アイリスの覚悟
左近やヒメネスが会談している頃、華やかな戦勝パーティーの中で、明らかに挙動不審な男が1人いたのであった、そうヒメネスとアミリアに焚き付けられた左少将である。
左少将の目標は、ザルツ王国の各貴族の人質と言うべき、若い貴族の輪の中にいる、優雅にハーブティーを飲んでいるパンドラであるが、この男は、土壇場になって臆したのであった。
そんな挙動不審な左少将に、会場の警備隊長についていたセルゲンと、弾正府の指揮官で参加している藤永 弾正が、左少将に声をかけたのであった。
「おい、左少将!」
左少将はその言葉で、振り返ると、そこにはセルゲンと藤永 弾正がいたのである。
「こ、これは、セルゲン様と弾正大弼様……本日はどうされましたので?」
「いや、挙動不審なルタイ皇国の人がいると言われて、弾正殿と一緒に来たのだが……左少将殿は、一体何をされているので?」
挙動不審?この俺が?そんなはずは無いだろう、どこの誰だ?そんな事を言うのは?……待てよ、今騒ぎを起こせば、姫様に気付かれてしまう……そうだ、誤魔化そう。
「い、いえ……私は……その……そうだ、左近衛府の参加するパーティーに私が居ないのは、おかしいでしょう?」
「おい、左少将……今の思い付きじゃろ?……あぁ、そうか、そう言う事か」
最初は思いっきり疑っていた、弾正であったが、左少将の背後のパンドラが視界に入り、何かに気が付いたのであった。
「な、何ですか弾正様……」
「ほれ左少将、このワインを一気に飲んで勢いをつけて、行ってこい。こう言うのは、勢いが大切なのでな」
「い、いや某は……」
「解っておるわ、たまには年寄りの言うことを聞いて、これをグッと飲んで姫様を救出してこい」
「救出?や、やはり姫様は、お困りでしたか?」
その言葉にセルゲンは、一体何の事か解らずにいたのだが、弾正はそのまま話を続けたのであった。
「あぁ、あの小僧の娘じゃし、顔には出さんが、ワシには解る」
「やはりですか……」
「じゃから、このワインをグッと飲んで、姫様を救出して男になってこい」
「ありがとう御座います、弾正様」
そう言うと左少将は、弾正から出されたワインをグイっとイッキ飲みして、弾正に背中を叩かれると、意気揚々とパンドラの元に向かったのである。
「一体何の話ですか?」
「ただの、恋する男じゃよ……フラれたら酒のアテになって楽しいのに」
未だに理解できないセルゲンに、弾正は最後にボソッと悪魔の様な事を呟いたのであった。
そうだ、俺が助けないと、俺は左大将殿の側近だ、俺が助けないでどうする?
しかし、何て言って連れ出すか……しまったそこを考えていなかった。
ええい!最早なるようにしかならん!
その時の左少将は、戦場に行くような気概で、殺気に満ち溢れており、パンドラを囲んでいた貴族達は、その左少将の殺気に思わず退き、十戒の如く道ができたのであった。
その道をパンドラを討ち取りに行くかの様に、左少将は進みパンドラの前に出ると、さっきまでの勢いは何処へやら、耳の先まで真っ赤にして、緊張しながら手を差し出し言ったのである。
「ピ、ピャンドラ様……パンドラ様、わ、私と御一緒しては、頂けませんか?」
左少将がそう言うと、一瞬皆が固まっていたのだが、直ぐに若い女性陣からは歓声がおこり、男性陣からは不満の声が出たのであった。
当初はポカーンとしていたパンドラであったが、すぐに左少将の手を取り笑顔で言ったのである。
「もぅ、清信遅い」
「す、す、すみません……姫様」
「ほら、清信行きますよ。では、皆様そう言うことですので」
そう言うとパンドラは、貴族達に左少将の手を取りながら、貴族達に一礼するとそのまま、二人で外に向かっていったのであった。
戦勝パーティーの会場は、女性陣の「キャー!」と言った歓声が上がり、この逃走劇を盛り上げ、男性陣からは、明らかな落胆の声が聞こえ、ルタイ皇国軍の侍達は、左少将のとった行動に、思わず呆然と立ち尽くすしか無かったのである。
しかしその中で、苦虫を踏み潰した様な顔をしていた男性が1人いたのである、そうビートであった。
この男からすれば、何処の馬の骨か解らない男に孫を連れて行かれたのである。
普通は自分の娘に対して、そんな感情を持つものだが、この男は14日間も行動を一緒にした為か、パンドラを我が娘よりも溺愛していたのであった。
だが彼は、今は自分の感情を言う事はしない。
もしもここで、その感情を爆発させれば、親の左近がこの会場にいるので絶対に口出ししてくるだろう。
そこでもしも喧嘩となり、全軍撤退すると決めれば、再びこのザルツ王国は、窮地に立たされてしまう、今は取り敢えず我慢だ、我慢の時だ。
そんな事を思いながら、ビートは何も言えずにただ我慢していたのであった。
―――――――――
二人は祭りで賑わう夜のレンヌの街並みを、手を繋ぎ足早に歩いていた。
ただ恋人達が一緒に歩くと言うよりは、左少将が一方的にパンドラの手を引っ張り、下を向いて足早に歩きいていたのであったが、パンドラの隣を一緒に歩くヤマトの姿を見た通行人は、顔を青ざめて思わず道を譲った為に、ここまで誰にもぶつかる事は無く、来れたのであった。
ただ、左少将の身長は178でパンドラは155である。
その身長差の為、歩く歩幅が全く違う為に、パンドラは左少将に付いていくのが大変であった。
重力を操るスキルで浮こうかと思ったのであるが、それよりも左少将が何処に行くのか解らない。
なのでパンドラは、取り敢えずは左少将を止める事にしたのであった。
「清信……清信!もう少しゆっくり歩いて」
そのパンドラの言葉で、漸く立ち止まった左少将であったが、ここまで力強くパンドラの手を握り締めていたのに気が付き、思わずその手を離したのであった。
「あ……す……すみません」
「ホントにもう……それで王宮を出て、これから何処に向かうのですか?」
「あ……」
思わずそう言った左少将が辺りを見渡すと、そこは広場であった。
俺は一体何をやっていたのだろう……姫様に無理をさせて。
それに考えてみれば、俺が姫様を連れ出したら、左大将殿のメンツが丸潰れになるんじゃないか?
でも、ああやって連れ出した手前、もう戻る事は出来ないし……。
そう思って左少将が呆然としていると、パンドラは呆れた様に言ったのであった。
「まぁ、清信が頑張って連れ出してくれたのですから、良しとしましょう。
ともあれ、このまま戻るのも、あの貴族達がウザイので、このまま何処かに行きませんか?」
「で、では、知り合いの商人に、酒場を紹介してもらったのですが……良かったら行きませんか?」
「酒場ですか……まぁ良いでしょう。清信連れて行って下さい」
暫く考えてパンドラは了承し、ヤマトに乗ると清信の後に付いていったのであった。
――――――――――――
ここで良いんだよな?2ブロック先で、酒場の様な所って、ここしかないもんな。
しかし、看板の文字が全く読めない……今度、誰かにキリバ語の文字教えてもらうとするか。
「姫様、ここの様なのですが、一応開店しているか聞いてきます。少々お待ち下さい」
そう言って左少将は店内に入ると、店内は薄暗く各テーブルの上には、キャンドルが1つづつ置かれており、その明かりがユラユラと揺れて、ヒメネスがカップルに人気だと言った理由も解ったのであったが、店内には誰もいない。
営業はしているのだろうが、客が誰もいないのに、違和感を覚えながら、左少将は声を出したのであった。
「すみません、何方かおられますか?」
「ハーイ、少々お待ち下さいな」
そう言って厨房から出てきたのは、30代前半の女性であった。
「すみません、ここは海大亭で宜しかったでしょうか?」
「そうですけど、今日はまだオープンしておりませんの」
何か変だな、一応ヒメネスの名前を言ってみるか。
「そうなんですか、ヒメネスには2名で予約を入れていると聞いたのですが……」
そう言いながら、左少将が頭をポリポリと描いて、申し訳なさそうに言った時である、店の女性が静かに言ったのであった。
「何だ、ヒメネスさんのお知り合いですか。予約入っていますよ、これはヒメネスさんの指示なんです」
ヒメネスの指示?何故だ?
そう思っていると、女性は説明しだしたのである。
「ヒメネスさんがね、今日もしかすると、ルタイ皇国の位の高い御方が、お忍びで来られるかも知れないので、来店されるまで客を入れないでくれと言われまして。
あ、もちろんお代は頂いております」
おい……俺はこのヒメネスの借りを返せるのか?不安になってきた。
「何から何まですまないな」
「いえいえ。2階は全て個室になっておりますが、今日は全て貸しきりになっております。……ええっと」
「三好だ」
「すみません。三好様は本日は、階段を上がって一番奥の部屋を使って頂きます。
それと、中にもう1つ扉がありますが、そこはベッドルームになっておりますので、いつでもご自由に休憩してください」
「……!」
それって連れ込み宿の様じゃないか……俺に下心があるみたいに思えるし……無いと言ったら嘘になるが。
「解った、ありがとう」
そう言った左少将は、パンドラを連れてきて、指定された個室に向かったのだが、ヤマトも一緒に入って来て、店員達が固まってしまったのであった。
だが二人は、その様な店員を、全く気にせずに2階に上がり、指定された部屋に入ると、ヤマトは通路を守るかの様に、廊下でゴロンと横になったのであった。
薄暗い部屋に、パンドラと左少将は二人っきりで、隣同士に座り、窓から見えるレンヌの城を見つめていたのである。
そう、ここの部屋は、座席が窓の外に向いているソファーのみで、目の前には夜のかがり火に浮かび上がるレンヌの城が見えていたのであった。
その光景は、まさに闇夜に浮かぶ白亜の城で、ゲハルト達歴代の国王の権力の象徴であったのだが、こうして一歩引いて見ると、窓枠の形の影響も有るのだと思うが、まるで1枚の絵画の様に演出しているのであった。
二人の目の前のテーブルには、たくさんの料理が並び、二人の前にはワインがグラスに入れられて、置かれているが、二人はそれに手を付ける事無く、パンドラにいたっては、暇そうにワイングラスの縁を指でなぞっていたのであった。
確かにここが恋人達に人気が有るのは解るが、か……会話が無い。
非常に気まずい空気が漂っている。
ここが薄暗くて良かった。今の俺は、凄く情けない顔をしている、心臓の音がこの部屋に響き渡りそうだ。
何だよ俺、こんなにも意気地無しだったのかよ。
そう左少将が思っていると、パンドラは頬杖をついて左少将にポツリと言ったのであった。
「清信、今日はありがとうございました。正直に言うとあの場は非常に煩く居心地が悪く、最悪でしたので」
そうか、姫様にも愚痴は有るんだ……考えてもみれば、当たり前の話だよな。
あんなにも見世物の様に囲まれて、話しかけられて。
姫様は、戦場から戻ったばかりだぞ……でも立場上出なくてはならない……こんなの酷すぎる。
……今は身体と心を休ませてあげるか、そうだこれも全て左大将殿や姫様の為、これが忠義と言う物だ。
左少将は、そう思うとまるで憑き物が取れた様に、リラックスできたのであった。
「いえいえ、礼には及びません。左大将殿の側近として当たり前の事ですから。しかし姫様も大変ですね」
「そうなのですよ、聞いてください。
色んな者が挨拶に来て、名前を言っていくけど正直、覚えられるかっ!て思いますし、挙げ句の果てには、「姫様、私とダンスを踊りませんか?」って無茶振りをしてくるんですよ。
私はダンスなんか踊った事なんて無いのに……清信は踊れるのですか?」
「ハハハ、私は生来、踊りや舞踊等は、からっきしで御座いまして、裸踊り位しか出来ませんよ」
「は、裸踊り?」
し、しまった!やってしまった!俺のバカバカバカ、何で姫様に裸踊り何て言うんだよ……最低だ俺。
「す、すみません……俺、変な事を言って……」
「いえいえ、お父様も似た様な人なので、なれてます……って言うかお父様はもっと酷い、酷すぎます……下品です」
そう言ったパンドラは、左近のおぞましい記憶を、思い出しながら言ったのであった。
さ、左大将殿…貴方は娘の前で何をやっているのだ?……あまり触れないでおくのが良いだろう。
「で、では、まずはこのワインでも飲んで、食事にしましょうか……姫様?」
そう言った左少将の目線の先には、ワイングラスをジッと見つめる、パンドラの姿があったのである。
「姫様?」
「あ、あぁすみません……実はお酒を飲むのは、初めてなのですよ」
そう言えば姫様は、いつもハーブティーか紅茶だよな。
お酒を飲んでいる所は見た事が無い……絡み酒なのかな?。
「無理しなくて良いですよ、無理でしたらハーブティーを持ってこさせますので」
「いえ、何事も食べず嫌いは良くありません」
そう言ったパンドラは、グラスを持って何故かクンクンとワインの香りを嗅いだのであった。
何故、その様な嗅ぎ方なのであろうか?まるで犬や猫が、初めて目にする物を嗅いでいる感じだ……可愛い、飼ってみたい。
だぁ!ヤバい俺は何を考えているのだ!俺にはそんなつもりは毛頭無い、俺は姫様の愚痴を聞いて、少しでも姫様にの為になる事をするのみだ。
邪念よ去れ!煩悩よ去れ!
そう左少将が思っていると、パンドラはワイングラスを口に当てて一気に流し込んだのである。
「姫様、どうですか?……姫様?」
「お……美味しい……ヒックッ」
な、何でやねん!既に酔ってるし!何れだけ酒に弱いんだよ……失敗したかな?
でも……隣の部屋には、ベッドもあるしこのまま……って俺は何を考えている!そんな事をすれば、姫様を傷付けるばかりか、左大将殿の信頼を裏切る事になるし、何よりも我が名門三好家の家名に傷が……
左少将の心とは、比例した必死の笑顔に気を良くしたのかパンドラは、左少将の肩にポフっと、もたれ掛かったのである。
な、何だと!これは姫様は俺に何を期待しているのだ!……やはり手を出せと言っているのか?
ゴクリと唾を飲み込んだ左少将が、決意を決めた時であった、パンドラがワイングラスを持ちながら、静かに話したのであった。
「こんなにも綺麗な城があったのですね……初めてこんなにもゆっくりと見ました」
そう言われれば、そうだな。こうやって見ると大陸の城は、ルタイ皇国の城と違った美しさがある。
「そうですね、またルタイ皇国の城とは違った美しさがありますね」
「そうですか……ルタイ皇国の城は、お父様の知識で知っているのですが、実際には見た事が無いのですよ……」
知識で?あぁ聞いてと言う事か、姫様かなり酔っているな。
「そうですか、ルタイ皇国の城は、まぁ実戦しか考えていない城も在りますが、自然との調和が取れた美しい城も在ります。
姫様は、ルタイ皇国で生まれたのでは?」
「いえ、気が付けば地獄にいました……見渡す限りの不毛な大地に、血と死肉の香り、色々な者の絶望の声…それが当たり前でした」
地獄……確かにそんな所は、本当に地獄の様な場所だ、でも一体なぜ左大将殿は、自分の娘をその様な所に押し込めたのだろうか?可哀想に……
よし、俺に出来る事は、姫様の不満や全てを、男らしく受け止めてやろう。
「その様な所では、御辛かったでしょう……心中御察しします」
「いえ、バスティやテスタが居てくれましたし、テスタがリン達も連れて来てくれましたから、賑やかでしたよ。
少々五月蝿すぎましたが……。
でも今は、お父様にこの地に召喚され、お父様の知識が見れて、毎日が本当に楽しいのです。
悪魔と言われた私にも、我が子の様に普通に接してくれますし」
確かに、姫様のあの強さでは、幼き日より悪魔と言われて嫌われていたのかも知れない……だからか!
姫様は、物心つく前からその様な能力で、悪魔と言われて嫌われていた、だから左大将殿は、姫様をその様な地獄の様な土地に隠した。
でもバスティアンやテスタを側につけて世話をさせて、明るく振る舞わせていたんだ。
しかし、御自身が左近衛大将に昇進した事もあり、文句も言わせない立場になった事で姫様を召還した。
左大将殿、そんな事を一切表に出さずに、貴方は何れ程、素晴らしい御方なんだ。
「そうですか、それは良かったですね。こちらには、姉上様や素敵な奥方様が4人もおられて一気に家族が増えましたね。
そう言えば、他にもご兄弟がおられるので?」
「……上には兄が3人と姉が1人ですが、3人の兄は戦で討ち取られ、姉上は自決されたはず……唯一、呉服屋に預けられた、あのバカ姉が生き残りました」
俺……何て事を……。
「すみません、姫様のお気持ちを考えずに、その様な事を聞きまして」
「良いのですよ、私にはそう言った悲しいと言った感情や、人を愛すると言った感情が、解らないのですから……
お父様は、そんな私に感情を教えようとしていますが、所詮は悪魔……無理な話なのにね」
そう言ったパンドラは、フウと溜め息を吐いたのであった。
そうか、姫様は幼き日より地獄の様な土地にいたので、人としての感情が欠落しているのか……
「姫様……姫様は決して悪魔ではありません。
僭越ながら……わ、私も姫様の感情を取り戻すのを御手伝いし、た、足りない所は……わ、私が一生姫様に……姫様?」
左少将がパンドラを見ると、パンドラは静かに寝息を立てて酔い潰れていたのであった。
寝てるし……しょうがない、戦から戻って休み無しでだもんな。
だがいくら夏とはいえ、ここで寝ていては、姫様が風邪をひいてしまう……って事は……ですよねぇ。
そう思った左少将の目線の先には、ベッドルームへの扉があったのであった。
左少将は、ゴクリと唾を飲み込むと優しくパンドラを抱き上げて、そのままベッドルームに入っていったのであった。
――――――翌日――――――
窓から差し込む朝日で、ベッドで寝ているパンドラは目覚めた。パンドラは、悪魔なので普段は睡眠等を必要としていない。
だが、そんな悪魔でも睡眠は気持ちが良いものだ、ここは何処だろうと、パンドラは起き上がると、未だにボーッとする頭を働かせて昨日の事を必死に思い出した。
確か、昨日は清信と一緒に酒場に入って……そうだ、ワインを飲んだ。
そこから……そこから……ダメだ思い出せない、何かとんでもない様な事を言った様な気がする。
そう思い窓の方向をふと見ると、壁にもたれ掛かり寝ている左少将が目に入ったのであった。
清信……寝ている私に手を出さなかったのか、清信らしいな。
そう思いながら、自分の衣服に乱れが無いことを、確認したパンドラは毛布を手に取り、そっと左少将に毛布をかけて、部屋を後にしたのであった。
――――――――――――
ナッソーでの左近の邸宅では、左近は既に政務の為に左近衛府に向かい、残されたアイリスはベッドに横になっていたのであった。
最近、食事の匂いで吐き気がする……頭痛も酷いし、お風呂の匂いもダメになった……眠気も酷いし、私の身体は一体どうしちゃったんだろ?
アイリスがそう思っていると、寝室の扉をノックする音が聞こえたのであった。
「アイリス、起きてる?」
「ラナ?起きてるよ」
「チョッと、付き合って欲しい所があるんだけど、来れる?無理なら担いででも、連れていくけど」
「……解った、用意するから少し待ってて」
どうしたんだろう?今日のラナ少し変だ……何かあったのかな?
そう思いながらアイリスは、衣服を取り着替えたのであった。
「お待たせ……何処に行くの?」
「……良いから付いてきて」
そう言ったラナはアイリスを連れて、ナッソーの街に向かったのであった。
どうしたんだろう?さっきからずっと無言だ……何か怖い。
アイリスがそう思っていると、ラナは人気が少ない所で、アイリスに話し出したのであった。
「ねえアイリス……人間の女性は、年に一度の生理がある、私の様なダークエルフやエルフと違い、毎月生理ってあるよね?」
そのラナの言葉に、思わずアイリスは、無言で立ち止まってしまったのであった。
「アイリス、貴女と一緒に暮らしだして、その姿を見ていないのだけど……アイリス、貴女……子供が出来たんじゃないの?」
「それは……解らない……」
アイリスは解らないのでは無く、解りたくは無いだけであった。
それもそのはず、自分にはあの兵士達に凌辱された経験がある。もしも、左近の子供では無かったらと不安に押し潰されそうになっていたのだから。
「……まぁ良いか。私は貴女の事情は知っている、不安になるのも解る。
でもねアイリス、私はこのままはダメだと思うの、一度医者に見てもらって、安全に産んで欲しいと私は思っている。
だって、旦那様の子供の可能性が有るんだよ。
私は、ダークエルフ……ダークエルフやエルフは、その長い寿命と引き換えに、繁殖能力が、かなり低いの……特に他種族となら尚更。
はっきり言って私は、アイリスやセシルやセシリーが羨ましい。
私は旦那様の事を、他の誰よりも愛してると思っている……でも、私じゃ旦那様の子供は産めないかも知れない。
だから、旦那様との子供を宿したかもしれない貴女が羨ましいし、今の貴女の態度には、本当に腹が立つ」
「ご、ごめん……」
「謝る必要は無いよ、アイリス貴女も旦那様を愛しているから不安になっているのでしょ?その気持ちは解るけど、これから一緒に医者の所に行ってもらう。
嫌とは言わせないよ、大切な旦那様の子供の可能性があるからね……でもこれから行く医者は、このナッソーの娼婦御用達の医者だから口は固い。
一度診察を受けて、本当に子供が出来ていたら、旦那様に正直に言うかそれはアイリスが決めればいい……何なら私も同行してあげる。
だから逃げるな、立ち向かえ、アイリス」
そう言ったラナの目には、逃げれば斬ると言った、嫉妬が混じった殺気を纏っていたのであった。
「解った……」
そう言ったアイリスは、大人しくラナについていくしか無かったのであった。
アイリスとラナは、ナッソーの新市街の売春宿の建ち並ぶ路地にある、民家の2階にいた。
ここは、望まぬ子を孕んでしまった娼婦や女性達が、隠れてやってくるキッカと言う、鼻とその長い耳にピアスを開けている、エルフの女医の家である。
「ふぅ……」
そう言って椅子に座ったキッカは、葉巻に火をつけて二人に言ったのである。
「結論から言おう……アイリスさん、あんた妊娠しているよ」
その言葉は、アイリスにとって衝撃的であったが、アイリスは更に踏み込んで聞いたのである。
「それで、いつ頃妊娠したのか解りますか?」
「ん?アイリスさん、あんた変な質問するね……あぁそうか、そう言う事か。
今年の春って所だね、詳しい日にちは今の医学じゃ解らないんだよ」
そのキッカの言葉にビクッとしたアイリスを見たキッカは、青い液体の入った小瓶をそっと差し出し言ったのである。
「まぁここには、そう言った女性がしょっちゅう来る、この小瓶の液体を飲めばお腹の子供は……その先は解るだろう?ただしこれを飲めば、痛いぞ……心と身体が。
後は自分が決めればいい、後悔しないようにな。
もしも産むのなら、また私の所に来ればいい。ここででも、家ででも最後まで面倒は見てやる」
そのキッカの言葉は、アイリスの耳には届いていなかったのであった。
「アイリス……キッカ、ごめんね。幾ら?」
そう言ってアイリスの肩に手を置いたラナは、キッカに申し訳なさそうに言ったのであった。
「かまわんさ、こう言った女性は山のように見てきたからな。薬代込みで700シリングだ」
「高っ!もう少し何とかならない?」
「口止め料も入っているからね、これでも知り合い価格で安くしてやっているんだよ」
「しょうがないな……でもこの事は……」
「あぁ解ってるって、内密だろ。こう言った仕事は信用が第一だ、任せておきな」
ラナは、キッカにお金を支払い、二人はそのまま言葉を交わすこと無く、生駒山の人のいない所にやって来たのであった。
暫くは二人は景色を眺めて、何も話さなかったのであったが、アイリスがラナにポツリと言ったのであった。
「ラナ……何だか今日はごめんね」
「良いけど。アイリス、あんたどうするの?」
「やっぱり飲むしか無いよね……」
そう言ったアイリスは、岩の上に座って膝を抱えながら呟いたその声は、涙声であり。
何とか泣いているのを隠そうとしている声であった。
「でも、春って事はどっちか解らないんじゃ……」
「うん……旦那様と初めて出会ったのも春……でもそれまで、ずっと……毎日入れ替わりで……」
そう言ったアイリスは、顔を埋め声を殺して泣いたのである。
ラナはそのアイリスの隣にそっと座り、アイリスの肩を抱き締めて、アイリスに言ったのである。
「アイリス、どちらか解らない時は、旦那様に正直に言おうよ、もしかしたらって可能性もあるかもしれないし。
心配なら私も一緒にいてあげるからさ」
「……」
「旦那様とアイリスの子供かも知れないじゃない、アイリスの気持ちだけでおろすのは、旦那様が可哀想だよ」
その言葉にアイリスは、暫く泣きじゃくり、ラナはアイリスが落ち着くまで、肩を抱き締めてあげたのであった。
やがて、少し落ち着いたのアイリスは、ラナに言ったのである。
「ありがとうラナ……でもこの問題は、私達家族の問題だと思うの。
だからセシルとセシリーも呼んで、皆で……家族で話し合おう……」
そう言ったアイリスの目は、何かを決意した目になっていたのであった。
――――――――――――
左近衛府では、左近が各地から送られてくる情報の精査や、報告などに追われており、補佐役の左少将や関白、そしてエリアスやアミリアもその内容に意見していた。
その中で、今回はアデル達の帝都ナリアからの報告を審議していたのである。
内容は、帝都ナリアの城外で、メイドや魔女騎士団の騎士達が火炙りになって、無残にもその死骸が晒されていた事。
后妃の綾那・セレニティが、皇帝ルイスの手により、幽閉された事。
思いの外に、ダッチ達の盗賊行為が経済にダメージを与えており、食料の値段が急騰している事。
それに伴い、各地で不満が出始め、その不満を言った者の粛清を皇帝が断行している事。
叔父の、ラニス・セレニティ公爵が、粛清の危険を感じ、家族を連れて逃走したとの情報があるとの事であった。
そして、その報告を聞いたアミリアは、何とも言えない気持ちになっていたのであった。
「しかしラニス公爵の件は、良い方向に転んだな。しかしあの私掠制度がこんな効力を出すとは……これでは、帝国も戦争を続けるのが難しくなる。
左大将、まさにこれはジワジワと効いてくる、一見地味だが恐ろしい策だな」
そう言った関白は、満足そうに長い髭に手を当てて言ったのである。
国家間の戦争とは、武力の他にも経済等が関係する総力戦である、それを理解する者は如何程いようか、左近は戦国時代や近代戦を知っているからこそ、こう言った作戦をとったのであった。
「ありがとうございます。次はそのラニス公の保護をして、ここに臨時政府を作らせる事になりますが、その時は関白様にも御協力お願いします」
「それはかまわんが、左大将が仕切らねばならぬぞ」
「心得ております。左少将、すぐにアデル達にラニス公達を保護し、ここまで連れてこいと。
そしてその他にも、皇帝から離反したいと言う者も連れてきて、かまわないと連絡しておけ」
「承知しました。それと、左近衛府からも報告がありまして」
「何だ?パンドラと一夜を共にした言い訳か?」
その言葉を聞いた左少将は、心臓が飛び出るかと思うほど、焦りながら聞いたのであった。
「ど、ど、ど、ど……」
「落ち着け左少将。誰から聞いたのかは、戦勝パーティーで貴族の女性達が話をしていたのと、義父のスターク公が言っておったぞ」
その言葉を聞いた左少将は、いきなり左近に向かって土下座をして言ったのであった。
「そ、某は、天地神明に誓って姫様に手は出してはおりません!信じてください!」
「そんな事は、解っている…お前がそんな男じゃないと言う事は、皆が知っている、冗談だ許せ。
何なら手を出しても、お前なら良かったんだがな……」
「いやいや、ダメですよ、父親がそんな事を言っては。私は純粋に姫様の悩みを聞いただけです」
その左近と左少将のやり取りを見ていたアミリアは、エリアスと左少将は似ているなと思い、エリアスを見ると本人も解っているのか、アミリアから目線を反らしたのであった。
「と、とにかく……左近衛府からの報告です。キングスベリーのヒメネスは、この先の帝都ナリアに続く街道上に在る、城の城主達と知り合いの様で、内応工作を実行して、宜しいでしょうか?」
「あのヒメネスか……確かに、あの男は優秀そうだが、ガストン商会の良い噂は聞かないな。義父殿、信用できますか?」
「出来ます、情報でヒメネスは今まで偽りは申した事がありません。
それに正式な依頼でしたらこちらを罠にはめる事はしないでしょう。
そんな事をすれば、戦が終わって自分達が弾圧を受けるのが、目に見えていますし、今後の商売の信用問題になりかねません」
「……アミリアは、どう思う?」
「エリアスと同じです」
「左少将、お前はあのヒメネスは、どう感じた?正直に言ってくれ」
「あのヒメネスは、正直に言いますと何を考えているのか解りませんが、我等に従うのだけは間違いないでしょう。
全てにおいて補佐してくれる優秀な人材です……ただ、内政官と言うよりは、諜報機関でその才能を発揮できる者かと思います」
なるほど、俺が昨日あった時に感じたのと左少将は、同じ事を感じたのか。
「解った、内応工作は了承しよう。
ただし、こう付け加えてくれ。前皇帝の暗殺の真犯人は、元皇帝のルイスである、ラニス公は兄の仇を討つために立ち上がられた。
ラニス公は、貴公達にその中心になって欲しいとな。
それと左少将、そのヒメネスお前の補佐官に登用できる様に、何とかしろ」
「何とかしろって……例えば?」
「そうだな、例えば、ガストン商会の何かを理由にして、潰してもかまわん、その辺りはお前に任せる」
「相変わらず、えげつないやっちゃの」
関白が呆れてそう言った時であった、左近の執務室の扉がノックされて、ラナが入ってきたのであった。
「旦那様、今仕事中?」
「いや、大丈夫だが……何かあったのか?」
「……うん、チョッとね」
何だ?ラナが、こんな言いにくそうにするのは珍しいな。
「解った、今すぐに行こう。左少将、後は陣割の件だが頼むぞ」
「かしこまりました」
左近は、そのまま後の事を左少将に任せて、ナッソーの邸宅に向かって行ったのであった。
―――――――――
左近が邸宅に入ると、まだ昼間の囲炉裏の間には、アイリスとセシルとセシリーが座っており、その中でもアイリスは、足を崩さずに正座で座っていたのである。
その重苦しい空気を察知した左近は、アイリスの目元にある涙の跡を発見したのであった。
一体何があった?アイリス?
「アイリス、何があった?」
そう言って、いつものアイリスの隣に座った左近は、緊張の声を殺して聞いたのであった。
「大丈夫、アイリス?私から言おうか?」
そう言ってアイリスの肩に手を置いたラナは優しく言ったのである。
「大丈夫、ちゃんと言うから……旦那様、それとセシルとセシリーにお話があります」
何だ?セシルとセシリーは、知らないのか。
そう思った左近は、その空気を読んでか、普段よりも緊張して頷き、セシルとセシリーも頷いたのであった。
そうしてアイリスは、今まで多くの兵に凌辱された過去を、嗚咽混じりの涙声で話し出したのである。
途中からアイリスが何を言っているのかは、全く耳には入って来なかった。
俺は他の女性が、男に何をされようが、どうも思わない。
冷たいようだが、こう言った話は昔からある。
そんな事に、いちいち同情していたらきりがない……だが、今回は違った。
何やら自分の中の血流が激しくなり、怒りで我を失うのを必死で押さえていたのであったが、やっと聞こえたアイリスの言葉が、俺の最後のストッパーと言うべき心の防波堤を、木っ端微塵に破壊したのであった。
「……子供が出来ました、正直に言いますと誰の子供か解りません……」
そうってアイリスは、涙を流して俺に語りかけているが、何も聞こえない……何で?どうして?そんな言葉ばかりが俺の脳裏に浮かんでくる。
あ、ラナ達も顔が真っ青になって、俺に頭を下げて何かを言っている……何を言っているのだろう?そうか、俺は多分かなり酷い顔をしているんだ、鏡があったら一度見てみたいな……
そんな事を考えていたら、アイリスが泣きながら驚くべき事を言ってきたのであった。
「子供は、下ろします……ですから旦那様の側に居させてください……妻で無くてもかまいません、奴隷でも何でも良いですから、側に……側に居させてください、お願いします」
え?下ろす?何言ってるの?意味解らない……こういう時は、先ずは深呼吸だ、目を瞑ってヒッヒッフゥー……ってこれは違うだろ!
よく考えてみろ、俺も辛いがアイリスの方はもっと辛いはずだ。
危うく自分本意の自己中男になる所だった。
そう考えた左近は、アイリスに言ったのである。
「アイリス……お前も辛かっただろう、俺は……正直に言うとかなりショックだったが、お前の事を愛している、何処にも行かせない、ずっと側にいて欲しい。
子供は……」
そう言った左近は、一度唇を噛み締めて、言ったのであった。
「子供は、下ろすな……俺とアイリスの子供かも知れない……例え違ったとしても、俺の子として育てる」
「旦那様の子供じゃ無いかもしれないのに?」
「かまうものか、少なくともアイリスの子供は、間違いない」
「……こんなにも汚れたのに?」
「肉体の汚れなんて、洗えば綺麗になる。アイリスの心は、まだ綺麗なままだよ」
「もう、嫌だって言っても離れませんよ?」
「かまわない、望むところだ」
「私……かなり嫉妬深いですよ?」
「今に始まった事じゃないだろ」
「旦那様ぁ!」
そう言ったアイリスは、目に大粒の涙をボロボロと流して左近に抱きついたのであった。
そして左近は、そんなアイリスを抱き締めると、頭を撫でながら、優しく言ったのである。
「アイリス、すまなかった。こんな時こそ俺がお前の事を解ってやって、支えて行かなければならないのに」
「旦那様は、いつも謝ってばかりです……これからも末永く宜しくお願いします」
「あぁ解ってる……どんな事でも、この家族なら乗り越えて行けるさ」
そう言った左近は、アイリスを抱き締めながら、ラナ達に頭を下げたのであった。
そしてその翌日、フランド辺境伯軍が動き出し、止まっていた時間は急激に動き出すことになる。




