第8話 狼男
「今更何を言ってる? お前とこうして工房で、一体何をやってるって言うんだ?」
工房の2階で、ヤンはいぶかしむように言う。
だがファン・ラインの疑いの目の前では、彼がそういう演技をしているようにしか見えなかった。
「とぼけるな、それだけじゃないんだろう? そもそもお前はラストマンの工房にいた頃から、そんなに絵が好きじゃなかったはずだ。なのに何故、ここでこんな事をしている?」
「……だったら俺からもお前に質問がある」
ヤンはしばらく黙った後、伏し目がちにファン・ラインの顔を見て言った。「と言ってもさっきの質問の続きのようなものだが、お前は狼男事件のこと、どう思っているんだ?」
「お前までそんな事を聞くのか? くだらない、あんな事件どうだっていいだろう、この街の人間はそれしか言えないのか?」
「狼男の目的が分からない以上、この街の誰が次の犠牲者になるかわからないんだぞ。そんなのん気なこと言っていられるのは狼男本人だけだ。お前が犯人じゃないかと疑われたばかりという事を忘れるな」
「俺は自分が犯人じゃないと知っているし、疑われているのはお前も同じだ。一体何を考えている?」
ファン・ラインは語気を強めて詰問する。
ヤンが事件に関係しているとは思えないが、彼自身、謎めいた部分が多いことも確かだ。
「一体お前は何者なんだ?」
「その質問に答えられる人間がいるのか?」
ヤンは間髪入れずに答えた。
「お前だって狼男事件について調べていたんだろう? テュルプ博士のところに何度も検死に行ったことは聞いているんだ。 ――言っておくが俺には解剖学の勉強なんて言い訳は通用しないぞ、あれは普通、刑死した犯罪者の死体を使ってやるものだ。それを毎度のように猟奇殺人の被害者をそんな風に使うなんて聞いたことが無い。一体何が知りたかったんだ?」
ファン・ラインは狭い部屋の中をぐるぐると歩き回りながら考え込み、やがて立ち止まると振り向いて言った。
「まず一つ言っておこう。あれは狼男なんかじゃない、れっきとした人間の仕業だ」
「そりゃそうだろうな」ヤンは頷いた。
「だがお前がそう断言するからには、何か理由があるんだろうな」
「ああ、被害者の遺体には獣の噛み痕のようなものが残されていた事は知っているな?」
「もちろん知っているさ、それから獣のような爪跡も残されていたらしいな」
「その通り、俺とテュルプ博士はそれらの傷を詳細に調べてみたんだ。遺体に残されていた歯型のサイズは、普通の狼のものよりもだいぶ大きい。それといくつかの被害者の遺体に残されたその傷跡を調べた結果、傷痕は全て同じ道具、いや凶器によってつけられたものと分かった。 ――獣の爪跡のようなものは鋼鉄製の鉤爪、歯型も鋼鉄製の、おそらく狼の歯型の模型により、つけられた傷だろう」
「何故そんな事が言える?」
ヤンが疑わしそうに聞く。
「全てが同じ間隔、位置関係でつけられていたからだ。そんなことは、歯型はともかく獣の爪ではあり得ない。これは俺の予想だが、同一の鋳型で作られた複数の凶器によるものだろう。目撃証言によれば相手は一人ではないらしいからな」
「では現場に残された獣の毛はどう説明する?」
「別に毛を残していくぐらい、大した手間ではないだろう。ところでお前、東欧の民話に詳しいか?」ファン・ラインは急に口調を変えた。
「なんだ藪から棒に、別に詳しくはないが……」
「バルト地方のスラブ民族には、熊の毛皮をかぶる戦士集団の話が残っている。それからリヴォニアでは悪魔や悪い魔術師と戦う狼男の伝承があるらしい。それと連続殺人事件を関連付けるのは早計かもしれないが、俺が狼男と聞いて真っ先に思い浮かべたのがその話なんだ――。 割と有名な話だと思っていたんだがな」
ヤンは首を振って答えた。
「有名かどうかはともかくとして……、 前にお前が言っていたフランスとドイツの違いってのはそういう事か?」
「何のことだ?」
「前に言っていただろう、フランスとドイツでは狼男の解釈が違う、と」
ファン・ラインは記憶を辿り、ヤンと再会した居酒屋の出来事を思い出した。
「ああ、そのことか。ドイツの民間伝承ではさっきの話や昼間クックとかいうのが言っていたように、狼男は民衆のヒーローとして扱われることが多い。だがフランスでは悪魔の手先やキリストに対する反逆者というイメージが強いんだ。つまり悪者だな」
「キリストというより教会だろう、あっちの方では」
ヤンが付け加えるように言うと、ファン・ラインはそうだというように頷いた。
フランスやスペインは、時代によって多少の変動はあるが原則的に教会の守護者としての地位を自認しており、その統治者たる王家の人間も教会の後ろ盾を得て民衆の支持を受けている。
従ってかの国では教会の勢力が圧倒的に強く、他宗教には非寛容で、教会にとって異端とされた者は厳しい排斥を受けることが多い。
例えば魔女狩りや異端審問などがそうだ。
とは言えフランスも、新教徒と旧教徒の戦争では、教会の敵である新教徒の側についているのだから、一概にどうとは言えないが。
「此度の事件の狼男がどちらのイメージを模しているのかは知らないが、少なくとも今のところ被害者は全員、新教徒だ。連中が教会の意向で動いているとは思わないが、俺は連中が宗教がらみの動機で動いているんじゃないかと思っている」
「宗教ね……」
ヤンは壁に預けていた背をゆっくりと起こして言った。
「俺にはもっと卑近な理由でやっているように思えるんだがな」
「宗教が高尚なものだと誰が言った? 結局宗教なんてものは、状況がどっちに都合よく転ぶかについての指標でしかないさ。今回の件だって結局、次の犠牲者を決めるのは犯人の都合でしかないんだからな」
ヤンは笑みを見せて扉の方を向き、唐突に言った。
「そろそろ下が静かになってきたな、もうみんなのところに戻った方が良さそうだ」
そう言うと扉をくぐり、ファン・ラインを残して先に階下へ下りてしまった。
ファン・ラインはその背中を追いながら、結局人にしゃべらせるだけしゃべらせて自分は何も言わなかったヤンの背中を苦い思いで見つめていた。