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第17話 闇に潜む



 月の明るい晩だった。


 湿気を帯びた生温い夜気が体にまとわり付き、あまり気分のいい晩ではない。だが下にいる者達はもっと暑いだろう。


 ここは4階に相当する高さがあり、海から来る風が多少吹いてくるからまだマシだが、下で建物に囲まれ息を潜めている者達にはそれがない。

 4階に相当する高さという表現は、実際には建物の4階にいる訳ではない。

 ヤンがカレルと共に腹這いになっているのが、3階建てのアパートの屋根というだけの事である。


 二人はそこで、サスキアの家を監視していた。


 そこはアイレンブルフ家のアパートの西側にあたり、身を隠しながらほどよく通りを見渡すことができて、尚且つアイレンブルフの家に変事ありとなった場合、バルコニーを伝って直接彼女の家に飛び込めるという利点がある。



 ヤンはそこで見張るようファン・ラインに命じられた際、こう言ったものだ。

「確かにあそこは監視に絶好の場所だ。高所にあって通りから発見されるおそれもなく、ついでに脇道の様子もうかがえる。だがお前は俺に、他人様の家の屋根で泥棒まがいの曲芸をやれって言うのか?」


 その時ファン・ラインはこう答えた。

「泥棒まがいは無理でも、道化の真似事は得意だろう? 黙ってやれ」



 他には脇道に二人と通りの向かいの建物の影に一人、また通りの西側と東側を見張れる場所に一人、それに脇道から更に外れたアパートの裏手にファン・ラインが一人で張り込んでいる。


 全員が武装し、黒く塗った船員用の雨合羽を着用しており、闇に紛れて人に見られるおそれもない。


 待ち伏せの態勢は整っていると言えよう。しかし懸念がないとは言えなかった。


「本当に敵はここを襲いに来るかな?」ヤンは小声でカレルに話しかける。

 高さがあるので余程耳が鋭くない限り、下から聞こえることはないと考えてのことだ。

「これで狼男が他所で人を襲いでもしたら、俺たち全員笑いものだな」


「少なくとも隊長は今夜、連中がここに来ると考えているようですね」

 カレルも声を低くして答える。

「そうでもない限り全員をここに配備するなんて大胆なことはしないでしょう。もっとも何故そう考えるかについては、隊長にしか分かりませんがね」


 それでもファン・ラインの考えについて、ある程度の推測は可能だ。


 今日のように月の明るい晩は、闇に紛れて動くには好都合と言える。灯り無しに見通しがきくし、光があれば陰も濃くなり身を隠すには絶好の夜だ。


 相手にとっても、こちらにとっても。



 だが実際のところ、推測は推測に過ぎない。

 夜のアムステルダムの町並みを眺めるのに飽きたのかもしれないし、星占いがそう告げたからかもしれない。考えてみれば今夜は、星の巡りがとてもいい。


 それに彼については他にも懸念すべき事があった。

「なあカレル、君は敵を捕捉した場合、何か指示を受けているか?」

 

 カレルは首を振った。

「何も言われてないです。ただ明確に言われたわけじゃないですが、今までのやり方からすると家の人間の安全が最優先事項のはずですね。いつもの隊長のやり方ならそれは揺るがないでしょう」


「つまり敵に接触したら撃っていいという事か? 確保せずに」


 カレルは少し考え込むような表情を見せたあと、きっぱりと言った。

「機会があればそれに越したことはないと思います。でも、いつも隊長はそれほど詳しく指示を出したりしませんからね、その辺りは各人の判断に任せていると解釈して構わないはずです。もし敵の拘束を望むのであれば、隊長はそう言うでしょう」


 ――そこが妙なんだ。


 ヤンは胸の内で考える。

 狼男事件やカトリック襲撃にはファン・ラインの言うとおり、必ず糸を引いている人間が存在する。

 なのにその糸を手繰るための手掛かりを殺してしまえと言うのであろうか。


 おそらくカレルもヤンと同じ懸念を抱いているだろうが、彼は彼でファン・ラインに対する忠誠心から、口には出せないのであろう。


「もしかしたら…… ファン・ラインには犯人の目星がついているのかもしれないな」


 ヤンの言葉に、カレルはまたも考え込む様子を見せる。



 今度のはさっきよりも長く、ヤンはカレルの返事を待ちながら、何か怒らせてしまったのではないかと気を揉んだ。


 静かな夜で、時折風の音が聞こえてくるのと、階下で何も知らない住人がいびきをかいている以外、物音一つ聞こえない。



 全員がマスケット銃と剣という大荷物を抱えているはずなのだが、いくら動かないからといっても、それだけの装備を物音一つたてずに持っていられるというのは尋常ではない。

 ヤン自身は身じろぎする度に腰に帯びた剣がカチャカチャいうので、剣を外して脇に置き、銃だけを抱えていた。


「そうだとしても…… おかしくはないですね」


 長い沈黙のあと、カレルは呟くように言った。

「そんなに色々としゃべってくれる人じゃないですからね、将校っていうのはそういうものなんじゃないんですか?」


 カレルに若々しい顔に笑みを浮かべて言う。

 その表情にはファン・ラインへの信頼が宿っているのが見て取れた。



 確かに将校が部下に対して隠し事をするのは珍しくない。


 だがそういうのは大概、自分の弱さや落ち度を隠す事で、部下に言うことを聞かせるためのものである。

 作戦の重要な部分を部下に話さないということも無いではないが、有能な傭兵部隊の指揮官として知られる彼には似つかわしくない。



 突然、カレルは身振りでヤンに黙るよう指示した。


 ――来た。


 ヤンは反射的に身を固くして備える。

 姿も音も確認できないが、彼らには見えているのだろう。


 やがて脇道の方から、しずしずと馬車がやってくる音が聞こえてきた。

 狼男ではないと思い一瞬気を緩めかけたが、カレルの顔から警戒の色が消えないのを見てヤンはハッとした。


 ファン・ラインらをおびき寄せるための策略であれば、サスキアらを殺すのではなく拉致する方が妥当だと言える。

 拉致が目的であれば馬車くらい用意するのは当然だし、幌の中なら人目に晒されることもない。


 ――何故こんな簡単なことに気付かなかったのだろう。


 ファン・ラインは当然のように気付いていて、通りの方まで監視をさせていたのだ。

 さっきまでとは違う、若さを感じさせないカレルの表情からすると、彼も同様なのだろう。


 音を立てぬよう細心の注意を払って脇道を覗き込む。


 馬車はゆっくりと一定のペースで近付いてきた。

 御者台には黒っぽい正装の男が一人見える。


 まるで葬儀屋を思わせる男の様子は、何か不吉なものを感じさせた。

 馬車の後ろは幌で覆われていて、中の様子までは分からない。

 おそらくその中に何人いるか知らないが、誰かしら乗っているのだろう。



 馬車はファン・ラインが潜んでいる辺りを通り過ぎ、脇道のウィレムの横を通り過ぎると、通りに入る2、3メートル手前で停まった。


 御者が後ろを向いてぼそぼそとしゃべりかける。すぐさま幌の中から毛むくじゃらの何かが4つ、すっと出てきた。


 馬車の向こう、脇道の奥で低い口笛が響く。ファン・ラインの合図だ。


 カレルが勢いよく起き上がり、膝射の状態で銃を構える。

 ヤンも一拍遅れて同じ体勢をとった。

 ファン・ラインとウィレムは既に脇道に飛び出して毛むくじゃらに狙いをつけている。


 通りの向こうからはやはりハーランとフェルナンが走り寄ってきて、馬車の左右に分かれて御者と馬に狙いをつける。

 完全に馬車と人間を包囲した形になった。


「一度しか言わない、装備を捨てて投降しろ」


 ファン・ラインは脇道を塞ぐように立ち、狙いをつけながら言う。


 ヤンの知るファン・ラインの射撃の腕前からすれば、彼の立つ位置からだと誰一人当てる事は叶わないだろう。彼の射撃の下手さは、士官学校でも有名だった。

 だが今、その事を相手に知らせてやる必要は全くない。


 ヤンは狼男と思わしき男達を観察した。

 何の事はない。おそらく狼のものであろう毛皮を頭からかぶり、金属製のカギ爪を腕につけ、内の一人は鍛冶屋が使うやっとこのような物を懐に隠している。銃を持っていることはなさそうだった。



 狼男たちもさすがに待ち伏せされていたとは思っていなかっただろうが、かと言って動揺している様子は見せなかった。

 もちろん投降するつもりもないだろう。毛皮の影でキラリとカギ爪が光る。



 全く合図らしきものは見られなかった。


 敵は同時に、飛び跳ねるようにして馬車から離れ、散開してファン・ラインとウィレムに向かっていく。

 御者までもが懐から短剣を抜き出し、一番近いハーランに向かっていった。



「撃て!」


 ファン・ラインが叫ぶのとほぼ同時に全方位から、というのはつまり狼男たちにとってということだが、バネ仕掛けの激発機構が作動して火薬の爆ぜる音が聞こえる。

 狭い脇道が、黒色火薬の放つ閃光に包まれた。


 今度ばかりはヤンも遅れをとるような事はしない。

 一斉に4人の標的が吹き飛ばされる。


「一人まだ動いているぞ!」


 ウィレムが叫んだ。

 彼がそんな風に叫ぶのを初めて聞いたのだが、そんな事に感心していられない。

 まだ動いている狼男はヤンが狙いをつけていた相手だった。


 もっとも外したわけではなく、左肩を狙って見事命中したのだが、それで戦いを諦める相手ではなかったという事だ。

 丸ごと肩が吹き飛ぶという事はなかったが、もしこの先、生き残ったとしても左肩が動くことはないだろう。

 尋常でない量の血を流しながら、それでもその生き残りは片手を振り上げてファン・ラインに向かっていく。


 だが当の本人は自身の銃を捨て、ゆったりと構えてその場から動く様子を見せなかった。


「ファン・ライン!」


 ヤンは隠し持っていた騎兵用の短銃を懐から抜き出すと同時に激鉄を起こす。

 狙いをつける瞬間、もう1発の銃声が鳴り響き、最後の狼男は真後ろに吹っ飛んだ。


 もはや生気のない肉体が、グシャっと音を立てて地面に倒れこむ。


 ファン・ラインがゆっくりと構えを解き、急ぎ接近戦を仕掛けようと動き出していた他の者も落ち着きを取り戻した。

 カレルも剣を抜きかけていたのだが、一体どうやってここから降りるつもりだったのだろうか。



 狭い路地から最後の銃声の残響が消え、あるべきものがあるべき場所におさまった。


 馬はおそらく元は軍馬だったのだろう。

 あれだけの銃声にもさして怯えず、ハーランが落ち着かせるとその場に留まっていた。


「助けてくれたのには感謝するが、危うく俺に当たるところだったぞ」

 ファン・ラインが落ち着いた声で言う。

 彼の背後で人影が動き、闇の中からヘラルトが銃を担いで現れた。


「お前が余計な動きさえしなければ絶対に当たることはなかったさ。それにしてもこいつら、かなり訓練されているな、すごい動きだった」


「訓練されていた、だろう? 確かに動きも早かったが、何よりこいつら、やられるまで一言も発しなかった。包囲されても冷静さを失わなかったし、おそらくこいつらも戦争で鍛えられた連中なんだろうな」


「ファン・ライン、人が出てきてますよ」

 カレルはスルスルと壁を伝って脇道に降り立つ。


 ヤンもそれを追って降りるとファン・ラインに言った。

「逃げるか言い訳の準備をしておいた方がいいんじゃないか? 俺たちが狼男を待ち伏せていたなんて、信じる奴がいるとは思えないぜ」


「信じる他無いだろう、現に奴らの死体がここにある。言い訳も必要ないさ」


「でも説明くらいはしてくれるんでしょうね?」


 ギョッとして振り向く。

 いつの間にかサスキアが、寝巻きの上にガウンを羽織った状態でアパートの外に出てきていた。


 隣には怯えた表情のコルネリアもいる。


「悪いが説明は後だ。それよりも灯りを持ってきてくれないか? 死体を詳しく見てみたいんだ。これが……」

 と身振りで路上に転がっている死体を示す。「本当に狼男だったのか、確認しておきたい」


 サスキアは初めてその場の凄惨な光景に気付き、顔を青くする。

 だがさすが気丈な彼女のこと、すぐに気を取り戻し、コルネリアに命じてランプを持ってこさせた。


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