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第4話 冷えゆくもの

 年が明けて2週間が経った。


 アムステルダムは日増しに寒くなっていっており、人々は分厚いコートを着た体を抱くようにして、通りを歩いていく。

 

 ファン・ラインはその光景を冷え切った工房の窓から眺めていた。

 

 借金して借りた工房は広く、作業するには充分な大きさを持っていたが、暖房効率の面から見れば更なる借金を重ねて広い空間を暖めるだけの薪代を捻出する事はできない。したがって工房の暖炉は未だに沈黙したままだった。



「そんなところでぼんやりしてないで、いい加減仕事したらどうだ?」

 椅子にかけて毛布にくるまっているファン・ラインを見かねて、ヘラルトが言う。

「いくらサスキア嬢が保証人になってくれているとは言え、借金してることには変わりないんだぞ」


「絵描きの仕事は絵を描く事だろ? 絵ならちゃんと描いている。そいつを見てみろ」


 ファン・ラインはアトリエの隅に置かれた、小品のかかったイーゼルを指差す。

 立派な身なりをした老婆の下絵で、ヘラルトは近くに寄ってその絵をまじまじと見た。


「何だか妙な匂いがするな。それにこの婆さん、一体誰なんだ?」


「俺の母親だ」


 白い息を吐き出しながら、事も無げに言ってみる。


 ヘラルトは信じられないというような顔で振り向いた。

「母親だと! いまあんた、母親って言ったのか? そんなもの描いて一体誰に売りつける気だ?」


「別にいいじゃないか。ところでお前の言うその匂いは多分、イカ墨だ。面白い色合いだろう?」



「……俺には絵の事は分からんよ」

 ヘラルトはやれやれと言うように額に手を当てる。

「それにしても俺は昔からあんたのことを変人だと思ってきたが、これほどとは思わなかったよ。工房の家計を預かる俺の身にもなってくれ」


「工房の勘定役なんて、みんなそんなものだよ。金勘定が嫌ならお前も絵を描いてみればいい」


 ファン・ラインが言うとヘラルトは御免だね、というように首を振った。

 彼との付き合いは長いが、彼は昔から絵に興味を持ったことは一度もなかった。


「生憎だが俺は変人とは違う。イカ墨のこともそうだし、死体を見に行くなんて真っ平だよ」


「死体…… ひょっとしてあのテュルプ博士の講義の事を言っているのか?」


 テュルプ博士はこの街の検死医を務める医師である。

 彼は法医学以外の分野にも博識で、この大きな街の中でも名医と言われている人物だ。


「人体を描くなら解剖学の知識は必要だ。それにテュルプ博士は名医と名高い人だし、教えを乞いに検死に立ち会ったって変人とは言えないだろう」


 彼らは昨日、ファン・ラインがとある事件で死んだ男の検死解剖に立ち会った時のことを話していた。


 ファン・ラインとしては別に興味本位で死体を見に行ったつもりはない。

 実際に人体を解剖して筋肉や腱、骨などを確かめることは、人体を描く上で役に立つことだ。


「だが解剖された男は狼男事件の被害者だったそうだな?」

 ヘラルトは目を鋭く細め言った。



 狼男の仕業と噂された連続殺人事件は年を跨いでも未だ続いており、アムステルダム市民はその脅威を現実のものとして受け入れようとしていた。



 昨日殺された男の名はアーリス・キント、鉄鋼製品の販売で有名な商人であり、なにやら独自の情報源を持っていて、それを元にひと稼ぎしていると噂される男だった。


 と言う事はつまり、オランダという国の武器輸出ビジネスに一枚噛んでいたということである。


 オランダはヨーロッパ一の武器輸出国であり、スウェーデン産の鉄鋼を武器の変えて売りさばくことで莫大な利益を上げていた。


 現在、ヨーロッパは新教と旧教の戦争で、どの国も喉から手が出るほどに武器を欲しがっている。

 オランダ自身は新教の側に与する国であったが、宗教的に寛容なお国柄もあってか、武器の取引は新教、旧教、どちらの側とも行っていた。それを良く思わない者も少なからずいるはず――。


 ファン・ラインは考えを追い払うかのように首を振った。


「あれが誰に殺されていようが死体は死体だ。ところでみんなはどうした? さっきからみんなを見かけないんだが」


「あんたがずっと母ちゃんとにらめっこしてたからだろ。ウィレムとハーランは買い物に行かせた、他はみんな2階で震えているよ。フェルナンやカレルなんかには、この国の寒さは堪えるだろうな」


「ヤンはどうした?」


「あの人は仕事を取りに行ったよ、サスキア嬢と一緒にな」


 ファン・ラインは驚きに目を瞠り立ち上がった。

「何だって! あの娘、また来てたのか? ――いや、そんなことはどうでもいい。あの娘が一緒だってことは、あれの―― アイレンブルフ家の名前を使って仕事を取るつもりなのか? 一体そんなこと、誰が許可したんだ!」


「俺だよ」


 事も無げにヘラルトは答える。

「サスキア嬢も快諾してくれた、ヤンの旦那ならしくじる事はないだろう。そういう意味ではあんたより彼の方が頼りになるからな」


「冗談じゃないぞ、そんな事で借りを作るなんて真っ平だ。今すぐ呼び戻して来い」


「もう遅いよ。だいたいあんた、サスキア嬢が毎日のように工房に顔を出しに来るか、考えたことがあるのか?」


「そんなもの知ったことか。でもホントに毎日来てるんだとしたら、お前よりもちゃんと工房に来てる事になるな」


 ファン・ラインが皮肉たっぷりの視線を向ける。


 だがヘラルトはそれを無視して言った。


「本当に毎日来てるよ、あんたが絵に夢中で気付かないだけだ」


 言いながらヘラルトは身振りで絵を指し示す。まるで母のせいだとでも言わんばかりの態度に思わず反感が口をついて出そうになったが、ヘラルトの機嫌が秒単位で悪くなっていくのが感じ取れたので控えることにした。


「せっかくサスキア嬢が工房の、いやあんたのために何かしようと来てくれてるのに、あんたがあんまり冷たいから俺達が代わりにあんたの為になることをお願いしたんだ。むしろ感謝して欲しいくらいだね」



 言い捨ててヘラルトは足音も荒く2階へ上がって行く。

 それを見送った後、溜め息を一つついて椅子に座り込むと、入り口のドアが開いてウィレムとハーランが入ってきた。


「ただいま戻りました―― あれ? 隊長一人だけですか?」

 ハーランが巨体を揺らしながら扉をくぐる。


 その様子を見ながらファン・ラインは呆れて言った。

「何がただいまだ、ドアの外で立ち聞きしていただろ」


「あれ、気付いてたんですか? じゃあ早く言ってくださいよ。外は寒いのに、二人とも話しが長いモンだから無駄に体が冷えちゃったじゃないですか」



 ヤン・リーフェンスを除く工房のメンバーは全員、戦争中はファン・ラインを隊長とする傭兵部隊にいた者であり、いずれもドイツの厳しい冬を経験してきている。


 その中でもドイツ高地地方出身のハーランはとりわけ雪や寒さに強く、雪中の偵察任務や雪山での野営の際、非常に役に立つ男だった。そんな男が何を言うのだろうか。


 ウィレムはスコットランド出身の無口な男だ。全般的に言葉の足りないところがあり、よほど重要なことでない限りロクに報告もしてこないような男だが、彼も高地地方の出身で、タフな事と目のいい事ではハーランに劣らず役に立つ男だ。


 彼は基本的に他人と関わったり興味を持ったりするタイプではないので、立ち聞きはおそらくハーランの提案によるものだろう。



「いいからさっさと扉を閉めてくれ。それと外でヤンと会ったりしなかったか?」


「俺がどうしたって?」

 開け放しのドアからヤンが、続いてサスキアが顔を出した。


「ヤン…… まさかお前達も立ち聞きしてたんじゃないだろうな?」


「立ち聞き? 何だ、面白い話でもしていたのか?」


 ヤンは全くの自然な表情で聞き返す。

 彼一人だったなら、おそらく信じていただろうが、こちらと目を合わせまいとするサスキアの様子からファン・ラインは、ヤンが嘘をついていることが分かった。


 という事は、立ち聞きはほぼ間違いなくヤンの発案だろう。



 だがこれ以上の追求は話をややこしくするだけだった。

 サスキアの前で先ほどの話を蒸し返したくはなかった。


「……もういいよ、それよりどこに行っていた?」


「計測所だ、あそこには金持ちの商人がたくさん顔を揃えているからな。お陰で仕事を取ってこれたぞ、毛織商組合からの依頼で集団肖像画を描いてほしいそうだ」


「そりゃあいい、組合からの仕事なら報酬も期待できそうですね」


 ハーランの喜ぶというより安堵するような顔を見るに及んで、ファン・ラインは気勢を失ってしまった。皮肉の一つでも言おうと思っていたのが、彼のその表情を見ては何も言えない。


「ご苦労だった。上にヘラルト達がいるから話してやってくれ、きっと喜ぶぞ」


 ファン・ラインが言うと、ヤンはハーランにチラと目配せをする。

 ハーランは何かに感づいた様子で言った。


「私らももう上に行きますよ、ここは寒すぎますからね」



 そう言うと二人は、さっさと階段を昇っていくウィレムを追いかけて行き、後にはファン・ラインとサスキアだけが残された。


 サスキアは地味だが趣味の良い、落ち着いた色合いの外套を着たまま立ち尽くし、ファン・ラインは普段着のシャツに作業ズボン、そして上着替わりに毛布を背中にかけて、椅子の上で丸まっている。

 その滑稽な光景は、絵にすればさぞかし人の興味をかきたてるだろう。




「……その絵、誰なの?」


 しばらく気まずい沈黙が続いた後、サスキアは思いついたように言いながらイーゼルに近付きながら言った。

「立派な身なりの人ね、貴族か誰かなの?」


「俺の母親だ。母は都市貴族の家の出で、実家が小金持ちなんだよ。今は粉引き職人の女房だがな」

ファン・ラインは近くの椅子を引き寄せてサスキアにすすめる。



 サスキアはしばらく感じ入ったように絵を見つめて言った。

「そう――、お母様なのね、なんだか優しそうな人。でも何故悲しそうな目をしているの?」



 サスキアに言われ、改めてファン・ラインは自分の描いた絵を見直す。

 自分でも気付かなかったが、確かにキャンパスの母は悲しそうにこちらを見ていた。



「確かに母はいつも俺のことをそんな目で見ていたな――」

 やがてファン・ラインは耐えられなくなって母親の肖像から目を逸らし、首を振る。



「いや、今も生きてるんだ…… そうだな、父も母も俺に法律家とか医者とか、もっと立派な職に就いて欲しかったらしいんだ。兄弟の中で唯一、俺だけが大学へ進学していたから。でも結局は大学もすぐに辞めてしまったし、画家になったり傭兵になったり―― そう言えば両親のそういう期待に応えたことは今までに一度もなかったな」


 ファン・ラインは自分が何故そんな個人的なことまでサスキアに話してしまっているのか、自分で理解できなかった。

 たぶん母親の絵の前にいるせいだろう。母の前ではいつも嘘がつけなかった。



「そんな事よりもさっきの毛織商組合の仕事の件だが、君が後押ししてくれたんだろう? すまないな、一つ貸しにしておいてくれ」


 サスキアは顔をしかめる。

「ちょっと、よして頂戴、貸し借りだなんて。あたしがそんなもののために何かしたと思ってるの?」


 ファン・ラインはうつむいて何も答えなかった。そうであればいいと思っていたなどと言えるはずがない。



 サスキアは明らかに不機嫌になって言った。

「どっちにしろ、あたしは組合のお偉いさんとヤンを引き合わせただけだわ、あとはほとんど彼一人でやったようなものよ。相手が同郷で話が合ったって事もあったのだけれど――」


「そうか、相手もライデン出身なのか。そう言えばあの町は毛織物の生産で有名なところだったな」

 ファン・ラインは自分がまるで、名前は知っているが行ったことはない土地について語っているような気がした。


 サスキアにはそれが、話題を変えようとして言っただけにすぎないと分かっているようだったが、それでもその口調に違和感を覚えたらしい。

 すぐにその話に乗ってきた。


「彼が話していたのだけれど、あなたはそこの出身なんでしょう? ひょっとして長いこと帰ってないのかしら?」



「ああ、大学を辞めてからすぐ工房に弟子入りして、それっきりだ」


「酷いひとね」


 サスキアがつぶやく。

 彼女の沈んだ表情を見て、彼女の父親は既に亡くなっているとヤンが言っていたのを思い出した。


 彼女にしてみれば、両親に会えるのに会わないというのは、贅沢以外の何者でもないということなのだろう。



 サスキアは気を取り直したように顔を上げた。

 彼女にとってもあまり触れたくない話題なのだろう。


「それで工房に入ってからはどうしたの? あなたの話を聞かせて頂戴」



「別に面白いことはないんだが――」ファン・ラインは億劫そうに言う。「ヤンから話を聞いてるってことは、そこでヤンと出会ったことも聞いているな?」


 サスキアは軽くうなずいた。


「その工房の親方はピーテル・ラストマンといって、ここらでも結構有名な画家なんだが、何でか知らないが政府の連中に顔が利いて、当時軍の仕事をしていたフレデリック・ヘンドリックとも顔見知りだったんだ。彼のことは?」


「――バカにしないで、自分の国の元首の名前くらい知ってるわ」


 そう言いながらも彼女は控え目に驚きを顔に表していた。

 それももっともだろう。人の生い立ちを聞いていて、まさか国家元首の名前が出てくるとは思いもしないだろうから。


「だろうな。彼はヤンの絵や、ヤン自身のことをえらく気に入っていて、彼を手元に置きたがった。そこを何故だかあいつは軍に志願して、当時は貴族しか入学できなかった士官学校にフレデリック・ヘンドリックの名前を使って入隊しやがった。そのとばっちりで入隊させられたんだ、俺は」


 サスキアは曖昧すぎる説明に、どうしてそうなったのか分からず考え込む様子を見せ、やがて一つの結論に達した様子で言った。



「あなた、優秀だったのね」


「とんでもない! 俺は工房でも士官学校でも全然だったんだ。最初は馬にも乗れなかったし未だに射撃はヘタクソだし、色々と酷い目に遭った。 ――ああ、一杯やりたくなってきた。もういいだろう、話は終わりだ」

 毛布を払って立ち上がると、ファン・ラインは宣言するように言う。


 サスキアもしぶしぶと言った様子で立ち上がり、もう一度、母の肖像を眺めると、思いついたように振り返って聞いた。


「ねえ、一つだけ聞かせて。士官学校を出たならオランダ軍に配属されるはずでしょう? 何故そうせずに傭兵になったの?」


 ファン・ラインは毛布を抱えて2階に向かいながら、振り向きもせずに言った。


「話はもう終わりだ」


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