第21話 新しい季節への誘い
季節が秋に変わった。
日差しも落ち着きを見せ始め、ハーレムの海と空は穏やかな表情を見せている。
再びハルス老人の下を訪れたファン・ラインは、今回は以前のような騒々しい居酒屋ではなく、海に面した彼の邸宅のテラスで日に当たりながら彼と向き合っていた。
「それで結局、ヴァニング・クック氏は行方不明という事になっているのかね?」
ハルス老人は安楽椅子にもたれて言う。日の下で見る彼は、居酒屋にいるときよりも老人という雰囲気が強かった。
「はい、表向きには狼男は死亡、彼はその事実を露見されたために逃亡し、その後の行方は知れないという事になっています。自警団の連中も口裏を合わせることに同意してくれましたよ。自分達が事件に関係していないという事の保証と引き換えにね」
「では彼は生きていると?」
「世間の知るところによれば、そうなります。彼を操っていたイングランド人も、死体を見つけるか、組合の連中がしゃべるかしない限り、彼が死んでいることを知ることはないでしょう。定期的に連絡さえ受け取っていれば深く探りはしないはずです。
その件に関してはあなたの教えてくれた情報が役立ちました。あれがなかったら、組合の連中は私達の言う事など信じてくれなかったでしょう」
「わたしは彼とイングランドの繋がりについて教えただけだ。彼のした事や、彼がどういう経路でイングランドと連絡をとっているかについては、君達自身で調べたのだろう?」
ファン・ラインは曖昧に頷いた。
実際にはイングランドとの連絡がどのように行われていたか、調べ出したのはヤンであり、通商船を介した連絡網を逆に利用して、イングランドに偽の情報を流すことを言い出したのもヤンである。
「ヤンは彼を生きたまま捕らえ、利用したいと考えていたようですが、ああいう状況になってしまっては仕方がないでしょう。
――そう言えば前に話した時には、奴が未だに海軍に所属している現役の情報将校であることは教えてくれませんでしたね」
「ほう―― 彼が直接そう言ったのかね?」
「いいえ。ただそうでもなければ、奴が他国のスパイを逆利用しようなんて考えないでしょう。たとえ献身的な愛国者でも一介の絵描きがそんな事を考えるなんて思えませんからね」
ハルス老人はフと顔に笑みを浮かべる。
手札を全て晒した訳ではない、とでも言いたげな、もったいぶった笑みだった。
「君の言う通りだ。しかし私にも事情があってね、あの時点では君に何もかもを伝える訳にもいかなかったのだ。 ――だが今回の件で、君という人間の立ち位置はおおよそ掴めたように思う。だから私も正直に話そう」
老人は椅子から体を起こし、チリンと呼び鈴を振る。
この昼間から酒でも飲むのだろうかとも思ったが、呼び鈴に応じて入ってきたのは使用人ではなく、見慣れた顔だった。
「やあ、ファン・ライン」
「ヤン…… 何故お前がここに――?」
ファン・ラインの問いかけにヤンは薄く笑う。
ハルス老人は身を揺すってヤンを振り向き、紹介するように言った。
「私ほどの大物の情報屋なら、海軍の将校と顔見知りでもおかしくはない―― というのは冗談で、実は私も彼も、同じ人間の下で働いていてね」
「同じ人間…… フレデリック・ヘンドリックですか」
ファン・ラインはオランダ国家元首の名前を呟く。
ハルス老人とヤンは同時に頷いた。
「ご明察、俺たちは彼の下で情報収集活動を行い、彼はその情報をもとに政策を決定する。言うなれば彼のスパイとでも言うところだろうな」
ヤンは空いた椅子に座り、落ち着いた態度で足を組む。
「それじゃあ狼男事件の事も?」
「もちろん、そのためにアムステルダムに来たんだ。正体不明の連続殺人者、そいつがあの街の治安を乱そうとしている事は分かっていたが、誰が何のためにやっているか、それが分からなかった。だから彼は俺とお前を送り込んだんだ」
「――待て、『俺とお前』だと? まさか俺を巻き込むことも折り込み済みだったのか?」
「そうだ、彼…… フレデリック・ヘンドリックはお前のことを覚えていたんだよ。洞察力と状況判断に優れた優秀な指揮官だとな。それにお前が旧教徒やハプスブルグ家との戦争に参加していたという事もある。彼もドイツで起きている事について色々と知りたがっていたからな」
ファン・ラインは溜息をついて俯いた。
フレデリック・ヘンドリックとは彼がまだ軍の仕事をしていた頃、士官学校で確かに顔を合わせていたが、そもそもヤンの付き添いで来ただけの自分にそれほどの印象を持っていたとは思わなかった。
彼は当時からヤンに目をかけていたが、国家元首になった今も傍に置いているということは、彼とヤンのつながりの深さを物語るものである。
つまりヤンは現在、政府の中枢に非常に近い位置にいるということだ。
「それじゃあ、絵を描くのはもうお終いか?」
ファン・ラインは顔を上げて聞く。
二人がピーテル・ラストマンの工房にいた頃、ヤンは才能を認められてはいたものの、本人はあまり絵を描くのに熱心ではなかった。だからヘンドリックに士官学校への入学を勧められ、それに応じたのだ。
今回だって、任務が終われば絵描きの真似事をする必要もない。
「いいや、お前さえ良ければ工房の方は続けていくつもりだ。今回の件でよく分かったが、今後の情報収集活動の中心はアムステルダムに移っていくだろう。その拠点として利用させてもらうさ」
別にヤンが工房に残るのを歓迎する訳でもないし、工房をそんな風に使われるのを嬉しく思うわけでもないが、ファン・ラインは何故だか安心したような気分を覚えた。
おそらく絵描きとしての感情がそうさせたのだろう。
どういう理由にせよ、同じ絵描きが絵を描く事をやめてしまうというのは、あまりいい気分ではない。
ヤン自身はあまり絵が好きではないようだが、それでも工房にいる間は描き続けてはいたのだ。
「そんな事よりもファン・ライン」
ヤンは身を乗り出して言った。
「お前にどうしても聞きたい事がある。お前はクックの過去を知っていた。だがどうやって奴が狼男事件の糸を引いていると知ったんだ? 何がクックと狼男事件を繋げたんだ?」
ヤンの様子を横目に見ながら、先程から黙っていたハルス老人も口を開く。
「確かにそれは気になるところだ。ヤンの話によると彼はあの夜、事件への関与について明白に認める発言はしなかったそうじゃないか。つまり彼がいなくなった今、彼と狼男を関係付ける決定的な証拠は今のところ存在しない事になるな」
ヤンが隣で弱々しい笑みを見せる。
ハルス老人がヤンの上役なら、今の言動はヤンの手落ちに対する叱責ということになるからだろうか。
「残念ながら…… 今後もそのような証拠は見つからないでしょうね」
ヤンに対する多少の気遣いもあるので、多少の申し訳なさを滲ませて言う。
「そもそも私は彼と遭遇した時点で、彼の事を殺すつもりでいました。それは狼男事件とは全く関係なく、ただ戦争中に彼が為した事が許せなかったからです。だから私は、彼を始末する方便を必要としていました」
「それじゃあ、お前が狼男事件の事を色々と調べていたのは――」
「別に調べていたわけじゃない、ただ俺のする事なすことをみんなが色々言ってきただけだ。
だけどクックに遭っちまったばっかりに、事件を利用して彼を犯人に仕立てて正当防衛的に彼を始末する事を思いついちまった。
そのための準備の過程で、本当に彼が事件に関わっているらしいと分かったわけだ。別に俺は犯人を探していたわけじゃないから、決定的な証拠なんて必要なかったんだ」
「――なんとも酷い話じゃないか。彼と共に真実は闇の中、いや彼が狼男と関わっていた事は事実だから、全く運のいい事だ」
ハルス老人は笑い出し、安楽椅子が大きく揺れる。
「しかし闇の中と言えば、彼はその後どうなったのだね? ――つまりは彼が死んだ後のことだが、もし彼の死がイングランドに知れれば……」
ハルス老人の質問にファン・ラインはヤンと顔を見合わせ、テラスの外に目を向けた。
「奴がどういう動機で彼がイングランドのために動いていたか知りません。でも彼にも彼なりの理由があったはずです。 ――もし彼が、そのために働いていた国に辿り着ければ、それはある意味幸いな事かもしれませんよ」
方角的には西になる、その視線の先には北海が広がっている。
そしてその先にはブリテン島があるのだろう。
現実的にはそこに辿り着く前に魚のえさになっているか、そうならなかったとしても水中で膨れ上がり、ふた目と見られない姿になっているはずだが、それはここで口にする必要はない。
ハルス老人はファン・ラインの言い回しに影響されたのか、少しばかり感傷の混じった目で海を眺める。
一介の画家として絵を描き、情報屋として人々の話を聞きながら国家元首のために働く彼の国家観は分からないが、彼の内にも愛国心のようなものがあるのかもしれない。
「動機か……」
しばしの沈黙の後、ハルス老人はファン・ラインに目を向け、口を開いた。
「時に君は以前、戦争が嫌になったからこの街に来たと言ったね。それは今も変わっていないのかい?」
「それは…… 以前にお話したとおりですが……」
突然の話のなりゆきに当惑しながら答える。
ハルス老人は顔から笑みを消し、真剣な表情でファン・ラインをジッと見つめる。
ヤンにも話の向きが分かっているようで、同じ様な態度でファン・ラインを身ながら黙り込んでいた。
「閣下は――」
ハルス老人はフレデリック・ヘンドリックを敬称で呼んだ。
「――彼は現在、この国とスペインとの戦争を始め、大陸全土を覆う戦禍を終わらせたいと考えている。もちろん我々や新教徒国家に有利な形でという前提はあるが、それで戦争を終わせられる事には変わりない」
「つまりその手伝いをしろ、と?」ファン・ラインは察して言う。
ハルス老人は頷いた。
「閣下はフランスやその他各国と攻守同盟を結び、実際にこちら側の優位を作り上げようとしている。イングランドとの同盟もその一環だ。それと同時に戦争終結に向け、各国との調整を図っている。
今回の件で分かったと思うが、戦地から離れたからといって戦争から逃れられるとは限らないのだ。一見平和そうに見えるアムステルダムの街でさえ、戦争の話題からは逃れられないし、影響も受ける。人も死ぬ――」
ふと老人は再び海の方角に目を向け、遠くを見つめた。
「この国は小さい。とても小さいから、たとえスペインから独立したとしても、他国との様々な繋がり無しでは存続し得ないだろう。そして大陸のどこかで戦争が続く限り、この国はその影響を受けずにはいられない」
「――国とか宗教とか、そういうのは私の知ったことではない」
ファン・ラインは間髪入れずに口を挟む。
「国のためとか神のためとか、そういうのは立派な事のように聞こえますが、そこには自らの意思が欠けているように思うのです。それは私にとって、殺したり殺されたり、あるいは一生を懸けたりする理由にはならないのですよ」
ファン・ラインの反論は、それまで黙っていたヤンの言葉を引き出した。
「だが実際にそのために人が死んでいるんだ。お前がそれを黙ってみていられる人間じゃない事はよく分かっているよ」
「勝手に人を聖人君子みたいに言うな」
ファン・ラインは言い返す。
ヤンの言うことにも一理あるだろう。
宗教や国家、そう言ったもののために争いが起き、人が死んでいる、いや殺されているのは事実だ。
しかし宗教や国家が人々の生活の基盤となっているのも事実だ。
ファン・ラインがいくら宗教や国家とは無縁のところにいても、戦争は否応無しに人を巻き込む。
「どうだい? ファン・ライン君、閣下や我々は君の力を必要としているのだ」
ハルス老人が言う。
「……いいでしょう。但し工房の仲間と相談してからです。 ――それと、アムステルダムでの生活は続けさせてもらいますよ。どのみち借金はまだ残っていますからね」
ファン・ラインが言うとヤンはいつものニヤニヤ笑いを向けてきた。
おそらくファン・ラインがアムステルダムに留まる理由について、彼なりに想像したのだろう。
だが自身の心情について彼が余すところなく知っていたところで、それを口に出すつもりは毛頭なかった。




