第3話 対人戦闘
悲鳴の聞かれた方角へ駆けつけ、路地に入り込んだファン・ラインの目に映ったのは、どこぞの金持ちの所有物であるらしい立派な馬車、御者台から引き摺り下ろされる御者、ナイフを突きつけられて馬車から降ろされる二人の女性、そして馬車を取り囲む7、8人のガラの悪そうな男達だった。
「やめろ! お前達!」
ファン・ラインが叫び、強盗たちが一斉にこちらを向く。
敵がこちらに気を取られて動きを止めているわずかな間に、ファン・ラインは相手を観察し、状況を整理した。
――馬車から出てきた2人を加えて相手は9人、こっちは4人で内3人が足手まとい、御者は既に痛めつけられて地面に転がっている。女二人は腕を掴まれたままだ。暗がりでよく見えないが、相手の得物にナイフ以上に脅威となるものはなく銃は持っていないように見える。対するこっちは――。
そこまで考えてようやくファン・ラインは酒場に銃を忘れてきたことに気がついた。
どうせ弾は込めてないのだが、少なくともそのフリくらいはできたはずだった。
「そこまでにしておけ、じきに人が集まってくるぞ」
後ろ手にナイフを抜きながらじりじりと馬車に近付く。
普段から持ち歩いているナイフは、チーズやハムを切り分けるのには都合のいいものだが、対人戦闘には心許ない。
本来なら一発分の銃声で済むようなところをファン・ラインは慎重に言葉を選んで話しかけた。
「今ならまだ逃げ切れるかもしれん。ここで消えてくれれば私も邪魔はしない、だがこれ以上続けるつもりなら私が相手になってやろう」
「バカが、お前一人片付けるのにそう時間はかからねぇよ」
強盗の首領格と思わしき男が言う。何故彼がボスだと思ったかというと、彼だけが何もする気配がなかったからだ。
それはつまり、人を動かすのに慣れているという事ではないだろうか?
「だいいち助けなんか来るはずがねえ、ここはそういう街だ。お前みたいなよそ者でなきゃこんな面倒には首を突っ込むはずがないんだよ」
確かに彼の言うとおりで、先程の悲鳴からだいぶ経っているはずだが、他の人間は一向に顔を出す気配がない。それどころかヤンですら姿をみせる様子がなかった。 ――あの薄情者め!
首領格の男の言葉で、強盗たちの顔に元の凶悪な表情が戻り始めていく。
まばらに正気を取り戻していく様子から、相手に軍隊経験はないとファン・ラインは推測した。が、それにしてもやはり分が悪い。できれば直接戦闘は避けたかった。
「お前達、地元の人間か? ならここの官憲にも顔は知られていてもおかしくないな。言っておくが、君たちが奪った金を使うためには生きて安全にこの場を離れる必要があるんだ」
何か良い解決策が浮かべばと、ファンラインは時間を稼ぐために言葉を搾り出した。
「つまり私の側から見れば、私はお前達のうち誰か一人の死体を官憲のために残しておくだけで事足りるんだ。私とやり合った後で悠々逃げようなどと考えない方がいいぞ」
相手によく見えるよう、体の前でナイフをひらひらさせる。なるべく余裕のあるところを見せておきたかった。内心はそうでなかったとしてもだ。
小便を垂れ流して命乞いする自分や、血を流して路上に倒れている自分のイメージが頭に浮かんだとしても、それは決して表にだすべきものではない。
敵の首領はもう、議論はしなかった。
代わりに彼は部下に指示し、ファン・ラインを取り囲ませる。お陰で御者や女達に割く人数は少なくなったが、それでもいなくなった訳ではないので、彼女らが単独で逃げることはできないだろう。
そしてファン・ライン自身は動けなくなった。
状況はあまり良くなっていない。
必死に頭を働かせながら敵との間合いを測り、ゆったりとナイフを構える。仕掛けるなら分の悪い自分から仕掛けるべきだが、未だにその覚悟がつかない。
強盗たちの顔に徐々に狂気が浮かび上がる。
かつて戦場で見たのと同じ、人を殺すという大罪を自らに許容した表情だった。
発砲した人物はおそらく、緊張がピークに達した瞬間を狙ったのだろう。
一発の銃声が響き渡り、全員の動きが止まった。
「さあさあ、お開きの時間だ。あんまり夜更かししていると、だれかの体に穴が開くことになるぜ」
視界の奥の暗がりから2丁の銃を携え、ヤン・リーフェンスが現れる。
2丁のうち一丁はファン・ラインの歩兵銃で、姿を見せると彼はそれを脇に放った。落ちた銃からは真っ直ぐに煙が立ち昇る。
もう一丁は銃身の短い騎兵銃で、おそらく彼が隠し持っていたものだろう。
「さっきのは上に向けて撃ったが次は違う」
彼は銃を持ち上げ、女二人を囲んでいる敵の一人に狙いをつける。
彼が現れたのは路地の奥、馬車の陰からで敵を挟んでちょうどファン・ラインと対角になる位置だった。御者と女二人から近いので、もし戦闘になっても敵は容易に人質をとることができないだろう。形成逆転とは言わないが、状況は変わった。
「さあ消えるんだ、これ以上ここに留まってもお前達のためにならないぞ」
ヤンが言い、強盗たちは顔を見合わせる。次第に表情から先ほどの狂気が取り除かれていくのが分かった。
「お前達、引き上げるぞ」
首領格が決断する。
さすがに手馴れているのか、彼らの撤退は早かった。
後に残された5人の男女はホッとした表情で顔を見合わせた。
「やれやれ、英雄的行為もいいが忘れ物をするほど慌てるなんて―― 『銃無き我は役に立たず』ってな」
「遅れて出てきたクセに、口だけはよく回るんだな。それなら俺からも言わせてもらうが『遅刻はするな』、それから『人の物は大切に扱え』だ」
そう言いながらファン・ラインは自分の銃を拾い上げる。
スナップハンスロック式の銃は激発機構が複雑で、普通のフリントロック式や一世代前のマッチロック式よりも精緻な扱いを要するものだが、見たところ故障している様子はなさそうだった。
二人がヨタを飛ばし合っている間に、人質だった女の一人はうずくまっていた御者に手を貸して立たせていた。
「ありがとうございます、お嬢様。お怪我はありませんか?」
「大丈夫よ、それよりあなたの手当てをしないと――」
どうやら女は良家の娘らしい。もう一人の女はその侍女といったところだろう。
娘は肩にもたれかかったままの御者を支えながら言った。
「二人共どうもありがとう、本当に助かったわ―― ちょっと待って、コルネリア、手を貸して頂戴」
彼女はぐったりした御者を馬車に乗せようと苦労していた。
見たところ五十は越えている御者の老体に、これだけの仕打ちはこたえただろう。
「俺が手伝おう、ヤン、お前も手伝え」
4人で御者を馬車に押し込み、一息ついてからファン・ラインは言った。
「馬が無事で良かった。気がたっている訳でもなさそうだし、これならすぐに屋敷まで走れるだろう」
ファン・ラインは馬の首を撫でながら言う。
銃声にもさほど驚かなかったようだし、ひょっとすると、元は軍馬だったのかもしれない。
「だが御者をそっちに乗せて、誰が御者台で馬を操るつもりなんだ?」
「私がやるわ」
驚いたことにそう言ったのは侍女の方ではなく、娘の方だった。
「そんなにびっくりする事ないじゃない、この馬車は私の家の物なんだし、私だって馬くらい操れるわ。 ――そんな事よりお二人とも、お礼を言わせて欲しいのだけれど、お二人の名前を教えてくださる? それとも騎士道物語みたいに何も言わずに去って、名前を縫い付けたハンカチを落としていってくださるの?」
ヤンが苦笑いしながら答えた。
「残念ながら我々は騎士ではないですし、ハンカチも持っていませんので正直に答えましょう。向こうで銃を拾っている彼がファン・ライン、私がヤン・リーフェンス、二人ともライデン出身で、画家ですよ」
「あら、じゃああの人も画家なの? 私は画家っていうのはもっと大人しい人達だと思っていたわ」
「最近は画家も色々なんです。と言っても我々はまだ駆け出しなんですがね」
「それじゃあ画家の前は何を?」
娘は好奇心をむき出しにして聞いてくる。
ファン・ラインとしては、これ以上娘の詰問に付き合うつもりはなかったが、何か言う前にヤンに先を越されてしまった。
「私達は元軍人でしてね、まあこういう場面は慣れたものですよ」
――よく言う。
ファン・ラインは心の中でひとりごちた。遅刻癖は軍人にとって致命的だ。
さっきだって機を見て現れたと言えば聞こえはいいが、こっちは内心どうなるかと気が気でなかったのだ。
――まあヤンの言う通り、もう軍人ではない訳だが。
娘がこちらを向いた。
真っ直ぐに目を見てニコリと笑いかけてきた彼女にファン・ラインはギョッと身じろぎした。
さっきまでの騒動と暗がりで気がつかなかったが、彼女は相当な美人だった。
ある種の女性には、男共を畏怖させるだけの美貌を持つ者がいる。彼女がそうとは言わないが、ファン・ラインにとって彼女はそれに近い存在のように思えた。
「お嬢様……」
コルネリアと呼ばれた女が慎ましく娘の袖を引く。
こんな時間に路地で立ち話するような身分でないことを思い出させたいのだろう。
ファン・ラインにとっても、さっさとこの場を去りたい気持ちは同じだった。
「もう行った方がいい、この街に強盗があれだけしかいないとは思えないからな」
「――そうね、それにサミュエルの怪我の治療もしなければいけないわ」
娘は馬車でぐったりしている御者を見て言う。
その表情はこの場を離れるのを残念がっているように見えたが、或いはそう思いたかっただけなのかもしれない。
「機会があればまた会うこともあるだろう」
ファン・ラインはそう言ってしまってから、心の内で舌打ちした。
――なんて事だ、これじゃあまるでこの俺が、この妙な雰囲気をもつ娘とまた会いたがっているみたいではないか!
娘が再び笑顔を見せたことが、ファン・ラインの動揺を大きくした。
「できるだけ早くその機会をもちたいわ、それに今夜のお礼もしたいわね。今度私の家に来て頂戴。歓迎するわ」そう言いながら娘はファン・ラインの手を握った。
「私の名前はサスキア・ファン・アイレンブルフ、忘れないでね」
そう言って彼女はスッと手を離して御者台に乗り込み、手を振る。
ガタゴトと去っていく馬車を見送りながら、ヤンは隣でずっとニヤニヤしていた。
「あれがアイレンブルフの娘か、大した女性じゃないか」
「――知っているのか?」
ファン・ラインは何とか返事を搾り出す。心臓はまだ落ち着きを取り戻していなかった。
「もちろん、アイレンブルフ家はこの街じゃ一番の名家だからな。それにあの娘の父親はどこぞの市の市長をやっていた男で、かなり人気があったそうだ」
「つまり―― 裕福というわけか? 絵の顧客になるくらい?」
ファン・ラインはわざとまじめくさって言う。だいたい絵画などというものは、生活に余裕のある者しか買ってはくれないのだ。
「裕福な事は確かだろうな、だがその先は、どうやらお前次第のようだ」
ヤンはそう言うと、急にまじめな顔つきになって続けた。
「それはさておきお前も見ただろう。この街は裕福な街だが、誰もが繁栄を享受できる訳じゃない。さっきみたいな強盗がいれば夜盗の類もいる。ここを少し離れれば貧民街だってあるし、農村から売られてきた女達もいる。そのほとんどは戦争で居場所を失くした連中だ。
それにここは税金が高い。スペインとの長い戦争は終わっちゃいないからな」
「何が言いたい?」戦争と聞いてファン・ラインは苦い顔で答える。
「分かってるだろう? お前は戦争を逃れてきたつもりかもしれないが、そもそもこの国はまだ戦争中なんだ。気持ちは分かるが、何もかもから目を逸らしている訳にはいかないんだぜ」
「そんなつもりは……」言いかけて言葉が詰まる。
後に続く言葉が出てこないのを見てヤンはフウと溜め息をついた。
「それからもう一つ言っておくことがある。さっきのビール代は俺が払っておいた。後で返せよ」