに盛られた黄色い粒はすぐにこぼれて、さらさらと細かい光を反射して滝のような流れをつくる。
「はじめて知ったぞ。
世界とは、こんなにも美しいものだったのだな」
「ここに住まう者たちにとっては過酷な環境でも、我らにとってはまばゆく世界なのだ。
余もこれを初めて目にして、いかに胸の内がふるえあがったことか」
ファルシスはただただ前方を見つめる。
彼の眼前には、果てしなく続く美しい稜線の山々が広がっている。
「お前が望めば、どこへでも行こう。
それこそ北の大陸へと行けば、この光景に勝るとも劣らない美しい世界が広がっていることだろう。
勇者たちが目にとめた、限りなく美しい世界がな」
ところが、ここでエンウィーがなぜかうつむいてしまった。
ファルシスが思わず目を向けると、彼女はゆっくりと首を振り始めた。
「いや、もういい。これを見ただけで、もうわたしは満足だ」
エンウィーは一度立ち上がった。
振り返ってもう一度ヒザを落とし、慇懃に頭を下げた。
「魔王、いいえ殿下。
今まであなた様のことを警戒しておりましたが、これで気分が晴れました。
わたくしは自身の意思で、あなた様のもとに身を置かせていただきたいと存じ上げます」
ファルシスが目を丸くしていると、エンウィーは顔をあげた。
いままで見たこともないような美しいほほえみだった。
「よろこんで、身も心もおささげいたします。
殿下、わたしをぜひあなた様の妃にお迎えください」
そのあまりの美しさに、ファルシスは笑いながら思わず目をそらしてしまった。
「ハハハハハハ。み、見損なったぞ。
お前はもう少し手のかかる女だと思っていた。
それを、これだけであっさりと受け入れてしまうとはな」
「おや?
殿下、簡単に心を開くような女はお好みではありませんか?」
エンウィーの優しい微笑みが、少し艶が混じった誘うような笑みになった。
ファルシスはちらりと視線を交えたあと、今度は赤面してうつむく。
「そうではない。
ただ少し意外だっただけだ。不意をつかれてまだ心の準備ができておらぬ」
言われ、エンウィーはクスクス笑いはじめた。
それを見たファルシスもため息まじりに低く笑った。
真後ろのドラゴンは興味なさげに、眉をひそめて周囲の砂丘を見回していた。
デーモン族にはレッサーデーモンとアークデーモンの2種類があります。それぞれ小柄で人に近い、大柄で獣人に近いという区別がありますが、戦闘能力に差はありません。
以外にも族長ベアールはレッサーデーモンであり、エルゴル、そして第1章に登場したガルグールはアークデーモンにあたります。上記のとおり2つのデーモンに能力差はなく、ベアールが両種族の長になることには何の問題もありません。普通にハーフも存在し、今後登場予定です。
基本的に温厚なデーモン族ですが、ガルグールのような例外も存在します。ガルグールはデーモン族では非常に珍しい強硬派であり、種族内では出世が見込めないことから地属性に転向しました。しかし地底魔団は首脳をはじめとしてアンデッドが多いため、なにかと孤立していました。第1章で単独行動していたのはそのためです。




