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第5話 謀者たちの宴(前編)

 1594年、アムステルダムのとあるワインハウスでそれは始まった。


 ワインハウスに集まった9人の富裕商人達は、当時貴重であった胡椒をスペインの貿易制限やイギリス船の海賊行為に邪魔されることなく手に入れるため、独自に東インドへの航路を開くべく、会社を立ち上げて仲間から投資を募った。


 諸々の困難を経て航海を成功させると、国内では複数の会社が熾烈な競争を生み、現地での胡椒の買値が上昇、逆に本国での売値は下落していってしまうこととなった。


そんな状況を見かねた当時の国家元首、オラニエ公マウリッツはオランダ国内の複数の会社をまとめ、6つの支社で構成される一つの組織を立ち上げる。


 これが1602年、連合東インド会社の始まりである。

 アムステルダムは6つの支社の内の一つとして数えられているが、本社はアムステルダムに置かれており、資本金の半分以上を占めているこの街の東インド会社は、他の5社とは比べものにならないほどの規模を誇っている。



 ファン・ラインは今、そんな会社の役員たちを前に、窮屈な思いで椅子に縛り付けられていた。 

 ――もちろん比喩である。

 約2ヶ月をかけて完成させた毛織商組合の集団肖像画は、依頼主たちに概ね好評だったようで、昨日の昼には堂々の納品を果たした訳だが、その2ヶ月の間、サスキアは幾度となく工房に現れては、仕事に熱中するファン・ラインにすげなく追い返されていた。


 内緒にしていたはずの納品がサスキアにばれ、2ヶ月の埋め合わせとして、アムステルダム東インド会社の役員たちが顔を合わせる昼食会への出席を命じられたのが昨日の夕方のことである。


 「この私にあんな態度をとったんだから、このくらい我慢して頂戴、あなた達が戦争中に体験してきた諸々よりはマシなはずよ。それにどうせ次の仕事も探さなくちゃいけないでしょう?」


 結局逃げ出すことが出来ず、ファン・ラインは彼女の用意した上等な衣装を着せられ、これまた彼女の用意したアイレンブルフ家の紋章のついた馬車で、会社役員の集う昼食会への出席という栄誉を享受することに至った。

 しかしファン・ラインも始終黙って言いなりになっていた訳ではなく、ブツブツと文句を垂れるのを別にして、ヤンの同席だけは認めさせた。


 出席者たちの興味を分散させる撒き餌として彼を選んだのだが、そこはやはりと言うべきか、彼はファン・ラインらと同じ馬車ではなく、自分で足を調達すると主張した挙句に、当然のように遅刻しており、早々にファン・ラインにとってありがたくない雰囲気を作り上げていた。


「――君はどう思う?」


 急に声をかけられ、ファン・ラインは夢想から醒める。


 声をかけてきたのは向かいに座る肥った男だった。

 彼について紹介は受けたのだが、名前は忘れてしまっていた。


「東インドとの交易について、君の意見を聞かせてほしいのだ」


 周囲の目がファン・ラインに集中する。

 昼飯を食わせてやったのだから、何か面白いことでも言ってみろと言わんばかりだ。


 ファン・ラインは一つ咳払いして言った。

 「正直なところ、よく分かりませんね。私は向こうの情勢をよく知りませんので」


 これで何かから逃げられるとは思っていなかった。がっかりしたような表情が周囲に浮かぶのを見てファン・ラインは付け加えるように先を続けた。


「現在のヨーロッパでは、全体的に食糧不足が起こっています。ここアムステルダムではそういう事もないようですが、ドイツでもフランスでもイタリアでも、大きな街では人口が増え過ぎて自分の国では必要な穀物をまかなう事ができません。たぶん、戦争の影響もあるのでしょう。ヨーロッパでは、食糧を安定的に供給する手段を求めています――」


 ファン・ラインの視界の隅で扉が開き、ヤンがこっそりと入ってくる。

 案内役の給仕頭に席を示されると、彼は詫びるような笑みを浮かべてちゃっかり席に座り、ずっとそこにいたかのような表情で椅子にふんぞり返った。


「――つまりバルト海を渡ってくる、東欧の穀物の輸入です。

 穀物は利益率の高い交易品ではありませんが、買い手がつかなくなることはそうそうありませんし、食糧不足はまだまだ続くでしょう。私の考えでは今後、東インドとの貿易がバルト海とのそれを上回るほどの規模になるとは思えませんね」


 あまり東インド会社の役員を前にしてするような話ではなかったかもしれない。


 隣に座るサスキアは心配そうな顔をこちらに向けている。

 しかし当の役員たちはそう気を悪くした様子を見せず、逆に興味深そうな表情を見せていた。


 彼らとて、東インドとの交易に全てをかけているわけではないという事か。


「でも東インドの方が物価が安いし、土地も広いでしょう? 向こうから食べ物を運んでくればいいのではなくて?」

 あまりビジネスには詳しくなさそうな、豪奢なドレスに厚化粧の年増女が言う。


 役員たちは全員ではないが、細君をこの場に連れて来ている者が多かった。


「単純に遠すぎるのだ」

 年増女の夫らしき男が失言をたしなめるように言った。「十ヶ月近くかかる航路で食糧を輸送するのはリスクが大きすぎる」


 事情を心得た数人の男衆が頷く。

 ファン・ラインも控え目に頷いて言った。


「保存の問題を差し引いても、距離が遠いというのは諸々の点で不利になりますね。長い航路だとそれだけコストもかかります。そうなると1回の航海でどれだけ利益が上げられるかが問題となりますが、穀物のようにかさばるけど単価が低い物は利益率が低くなります。そのため向こうとの取引は胡椒や貴金属といった、単価が高いものに限られてしまうのです」


 女性の意見を真っ向から論破するのはあまり行儀がいいとは言えない。


 だがこれで一通り、役員たちの前での面目を保ったと言えよう。後はフォローだ。


「私は別に東インドとの交易を軽視している訳ではありません。ただ、私が自分の経験の範囲で言えることは、このくらいなのです。それに私は粉引き職人の息子です。私がどれほど穀物を重要視しているか、お分かりでしょう」


 席の間をしのび笑いが漂い、ファン・ラインも軽く笑みを浮かべながら、少し離れた席に座っているヤンに視線を送った。


――俺はやる事はやったぞ、後はお前が何とかしろ。


 ヤンは目配せに気付くと、了解したというように笑みを浮かべて頷いた。


「私もバルト海貿易の重要性についてはファン・ラインと同意見です。ヨーロッパで不足しているのは食糧だけではありません。森林資源の枯渇で、ボスニア以西ではほとんど木材を自給することは不可能になっています。とすればやはり、これもバルト海を通してスウェーデンの木材を手に入れる必要があるでしょう。 ――まあ船に財産の大部分を預けている皆さんに、わざわざ指摘するようなことはないと思いますが……」


 船は部位によって使用する木材は違うし、木の種類によって産地も変わってくる。しかし言うまでもないことだが、そのほとんどが木で出来ており、船のコーティングに使うタールもまた、木から作られる。

 そしてオランダは世界最大の船舶保有国だ。


 他の者が感心してヤンの話を聞いている間、ファン・ラインが安心して昼食をつついていると、サスキアがわき腹をついてささやきかけてきた。


「二人共、ちゃんと勉強してきたようね、上出来だわ」


「俺はともかく、ヤンは心配いらないさ。あれは昔から色んな事に通じてる奴だ。それにあいつは元々船や交易にも詳しい。絵描きなんぞよりよっぽど興味を持っているはずだ」


「あたしだって彼の事はそんなに心配してないわ、あたしはむしろ、あなたが金持ちを軽蔑するようなセリフでも言うんじゃないかと心配していたの」


「俺はむしろ、そういうセリフを期待されてるんじゃないかと心配していたところだ」


 金持ちの女は日常の退屈の埋め合わせに、ささやかなスリルを求めたがるという話を何かの本で読んだ覚えがある。

 彼女くらい金とヒマがあれば、これだけの金持ち連中と喧嘩するくらい、たまの娯楽と考えてもおかしくはないだろう。


「それはともかく、さっき言ったように俺は俺の経験の範囲で知ってる事を言っただけだ、別に遠い海の向こうなんて興味があるわけじゃない。ビジネスもな」



 ファン・ラインがヤンに目を向けると、彼は今後交易の中心地となりそうな、いくつかの港の名を上げているところだった。


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