第7話 光と陰
ファン・ラインの工房は1階のアトリエと2階の住居部分で構成されている。
2階にはファン・ラインの住居と、仕事で泊まり込む際に工房のメンバーが使用する仮眠室兼談話室があり、普段工房のメンバーが食事などする時は2階の談話室で摂ることが多いのだが、少々手狭の感がある。
1階のアトリエはそこそこに広く、めったに火を入れる事はないが暖炉も備え付けてあり、さまざまな絵具の匂いを気にしなければ、8人の男女が酒を呑んで騒ぐにはちょうど良い場所だと言えた。
「隊長! 始めに何か、面白いことでも言ってくださいよ!」
工房のメンバーの一人、ハーランが大声で言う。
ファン・ラインはためらいがちに応じた。
「隊長じゃなくて親方と呼べ ……そうだな、まずはみんなお疲れだった。肖像画は無事納品できたのもみんなのお陰だ。それからサスキアとコルネリア、君たちにも世話になった。せっかくだし今日は楽しんでくれ、それじゃあ今後のみんなの幸運と――」
「乾杯!」
「「「乾杯!」」」
「おい、俺はまだ……」
言いかけて諦めた。
2階から運んできたテーブルの上は既に、料理の上手いフェルナンが用意したご馳走で埋め尽くされている。
壁際にはワインの木箱が山と積んであった。船荷倉庫にしまってあった安酒をヘラルトが交渉して買い叩いてきたのだ。
暖炉は広いアトリエを隅々まで暖めるために昼過ぎから火を入れてある。
そして何より絵描きという慣れない仕事を、それも大きな仕事を一つ、苦労して成し遂げたのだ。彼らが成功を喜び、羽目を外したがる気持ちも分かる。
ファン・ラインは小さく杯を上げてみんなに倣い、一口で杯を空にするとテーブルの料理に手を伸ばした。
昼間の昼食会で出された料理も高価なものだけあって悪くはなかったが、フェルナンの料理だって負けてはいない。
フェルナンはベルギー生まれのスペイン人で、ファン・ラインを含めた工房のメンバーの中では最年長の、元スペイン軍人だ。
旧教徒から改宗し、新教徒軍に加わっていたが、誰も旧教徒の国であるスペイン出身の彼を信用せず、めぐり巡ってファン・ラインの部隊に入ってきた、奇特な経歴を持っている。
彼は料理とバイオリンの名人で、長い戦地での生活にまともな食事と音楽を与えてくれる貴重な存在であり、工房には無くてはならない存在であった。
彼ならどんな粗末な材料からでもちゃんと食べれる物を拵えてくれる。その事は長い戦地での生活で証明済みだ。
「ファン・ライン様」
貝の酒蒸しを試していると、サスキアの侍女のコルネリアが話しかけてきた。
「申し訳ありません、私まで押しかけてしまって……」
「そんな事は構わないさ、来てくれて嬉しいよ」
ファン・ラインは努めて優しい声色で答えた。
「それに、君はあのお嬢さんのお目付け役なんだろう? 君もだいぶ苦労しているね」
コルネリアはためらいがちに頷いた。
「仰る通りです。奥様はお嬢様に、ここへ来るための条件として私の同道を命じられました。もっとも私自身、リーフェンス様に誘っていただいてはいたのですが」
奥様というのはサスキアの母親で、亡くなった今も評判の高い前市長の細君のことだ。
この街では名家とされるアイレンブルフ家は現在、彼女が全ての決定権を持っていることはサスキアから聞いていた。
そんな彼女からすれば、年頃の一人娘がこんな時間に、こんなところで男たちと酒盛りしているなど、気に入るはずがない。
だがコルネリア自身は、自分の役目を正直に打ち明けたところをみると、それほどこちらに悪感情を持っている訳ではなさそうだ。
ファン・ラインはフッと笑って言った。
「気にすることはないさ、ともかく君も楽しめばいい。カレルには会ったことがあるか? そう、あそこの一番若くて顔のいい奴だ。君と年が近いから話が合うんじゃないかな」
そう言いながらムール貝を一つ取り、サスキアに目をやった。彼女は工房のみんなと笑いながら話している。
士官学校を出ているヤンを別にすれば、工房のメンバーは全員、上流階級の作法など身につけていないし、そんな必要もない連中である。
しかしそんな中で、アムステルダムきっての名家といわれるアイレンブルフ家のお嬢様が気楽に打ち解けている様子をファン・ラインは感心して見ていた。
何しろ普段ムッツリしているウィレムまでもが楽しそうにしているのだ。
彼のそんな顔を見たのは何年振りだろうか。
しばらくの間、テーブルの端で料理をつまみながらワインをちびちびやっていると、杯を片手にヤンが寄ってきた。
見ていた限りではそこそこ飲んでいたはずだが、彼の顔色は全くと言ってよいほど変わっていなかった。
「そんなところで物欲しそうな顔してるくらいなら、彼女に話しかければいいじゃないか、向こうだってそれを待ってるかもしれないんだぞ」
「俺がどんな顔してるって?」
「そんな顔さ。それはそうと今日の昼食会、どう思った?」
ファン・ラインは眉根を寄せた。
「またその話か? どうもこうもハラの探り合いばっかりでいい気分じゃなかったな、どうしてサスキアはあんなのに出たがったんだ?」
「別に彼女が出たがったわけじゃないだろう、彼女の父親が東インド会社に一枚噛んでいたという話だから、彼女はその娘としての義務を果たしただけだ。それよりも、何故彼らが俺達の出席を認めたと思う?」
ヒマ人達がちょっと珍しい趣向でメシを食いたいと思ったからだろう――
とは言わなかった。
そもそも出席するのに彼らの許可が必要だったことすら、ファン・ラインには初耳だった。
「そうだな…… 彼らは俺たちの従軍経験について、すでに知っていたようだ。戦争の話でも聞きたかったんじゃないか? 彼らの商売からすれば、戦争の雲行きは飯の種に直結する事柄だから知りたがるのも無理はない。そうでなくとも戦争に関わりのない人間に限って戦争の匂いを嗅ぎたがるものだからな」
それを聞いてヤンはフッと笑みを漏らす。
その笑みはどう見ても戦争に関わりのない人間のものではなかった。
「それもあるだろうが、それだけじゃない。彼らは狼男事件について、ひどく気にしているようだ」
「それは別におかしな話ではないだろう。アムステルダムに住んでいれば誰だってその事は気になるし、現に彼らと同じような商売をしてる被害者は何人もいる。身の危険を感じるのだって不自然なことじゃないはずだ」
ファン・ラインはそう言ってしばらく考えてから、思いついたように言った。
「まさか…… 彼らは俺達を疑っているのか?」
「そうだ。それも当然だろう、何の前触れもなくいきなり現れて、いつの間にかこの街に居座っている元傭兵の集団だ。狼男事件がなくとも誰だって怪しいと思う。違うか?」
ファン・ラインは昼間の出来事を思い返し、言った。
「だとしたら、あのクックとかいう男に戦歴を聞かれたとき、曖昧に答えたのはまずかったかもしれないな」
「仕方ないさ、どうせお前が嘘をついたって、すぐにバレるに決まってる」
「人の事言えるか? 何が物資の調達だ、あんなのちょっと調べれば、すぐに嘘だと分かってしまうぞ」
ヤンは驚いたような顔でファン・ラインを見つめる。
どうやら彼が嘘をついたことを見抜けるとは思っていなかったらしい。
だが彼はすぐに普段の表情を取り戻した。
「嘘と分かっても、その場で追求しなければいくらでも言い逃れはできる。それにどうせ向こうは海軍にいたところまでは確認するだろうが、その先まで調べることはないはずだ。そんなにヒマな連中じゃない」
ファン・ラインはそうは思わなかったが、特に何も言わなかった。
彼らだって商売柄、必要な情報を集めることには慣れているだろうが、ヤンの自信有り気な態度を見るからに、自分の過去を隠しおおせるだけの小細工はしてあるのだろう。
ふとテーブル周りのみんなに目を向ける。
テーブル上の料理はほとんど無くなっており、床にはワインのシミが点々としている。
みんな思いおもいに椅子を引き寄せて、座り込んでおしゃべりに興じていた。
サスキアも椅子に座り、ハーランと一緒に年若いカレルをからかっている。
その隣にはコルネリアが、酔いの為か顔を赤くして座っていた。
一瞬、サスキアと目が合い、何やら話したそうな目つきを見せたが、ファン・ラインは巧妙に視線を避けた。
こちらの話はまだ終わっていない。
「ヤン、少し二階で話さないか?」
「? おいおい、せっかくの納品祝いに親方のお前がいなくてどうするんだ?」
そう言いながらもヤンはその申し出を予期していたようで、すぐにファン・ラインの後をついて二階に上がる。
その様子をテーブル周りの面々が不思議そうに見ていた。
「それで―― 何の話だ?」
談話室の壁に背を預け、ヤンが言う。
椅子は全て1階に降ろしてしまったので、座る椅子がなかった。
ファン・ラインはヤンの前に腕組みして立つと、低い声で言った。
「簡単な質問だ。 ――お前はこの街に、何をしに来たんだ?」